無知の涙

おじさんの独り言

手術前のメメント・モリ1.0

2024年02月21日 | 日常

この文章を誰かが目にしているという事は、きっと僕はもう手術を終えて不通に暮らしているのだろう。

普通逆じゃない?この手紙を読んでいるということは、きっともう僕は生きていないのだろう、的な。


もうだいぶ前の話になりつつあるが、去年の7月に左腎臓にガンがあると診断され、ガーン!となり、12月に左腎癌の除去という手術を受けた。

手術前日の夜、病院のベッドに横たわりながら、いつになく緊張していて、なかなか寝付けなかった。

それと言うのも、もしかしたら全身麻酔で自分がもう2度と目覚めないかもしれない、という疑念が沸いたからである。

全身麻酔の場合、そういう事が稀にある、と病院側から事前に嫌というほど念押しされた。

ほんとうに稀なの?

あれだけ念押しされると、何かのフラグが成立しそうで逆に怖くなる。押すなよ!ぜったい押すなよ!みたいな。ちょっと違うけど。

医者の立場からすれば0.01%でも起こり得るのであれば、しつこく言うしかないのだろうという事は理解できるのだが。

麻酔で死んだからって別に訴えたりしません、という同意書だけで良いと思うんだけど。手術よりも全身麻酔をすることの方が怖くなってしまった。

知らぬが仏とはよく言ったものだ。

そうして、もしかしたら2度と目が覚めない、つまり死ぬという事について、悶々と考えていた次第であります。

 

この時まで所謂「死」というものについて、考えて来なかったわけではない。

死というものは初めて考えたのは小学校の高学年くらいだったろうか。

何処からともなく耳に入ってきて概念として植え付けられた天国やら地獄などといった死後の世界というものは、実際のところは存在しないのではないかと僕はごく自然に考えていた。

別に何か根拠があるわけでもなく、なんとなくそう思っていた。

でもそれを否定するのは、子供の頃の僕にはまだ怖かった。自分の存在が無になる事を考えると怖くて眠れなくなった。

拡がり続ける宇宙の末端と、末端の先、まだ宇宙ではないその空間に何があるのか、宇宙でもなく何でもない、その空間(でさえないかもしれない何か)こそが死そのものではないのか。

そういう事を考えている時と似た恐怖だ。

 

