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ちあの散歩道

輝いてアラカンヌ☆ありがとうの言葉を添えて暮らしのドアをそっと開けると今日も豊かな感動と新しい気づきが待っています。

近所の変貌

2009年05月28日 | 雑文

今、ある講座で行われている1970年代の世情を切り取り説明したテープを聴き、それを筆記しています。
1970年代と言えば日本が高度成長期へと突入して行く時期にも当たります。

私が今住んでいる首都圏の土地に引っ越して来たのは20代後半の1977年ころのことです。
当時、辺りは山や畑におおわれ、今はその影も見当たりませんが、窪地があり、湿地を成すように小さな小川が流れ、近くの小学校に通う子どもたちはこの川でざりがに採りをして遊んでいました。
当時は、駅までの大きな道も開通していなくて、もちろん今住んでいるマンションもそののち瞬く間に開発されて建てられたものです。
駅まではゆっくり歩いて20分位かかりますが、途中には個人商店の八百屋さんや魚屋さんが町を成すという感じとはまったく違ってぽつん、ぽつんと新興団地などに寄り添うように在り、地縁のない私たち新住民は駅そばのスーパーマーケットで買い忘れたものなどを買いに走るのに格好のお店としてとても重宝していましたが、今はもうありません。
それに代わるように、もしくはそれを押しつぶすかのようにコンビニが建ち始め、そのコンビニのいくつかも今はコインランドリーになったり駐車場になったりしています。

バスが開通した駅までの道のりの中には、ステキなブティックなどもあり、上質なヨーロッパブランドのコートやカシミアセーターなども扱っていて、溜息混じりに眺めたものです。そこのマダムはとても巨漢な方で、長い髪をおくれ毛をそのままに無造作にシニョンに結い上げ、その巨体を隠すことなくアースカラーのピチピチのスパッツにざっくりと編まれた素材のいい大振りのセーターなどをまるで普段着のようにさりげなく羽織り、お洒落とは欠点をも味方にし、こうあるべきかと憧れたものですが、そのお店もとうにありません。

無いままに人々は駅中央へと向かい、あるいは都心へと向かいます。
バスが通るようになり、バス通りに作られた様々な店の入れ替わりの多さは今も続いています。
無いものを今さら論い数えても仕方がありませんが、あるときまでは駅までの途中に割りと質のいい本を扱う古本屋さんなどもあり、そこで一息入れ、本を眺めながらの散歩は楽しみで貴重な時間でしたが、その古本屋さんもビデオショップも無くなってしまいました。
言ってみれば、徒歩で駅まで行ったとして、その途中に憩えるような場所、カフェや本屋さんなどがなくなったということでしょうか。

大げさな言い方をすれば、地方にあっても町を成す店々で人がかかわり、文化が育っていたように思いますが、今その文化を育む力があるのはおそらく庶民には縁遠い高級住宅地には残されているのでしょうか、それもあやふやな限りです。

広がる空の合間に佇立するマンションやビル、そして美しいデザインとはかけ離れた戸建住宅などを高台から眺めていると、なぜかそれが墓石のように見えるときがあります。
人々の欲望の果てに、どんどん「荒野」に「墓石」が増えて行く……。
散歩の道筋には、墓地もありますが、その墓地にも様々な墓石が並んでいます。
墓の下に眠る人々の生きざまの象徴のひとつとして建てられている墓石だとしたら……栄華を極めてもその反対でも大差ないなぁ……お墓の下の草葉の陰だもの……。そして、その墓石の大小を眺めるともなく眺めつつ歩く私たち生きている人間。
無造作に林立して行くビルなどの建物を宙の彼方から眺めている神々がいるとしたら、その全体が美しく心地よく人が生きるにふさわしいかどうかの値踏みを、自然環境や人々の交わりの豊かさなども踏まえて協議しているのかもしれないなあと思います。

いつからか全体、総合を見なくなった私たち、ワタシ。
目の前の出来事に右往左往しつつ日々が過ぎて行きますが、ちょっと深呼吸して空を仰いだ先のビルや高層マンションや高台から眺めた家々が「墓石」に見えることなく、安らぎの場所として希望が広がるように見えるといいなあと思います。


あなたは何を……?

