ちあの散歩道

輝いてアラカンヌ☆ありがとうの言葉を添えて暮らしのドアをそっと開けると今日も豊かな感動と新しい気づきが待っています。

旅⑧  ハプニング2 和傘工房を取材

2007年06月17日 | モノ・雑貨・道具

旅にハプニングと出逢いはつきものです。
中津市で私は故松下竜一氏のお墓参りをしたあと、市内をブラブラと散策しました。
中津は福沢諭吉を生んだ町としても有名で「福沢旧邸」の門の辺りまで歩いたところで旧邸の土塀の隣りに「和傘工房朱夏」ののれんを見つけ、思わず見学を申し出ました。

実はある企画「ザ・職人」で全国の職人さんを取材して記事を書くことになっていたのですが、少し行き違いがあり私の中に納得の行かないことが起こり、その依頼を中断して気持ちが乗らないままになっていましたが、こんな素敵な工房を見つけてしまうと眠っていた取材の虫がぞろぞろと起き出してしまいました。取材をしなければ深い話をきくことが出来ず、モノヅクリに興味がある私は迷った末に記事を書くことを決め、取材を申し込みました。
明治中期の家屋を改造して和傘づくりの工房にしたという「朱夏の会」代表の今吉氏に和傘づくりの行程や材料、和傘の現状などを1時間にわたって伺うことが出来ました。
和傘(蛇の目傘)の工房は、今は全国に10軒位しかないということも判り、城下町中津でただ一軒しか残されていなかった江戸時代から続いた和傘屋さんが高齢化のため製造をやめてしまったことを知った今吉さんは、今から4年前不動産業のかたわら独学で試行錯誤の末に和傘づくりを伝統工芸として復活させた人だということも取材の中で伺う事ができました。

取材を受けていただくために私が用意しなければならないこちら側の資料も差し上げることが出来ないままの突貫取材にも関わらず、会議を中断して快く取材に応じて下さり、出逢いの妙に心より感謝しました。
和傘作りや作品の写真もたくさん撮らせていただくことが出来、その中で今吉さんが「あなたも、さあ、傘をさして。撮ってあげましょう」と私に和傘を差し出して下さり、私も「夜目・遠目・傘の内」ですねといいながら思わずカメラに収まってしまいました。(写真)

旅をしていて思わず出逢う素敵な人たちは旅の大きな醍醐味の一つです。
電撃的ともいえる出逢いをいただいた「和傘工房朱夏」さんを丁寧にきちんと写真入り記事にして皆さんに読んでいただきたいと思いました。
これから数日中に仕上げたいと思います。


旅⑦  第3回竜一忌

2007年06月17日 | Weblog

今回の旅は、松下竜一氏の命日でもある6月17日に行われた「第3回竜一忌」への参加が主な目的です。
写真は、その「竜一忌」の主催者であり、松下竜一氏を生涯にわたって支え続けた「草の根の会」の代表梶原得三郎氏です。梶原さんは松下氏の本の中にはたびたび「得さん」の名前で登場します。

私が敬愛する作家松下竜一氏は2004年6月17日にこの世を去りました。
大分県中津市を拠点に、環境・反戦・反核・死刑廃止運動に取り組んできた小説家松下竜一氏は月間ミニコミ誌「草の根通信」を30年にわたって出し続け、昨年「草の根通信」は復刻出版されました。
私はこの毎月送られてくる「草の根通信」を通して、松下氏だけではなくこの通信に登場する人々のことも親しく知ることが出来ました。私も何度か取り上げてもらったことがあります。

毎年6月に松下先生を偲んで「竜一忌」が行われますが、今年はその3回目で私は欠かさず1回目から出席しています。今年の参加者は約100名で、松下先生と生前から親交のあった報道関係者や市民運動家、研究者や読者などです。
今年のテーマは「松下センセと英信センセ」と題して松下先生が師と決めていた上野英信氏の息子さんの上野朱さんが「~酒・仕事・家族~」について英信さんと松下先生を比較しながら講演をしました。

松下先生は社会派ノンフィクション作家としての顔の他に、家族をこよなく愛し妻洋子さんをはじめご家族のことを綴ったエッセイストとしての顔も持っており、私は松下先生のエッセーファンの一人でした。
キャンドルナイトの提唱者として著書「暗闇の思想を」で30年も前から電力の消費を抑える実践者としても知られています。
「ビンボー作家」としての呼称も自らが付け「松下センセ」と呼ばれ親しまれていました。

以下は、今回の「第3回竜一忌」の中のプログラム「リレートーク」で話した私の話の内容です。

「私が松下先生の名前を知りましたのは、朝日新聞の「朝日歌壇」でした。
当時私は高校生でしたが「朝日歌壇」で、松下先生の人となりや、暮らしの背景を知り選者のコメントに共感したりと松下先生の歌をとても楽しみにしていました。
大分市出身の私は、結婚と同時に大分を離れました。
子育ても一段落し、自分の時間が持てるようになった私は、近くの図書館で松永伍一氏の本を探しに行き、松下先生の「あぶらげと恋文」を見つけました。今から7~8年位前のことです。
しばらくして私はそれから先生にときどき手紙を書くようになりました。
先生には生前わずか3度しかお会いしていません。1回目は先生に千葉県市川市に来ていただき、「ルイズ父にもらいし名は」の上映会のあとお話をしていただいたときでした。2回目は中津で行われた「松下竜一を勝手に応援する会」で、昨年この席で歌って踊られた脳外科医の美馬さんが主催されました。3回目は「草の根通信350号記念の会」のときです。美馬さんの主催された会のときは、先生は体調もすぐれず、退院された直後でしたが、早目に着いた私よりも早くいらしていて、入口の方に正座していらっしゃいました。私はびっくりして「先生、もういらしているんですか?」と聞くと、「皆さんが遠くから来られるのに私が遅く来るわけには行きません」とおっしゃいました。
お会いしたのは3回でしたが、ときどきお電話をいただくことがあり、お電話では何度かお話しました。最初にお会いした「ルイズ」の上映会のとき、関東近郊に住む「草の根通信」の読者に先生自らがご案内を書き、交流会のお誘いをされましたが、私にその窓口になってほしいと先生が言われました。上映会の主催者は別にいたのですが、「上映会後はすべてあなたに」と念を押され、せっかく来ていただくのですからと私は精一杯準備に走りました。ところが、先生とずっと以前から親しい方々からわたしのもとへ電話が入り「よほど注意をしないといつも松下先生はほとんど何もしゃべりませんからお通夜みたいな席になりますよ。それだけお伝えしておきますね」と言われ、内心途方にくれました。しかし、当日はほんとに松下先生はよく話して下さり、豪放に笑って下さり、上映会後3次会まで、深夜までファンの皆様を囲んでお話し下さり、私を労って下さいました。
会に参加されていた、先生と親しい方々が、一体何を話して松下先生はあんなに大笑いをされたのですか?とあとで私に聞いてきた方もいたほどです。
松下先生との交流は倒れられる直前までの約2年半位でしたが、私の手許に先生からの手紙が44通残されています。手紙を書くと必ずお返事を下さいました。たくさん励ましていただき、その手紙は今も私の宝物です。
松下先生を喪って3年になりますが、私はいまだに、何か事件があったり、大きな社会問題や政治家のモラルの低下などが報道されるたびに、松下先生はこんな場合、どんな発信をされるのだろうといつもいつも考えます。先生はもういらっしゃらなくてその声をきくことはできませんが、松下先生のファンの一人として、私は誇らしく末席に座り続け、先生の御遺志に添った生き方を自らもしたいなと日々思っています。」