やがて死について考えることはやめた。別に年がら年中そんなこと考えていたわけではないが、積極的に自分から首を突っ込むようなことはしなくなった。

そういう事を考えそうになるとそっと意識を閉じた。臭いものに蓋をするように。

そうしてしばらくやり過ごしていたが、やはり歳を取るにつれて、どうしても死について考える事が多くなってゆく。

自分の死というものを実感したからだろうか。はたまた親の死がそう遠くないうちに必ず訪れると考えるようになったからだろうか。或いはその両方か。

死んでほしくない、死にたくない、と感じるのは当たり前の感覚であると同時に幸せな事なのだと思う。そう思うことすらできない環境がこの世界にはあるのだ。

しかし誕生してしまった以上はいつか終わりを迎えなければならない。

もっと言えば、この宇宙だっていずれは必ず終わりの時が来る、と言われている。

それを知ったときの衝撃のスゴさを言い表すと、もうなんかスゴい衝撃でした。

宇宙の終焉後というのは、宇宙の先にあるであろう、まだ宇宙になっていない状態になるのだろうか。子供の頃によく夢想していたアレ。

当然そういうことなのだろう。

始まっていない状態と終わった後の状態というのは繋がっているのではないか。

完全な無というものが、どういう状態なのか、無知の自分には想像ができない。

白っぽい濃密な霧みたいな空間なのか、一切の光が届かない闇のように黒い空間なのか。そういう概念さえ無い何かなのか。考えれば考えるほど深みにハマってゆく感じがする。

深淵を覗くとき、深淵もまたこちらを覗いているとニーチェは記していた。

それはイケメン主人公のゲームに感情移入している最中、ふと画面が暗転した際に画面に映る自分の顔面を見た時のような感覚だろうか。誰が深淵みたいな顔だ。

無を考えることと深淵を覗く事が同義ではないが、その深みに嵌まってゆく怖さは似たようなものではないだろうか。

とにかく無があり(というのも変だが)、何かの拍子にまた今の宇宙のようなものが誕生し、またその中の地球のような環境に恵まれた星に生命が生まれる。

宇宙が生まれ、太陽が生まれ、そこから程よい距離に惑星があり、そこに生命が生まれる。その生命には知能が備わっている。

知能を持った生物は必ず同一の方向へ向かう。グレンラガンのドリル。

本当にすべて偶然なのだろうか、と思ってしまうほど良くできている。

すべてが偶然だとしたら、偶然生命が誕生した星が他にあっても何ら不思議ではない。よって、地球外生命体は存在すると思います。

なんの発表。

宇宙ですら死ぬという事を知ってから、死を考えるとき、どうしても宇宙のそれと併せて考えてしまう癖がスゴイ。

宇宙が到達していない空間が無であり死である。最終的に宇宙はそこへ向かっている。やがてまた始まる。

イース8のエンディングで大地神が目覚めた時に、目覚めこそが覚醒である、というようなことを言った、違うな。力こそパワーか。

この世界こそが彼女の夢である、というような表現をしたけれど、それと同じことなのだろうか。

森羅万象あまねく誕生と死を繰り返すという法則があるのなら、人知では表記のできないような永い時間をかけて繰り返していく。今もまたその繰り返しのうちの何兆回の1回なのかもしれない。

それを生まれ変わりというのであれば、そういう事もあるのかもしれない。

それとも永遠にもう何もない無なのか。

この未来永劫、無の中を漂い続けるという感覚に人は恐怖を感じるのだろうか。

 

今働いている事務所の所長が事あるごとに、人は死んだらどうなると思う?と訊いてくる。

死んでみないと分かりません、というのは目上の方に対する返答としては不適切に思われるので、無だと思います、と答える事にしている。

すると、無ってなんだよ、無になることを考えると怖くてたまらないと所長は言う。

無は無です、とぼく。

だからその無はどういう状態なんだ、と所長。

ムムムム。

そんなこと的確に説明出来るのであれば、もっとなんか別の人生を歩んでます。

僕の感じている無というものを簡単に言うと眠りと同じ。そう、まさに手術の麻酔と同じで何も感じない。恐怖もないし、苦痛もない。怖いも何もない。1秒だろうが3万年だろうが永遠だろうが同じこと。覚醒がないだけ。

いや、これはあくまで個人的な考えにすぎないですので、予めご了承ください。

実際は本当に三途の川を渡り、六道輪廻に落とされるのかもしれない。

それは冗談ではなく死んでみないと分からないことであるが、死んでなおそんなヒドイ目にあいたくないと僕は思う。

いや、そんな目にあっても人は自分というものの存続を願うのだろうか。

 

深刻に考えたところで真実に近づくわけではない。馬鹿の考えなんとやら、という辯もある。

だが実際に明日そうなるかもしれない、と思うと、やはり考えないわけにはいかないものである。意味のない無駄な行為だとしても。

医者からも言われたが、いちおう遺書のようなものを書いておくべきなのだろうかと考えた。

誰宛に?いや親宛なのだろうけど。親に宛てた悔恨の手紙。こんな夜中にそんなの書き始めたら死にたくなる。いや死ぬかもしれないから書くんだけど。

まぁ学も無くスポーツが得意なわけでもなく、なんの展望も計画性もなく生きてきたにしては、可もなく不可もなくといったところではないだろうか。

運が良かった。

小学校の先生から「もう少し頑張りま賞」くらいは貰えるかもしれない。


心残りといえば、夜中に家を抜け出して体育館の屋根に登っていたらテロリストと間違われて機動隊に囲まれ、モッコモコにされたあげくバッチリ指紋を取られてしまったことがあったのだが。

今にして思えば、時期が悪かっただけで、いたいけな中学3年生を掴まえて、テロリストだなんだと国家権力でメッタメタにすることはなかっただろうに。

事情聴取で何時間監禁されたことか。何べんも同じ事を聞かれ、書かされ。もう年齢でテロリストではない事くらい分かるだろう。ヒイロユイか。

問題はここからで、ようやく釈放されてから一緒に捕まった友人たちと、そもそもなぜ侵入がバレたんだ?という考察が始まった。

公安からマークされてる、なんてことがあるワケもなく。侵入した小学校の周りは団地もあったので、きっと我々が屋根に登っているのを団地の人が見つけて通報したのだろう、というところで落ち着いた。

でもきっと真相は僕が最初に不用意に体育館の窓を開けちゃったせいだと思います。てへ。

そんなこと言ったら機動隊にモッコモコにされた上に友人たちからヘッコヘコにされてしまうので、真相は心の闇の中へと葬りました。

その真相を隠していることに対してちょっと心残りがある。

だって、どうせどこも戸締りされてて開かないと思ってたら開くんだもの。ガラって。いや開いちゃダメだろ、てすぐ閉めたけど。

戸締り忘れた人が悪いと思います。

いや謝れよ。

文章を書きだしても脱線して着地できないのが悪いところ。もっと頑張りま賞。

 


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