2009年05月18日 | 雑文
出掛けた先のセミナーや集会で、私のもとに寄ってきて「あなたは何をしている人ですか?」と訊く人がいます。数日前も然り。
先日は、初めて訪ねた都内の画廊で、「作家さんですか?」と訊かれ、あわてて「いえいえ」と否定しました。二言三言しか話さないのに、それぞれの訪問先で「ご同業の方ですか?」とたずねられることも多く、その都度小さくなって困惑しています。

「あなたは何をしている人ですか?」とたずねられたとき、「私は何もしていません」と答え、さらに相手が納得しない場合には「主婦です」と応えると、身構えていた相手はたいてい、ほっと気を抜き、「ああ、そうですか!」と安堵の表情を見せます。
何をしているか、外見の見せる表情と、実際の職業、もしくはキャリアとの間に隔たりがあるということなのかもしれないけれど、でも「主婦」と答えることが、そんなに相手を安堵させたり、ときにはがっかりさせることなのかしらと、私は考え込んでしまいます。
逆も然りで、どうみてもモノ言うまでは、「主婦=オバサン」にしか見えない女性が立派な社会的貢献をしている人のことも多く、ほんとうに世の中はフクザツなのに。

「何もしていないこと」が悪いこととは思えないこのごろの私。
もちろん、若いころには、職業へのあこがれから色々と雑多な仕事をいくつか経験し、そのどれもが「面白かった!!」という感想をもっています。
しかし、総じてそれらは新聞広告の職業募集欄で見つけたり、生活費の補助のために、ギャラの高い営業の仕事などに就いたりで、目標を自ら立ててその達成のために夜討ち朝駆けのような数年を過ごしたこともあります。
それらの仕事を通しては、キャリアというほどの何物も築けなかったけれど、どんなにつまらないと思える仕事の中にも捉え方と工夫次第で、そこに宝の山を見つけ、ワクワクと働いたことは、私の中にたくさんのものを醸成し、多くの気付きをもたらしたことは事実です。

そして、ようやく落ち着いてきた日々……。
20代のころ、結婚とともに専業主婦となってしまった私が、60代になって、今度はまた違った意味で「主婦」を名乗ることは、私には至極自然な成り行きでもあります。

極端な場合、親しい友人から「あなたが『ライター』を名乗らないから、人に紹介が出来ない」と言われたこともあり、そんなとき、私はさらに困惑を深めています。
「書く」ということは、きっとこれからの私のライフワークのひとつとなっていくことと思います。でも、それは外に向かってにはほど遠く、自分の「内」に向かってのことに過ぎません。
では、「今、何を?」とたずねられた時、これといった実績を持たない私にはとても恥ずかしくて「ライターです」などとは名乗れないのです。いっ時は当時の仕事の延長線上で名乗ったことがあったけれど。
若い頃通った「ライター養成講座」では、「名刺を作り、自ら名乗ったときからライターになる!」と言われ、ハッパをかけられたことがあるけれど、そのときは、私は割りの合わないライターよりももっと手っとり早く確実なギャラを手に入れることのできる仕事を選び、ついにはライターにはなれずじまい。ましてや、今思うと才能のかけらもありそうには見えないし。
友人はそんな才能のない私に立ち向かい、「書け!!」と強く私の背中を押してくれるありがたい存在でもありますが。

それにしても……。
「主婦」を名乗ることが、そんなにミクビラレルことなのかと、そこに私の怒りが沸くのです。
願わくば、私の理想は「主婦の達人」を目指すことでもあります。
「主婦の達人」は、それぞれの家庭の事情に合致した家事のプロフェショナルを示し、比較の対象とはなり得ない「達人」を示します。
そう言いながらも我が家の現状は、別に暮らす一人息子は結婚から遠く、よって「おばあちゃん」になれるかどうかもあやふやな私。夫は、あと少しだけ仕事人間で、これも「家」からは遠い存在。
そんな私が「主婦の達人」を目指しても、確かに説得力の薄い存在ではありますが。

仕事でバリバリ働く女性のひとりが、「一番怖いのは主婦」と言ったことがあります。
みくびることなかれ、主婦の存在。主婦と言う立派な職業。
そして、そもそも何をやっているかによってその人の第一印象を評価してしまう惧れを知らないそれらの軍団をこそ、私は糾弾したい気持ちがムラムラ。
縁あって辿りついた場所にも関わらず、「何もしていなければここに来てはいけないのですか?……」。

その人にしかないたった一つの命と同じとも言える人生をひとりひとりが紡ぎつつ生きている、そのプロセスの中にこそたくさんのエキスがつまり、たったひとつの無駄もなく、その存在を深く見つめて人を知り、人と関わって行くことは、社会的評価を超えて大切なことだと思います。




本との出会いから

2009年05月14日 | 雑文

「必然の出会い・時代、ひとをみつめて」(1991年刊・発行:記録社・発売:影書房―伊藤ルイ著)をゆっくりゆっくり読んでいます。
そして、その合間に「しのぶぐさ―伊藤ルイ追悼集―」をパラパラとめくっています。

この2冊はいずれも人さまから借り受けた希少な本です。
「必然の出会い」は、途中手許に置きたいとネットの古本検索で取り寄せましたが、「しのぶぐさ」(1997年刊)はネット上ではただ1冊しか検索が出来ず、価格が18900円でとても手が出せずあきらめています。
「しのぶぐさ」には、本を貸し出して下さった知人の持つルイさんを写した白黒写真が4枚挟まれています。ルイさんと交流し、縁の深かったあまり著名とは言い難い普通の人たちが多く追悼の文を寄せていてその内容にもしみじみと心を打たれました。

ルイさんを知るいずれもの人たちがルイさんのことを「美しい人だった」「妖精のようなしなやかさを持っていた」「凛として清々しい人だった」と評します。
そんなルイさんに私も一度でいいからお会いしてみたかった。

ルイさんとは、大杉栄、伊藤野枝の遺児として自らの人生の大半を自らを封印するかごとくに生きた人ですが、晩年は置かれた境遇を名乗り出て、社会運動に関わりながら生き、最期は癌を受け入れて亡くなったことが知られています。

最近出会う人たちに伊藤ルイさんのことを投げかけてみると、生前ルイさんに出会った人や、ルイさんは知らないけれどその少ない著作を読破している同世代の女性などもいてとても親近感を覚えます。
私も「必然の出会い」を読み進みながら、ルイさんの魅力のとりこになりつつあります。
このいずれの本の中にも登場する、当時青年だったIさんからも晩年のルイさんの様子を垣間聞くことが出来て、さらに本を読んでいくとIさんとルイさんは並々ならぬ親交のあったことが伺えます。
そのIさんは21歳の時にルイさんと出会ったそうで、ルイさんはそのとき65歳だったとか。ルイさんの雰囲気のとりこになり、こんな女性が世の中にいたのかと憧れにも似た衝撃の出会いだったと当時青年だったIさんは話してくれました。

「必然の出会い」の中に、「必然の出会いとその前史」という章があります。
その中にこんな文があります。
…………
旅は友を呼び、友は友を呼ぶ。
出会いは不思議なほどに人をつないでいる。その出会いを考えてみれば、そこに「必然」があったことがわかる。その必然とは、それぞれの人のもつ「前史」である。
そしてその「前史」とは、ほとんどがなんらかの困難を乗り越えてきた、あるいは乗り越えようとしているという共通項をもつ。
一を語れば十が伝わる、そういう仲である。そういう仲になれる友と出会うには、日々がその「前史」を編みつづけていなければならぬし、出会った佳き友との絆をより強くしていくのも、更なる「前史」を高めていってこそ実現できることである。
…………

興味と好奇心のおもむく先に向ってただ意味もなく歩いている私。
しかし、それがルイさんの語る「前史」となるのなら、やはりその動きを止めるわけにもいかないのです。
もちろん、「前史」が「本史」になることなく「前史」のままで終わる人たちがほとんどで、私もその一人だと自覚しています。それでも、動くことは私にとってはやはり大切なことです。

先日お会いした方の中に、「動機は何だっていいんです。そこに行くことが、参加することが大切なんです」と励まして下さった方がいました。
今を生きる……明日のことはわからないから、今関心のある方へと動く……、そんな積み重ねの日々ですが、総じてとても楽しいことには違いなく、楽しいだけでいいのかなとも考えますが、楽しいから動けることだってあるのですよね。
私も「前史」を紡ぎ続けて生きていきたい。たとえ、弾けるときが来なくても、それはそれで十分によい人生と言えるでしょう。




青菜に塩ではないけれど……

2009年05月08日 | 雑文



ドライブインで買った新鮮なウドが家に帰るとすっかり萎れていました。
まるで塩でもかけられたように……。

大勢の人の中に入ると、様々な質を持った人たちがいます。
自分の立ち位置が定まっていない私は、質の違う人たちに会うと気圧され、人々を眺めながら自信を無くし、このウドのように萎れる一瞬があります。

空気にさらされ、生気を無くしたように見えるウドも皮をむくと、中から瑞々しくまっ白な別のウドが現われます。
ヨレヨレと心が漂流しながら、自分の核心の部分はしっかりと充ちているこの白いウドのように私らしさを保ち続けて生きて行きたいものです。

「さて、私はこのところしきりに旅を続けるのである。豊前火力反対運動の中で、ゆえしらず孤立させられてゆく寂しさに耐えかねる如く、さすらい続ける。…………。
〈まぎれもなく被支配者に属しながら、支配者的思考をする〉住民のこっけいさをだれだったか鋭く剔出していたが、なんとわが豊前平野にその種の思考意識のはびこってやまぬことか。…………。」(松下竜一未刊行著作集4 「環境権の過程」の中の「暗闇の思想を掲げて」より抜粋)

私は、自分の孤独と向き合いながら、ああ、松下先生が生きていたら、松下先生の中に潜むこの孤独の胸の内を共に語り合って分かち合ってみたいと思うのですがそれも叶わず。
自分で抱え持つしかない孤独の闇を愛しく抱きかかえて、ひとり考え続けるしかないのだなあと当たり前のようにその覚悟を深めています。





初めて聴いた「ラジオ深夜便」。感動。

2009年04月27日 | 雑文

いつもは、深夜2時ころまで起きていて、朝7時ころ目覚めるという習慣が続いていましたが、25日日曜日は急にお昼寝(お夕寝)をしたくなって寝ました。
目覚めたのは朝3時。あらあれ……と思いながら、起き出しラジオのスイッチを入れました。
「ラジオ深夜便」のことは、私の周りの人生の先輩たちから聞いてはいましたが、実際に耳にしたのは今朝が初めてです。

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朝4時からのラジオ深夜便で89歳の作家久木綾子さんが登場。
瑠璃光寺五重塔に魅せられて(1)作家 久木綾子」

瑠璃光寺は山口市にあり、五重の塔は国宝に指定されている塔です。
89歳の久木さんが書いた初めての小説が「見残しの塔―周防国五重塔縁起」。
ラジオ深夜便では3月1日の再放送として放送されているものを聞きました。

久木さんが、山口に旅行した折り、「瑠璃光寺」に立ち寄り、そこにある緑陰の中に建っている五重塔を見たとき墨色の黒々とした塔の美しさに魅せられ、瑠璃光寺に関する小説を書きたいと思ったそうです。それがおよそ20年前のことで、以来熱病に侵されたように塔に恋い焦がれ続けてきたとのこと。そこから89歳にして初めての処女作が生まれました。
ラジオから流れる久木さんの声はしっかりとたおやかで知的で上品な感じ。とてもとても90歳に近い方とは思えないほど若々しく艶やかでした。アナウンサーからの「お齢を意識されたことはありませんでしたか?」の質問には、「今まで齢を考えて行動したことは一度もありません。今もずっと外も内も荷を背負いこんだ受験浪人生のような気分です」と話し、物事を見つめるひたむきさが伝わってくるようでした。

久木さんは戦争体験をし、貧しく大変な時代の中、そこにはまだ人と人の結びつきや優しさがあり、そこで出逢った心に残り続けているがつながりのはかなかった出逢いの人たちを書きたいと思い続けていたそうです。
瑠璃光寺の五重の塔を観たとき、光を透けて見える塔の美しさに感銘し、精緻な塔の静かな佇まいに、名を残さなかった健気な宮大工や周辺の人々に思いを馳せ、小説にしたいと思ったそうです。

そこから久木さんの格闘が始まります。
こんな美しい塔のことを書かなかった人はいないはずだ。きっと先に書いている人がいるはず、また今書き続けている人がいるはずだと思いながら、しかし、そこにあせりや競争原理は働かず、ひたすら資料を集め、人に会い、学び、街道を足で歩き確かめ実感の中から文に認めて行った足跡が語られていました。
最初に「日本史論文の書き方」を購入し、中世史の勉強に6年間通い続け、宮大工さんのもとへ取材に行き、大工道具の一つ一つから教えてもらい、所縁の滋賀県から宮崎県の椎葉村までときには車でときには徒歩で街道をとぼとぼ歩き、小説に登場するすべて街道を踏破し、「想像で描いた場所は一か所もございません。その場その場の空気を感じ書きたかった」と淡々と語ることの凄さに驚きました。

「寂しくて静かでささやかなものが好きです。
あの美しい塔を建てて行くプロセスが関心の対象にあり、建てて行く中で信仰心の薄かった人々が信仰を完成させて行ったようにも思えます。
塔を初めて見たとき、光の中に浮かんで見えた塔は、あの世が透けて見える塔だと思いました。この世とあの世の境界の結界のように見えたのです。人の世のはかなさを感じ、はかなく生きてはかなく死んでいった人々。
塔は名を成さなかった無名の一人ひとりが力を合わせて完成している。時代を支え、けなげにしっかり生きた人たちを小説の中で書きたかった。
『見残しの塔』の書名は、所縁の地に『美残村』という美しい地名を持つ村があり、これに思いを重ねました。
椎葉村は平家の落人が棲み付いた村とも言われ、若狭新田義貞の縁戚子孫でもある姑にもちなみ、物語を組み立てる一助としました」と言うようなことを話していました。

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さっそく、私はネットで「見残しの塔」を注文しようと思います。
「早起きは三文の得」という言葉があります。
続きは明日も放送されるそうですが、明日は早起きが出来るでしょうか……。
今、まだ6時前なのに、輝く朝日が昇って外は昼のような明るさです。



穀雨……思うこと

2009年04月21日 | 雑文


夕方から雨が降り出しました。
今の季節の雨を「穀雨」と言うのだそうです。
「〔百穀をうるおす春雨の意〕二十四節気の一。太陽の黄経が三〇度に達した時をいい、現行の太陽暦で四月二〇日頃。三月中気。[季]春。」とあります。
植物の成長を促す恵みの雨は人間を含む動物にもきっと良い雨なのでしょう。

「この頃あまり出掛けていないようですね」とブログを読んで下さっている方から訊かれることが多くなりました。
私は即座に「はい」と応えます。
「家ごもり」は、今や「巣ごもり」とも言われ、「巣ごもり消費」という言葉さえあるようです。私もそれに近いかしら。

タケノコを一本いただきました。
少し前にもいただいて、そのときはバラ寿司用の具材の一部として使い、冷凍保存しました。
今回はかなり大きいタケノコを一本ですが、茹でてみるとそんなにかさがなくてホッとしました。さあ、これをどうしよう……。
タケノコご飯を作りました。
冷凍庫の中をみると油揚げがないけれど、まあ、いいかと、タケノコをさっと油で炒めお醤油で味付けし、炊く前のご飯に入れました。「あご入りだしの素」をパラパラと入れて、あとは適当に冷蔵庫の中にある「白だし」などで調味し、炊いてみると何と美味しいタケノコご飯が出来上がりました。思わずルンルン。
他にも、「タケノコと豚肉とブロッコリーのオイスターソース炒め」「タケノコの味噌汁」などなどタケノコ三昧。ついでに冷蔵庫のお掃除。

若い頃の私はこんな機転も融通も効かなくて、ずいぶん苦労しました。
今は何でも適当に、そこら辺にあるものを使って楽しく応用していますが、若い頃はレシピに書かれた通りにしか出来なくて、挙句にそんな時に限ってあまり美味しくないのですね。衣食住、一時が万事カク角カクとしていました。
今は自由。心が開放されると小さな家事や料理もこんなに楽しいのだと知りました。

そうそう、ブログのお話を続けなければ……。
ブログを書いている意味ってあるのかなあ……と思うことがあります。

「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかく人の世は住みにくい」。夏目漱石サンの「草枕」ですね。
智が欠けているのは自ら認めるところですが、それにしても不特定多数の方に向って発信できることの限界をいつも意識しながら書くとなると、ついつい写真多用となってしまい、文で表すとなると窮屈だなあと思うこともしばしばです。

今日の毎日新聞夕刊のコラム「ダブルクリック」に「脱インターネット」として、絲山秋子さんが書いていました。
「――― 私だって不特定多数の人相手にネットの日記で書けることと、目の前の人間に話せる実情は違う。―――」と。同感です。

まあ、そうは思いながらブログを書いてしまう私は「ブログ中毒」といったところでしょうか。でも、とっても楽しい!!!
そうなると元々何も深く考えていない上に、いざ書くとなると窮屈さを感じ、タケノコご飯の話などになってしまうのです。
読んで下さっている皆さま、いつも希薄な内容でゴメンナサイ。
そして、読んで下さってありがとう!!心から感謝☆~~☆~~。