無知の涙

おじさんの独り言

気仙沼へ2

2022年08月10日 | 気仙沼2022

7/16(土)、平日と同じく5:00起きの6:00に千葉の実家を出発。

14:30に大谷海岸で各方面から集う予定の親戚たちと待ち合わせ。みんな予定通り来られれば14名。気仙沼でお兄さんご夫婦と合流すれば総勢16名。

こちらのメンバーは父と2人。母はもう長時間にわたり車で移動するのは無理だし、コロナ急増してるし、でお留守番。

姉家族も今回は遠慮してもらった。

560km。6時間・・・て事はないか。順調に走っても7時間、渋滞あれば8時間くらいか。いずれにせよ14:30なら問題ないだろう。

しかし父と2人で遠出するなんて、小学生以来ではあるまいか。

小学5年だったか、6年だったか、、、とある夏の日、土曜日の半ドンで家に帰る途中、急に見慣れぬ車に横づけされたと思ったら、乗っていたのは父と父の友人で、そのまま茨城のとある港町に連れていかれた。

何時間もかけて到着したのはよいものの、一体なんの為にわざわざこんなところに連れて来られたのか意味不明。

到着するなり父の友人は港町にある家々を一軒いっけん回って挨拶した。付き添いながらこの人たち全員と知り合いなのか?と驚いたが、子供ながらにこれは何か特別な儀式のようなものを行っているのではないだろうかと思った。

そのまま港に出るとポツリ、ポツリと屋台があり、そこで焼きそばやら何やら色々買ってもらった。そのまま市場のような場所に入ると、そこはずいぶんと賑わっていて、酔っ払った大人たちがひしめいていた。父と友人は煙が換気扇に吸い込まれるようにその集団に加わり、自分は幾らかのお小遣いを渡され宿に戻るように言われた。

市場から出ると既に陽は落ちかけていて、海が紫のような色に染まっていた。魚の匂いが強烈にした。

自分も海育ちであるが、同じ海でもずいぶんと違うものだと思った。でも夜の海の不気味さは同じだった。

小遣いを貰ったは良いが、ここには見慣れた駄菓子屋もゲーセンも無いし、これといった遊び場もないので、ひとりで宿に帰った。

既に敷かれていた布団に寝っ転がり、見知らぬ天井を眺めた。窓の外は真っ暗で市場があった方角の空だけが煌々と明るい。

3人寝るだけの部屋なのにやけに広く、どうにも落ち着かない。スマホも携帯ゲーム機もない時代だ。おまけに学校帰りにそのまま連れて来られてるんだから、なんにも持ってない。もう教科書でもいいから取り出して読んでいたい気分だったが、残念ながらランドセルには何も入っていない。

テレビもない。ラジオもない。車もそれほど走ってない。車はともかく、遊ぶことしか考えてない小学生には厳しい環境。

宿なのにやけに静かで、他に客がいる様子が無い。誰かの声や近くを通る足音でも聞こえてくれば少しは気が紛れるのだが。

どことなく気味の悪さを感じながら部屋でひとり天井を眺めていると、木の天井の節が人の目や口に見えてくる。もうこうなると脳内あなたの知らないザ・ワールドの完成で、何しても何を見ても怖い。

そんな時に右ひじの上あたりに激痛が走った。超電磁スピンばりの高速回転でその場を離れ、激痛の走った部位を見た。赤いブツブツができてる。痛いというか痒いというか。ゆ、幽霊の歯形なのか!

もう無理です帰ります。とにかく誰か人を呼んでこようと立ち上り、部屋を出ていく際に寝ていた布団を横目で見てみると、黒い何かがウネウネしている。

正体は毛虫。

毛虫に刺されるとこんなに痛いのか。見た目はフサフサウネウネ可愛い感じだが、恐ろしい攻撃力だ!

というか宿に普通に毛虫っているの?この移動力でどうやってこの部屋まで辿り着いたのか。そしてこのだだっ広い部屋でなぜピンポイントに自分の肘のとこにいたのか。

遊んでいる公園にも気持ち悪いくらい毛虫いたりしたが、別にお互い無関心。東京砂漠ですれ違う人々のように。

率先してこちらに敵意を剥きだして近づいてきたりするような虫には見えなかったけど。お互い人恋しくて、虫恋しくて、遊星たちが引き合うように導かれたのか・・、いやだからといって虫はちょっと・・・

まぁ正体が虫と分かれば恐れることない。が、放置してまた刺されるわけにもいかないので、とにかく毛虫さんにお帰り頂きたいところだが、ランドセルに紙切れ1つ入ってない自分にいったい何ができるのか。

何重にもしたトイレットペーパーでつまんで窓から外に出す事に成功。お互いに拒絶することしかできない悲しい出会い。

毛虫のおかげでだいぶ気が紛れ、そうこうしているうちに父と父の友人も帰ってきた。

毛虫に刺されたと報告したら、ションベンかければ治ると言われ、この上ションベンかけられるくらいならこのまま寝るわと床についた。

そんな事を思い出しながら東北道に入った。父もそのときの事は覚えていた。

お世辞にも仲の良い父子ではなかった。

基本的に良い人であるが、酒癖が悪く、酔っぱらってよく自分の非行を母のせいにして当たっていた。それが許せず、喧嘩ばかりし、父はより酒量が増え、自分の素行の悪さはエスカレートしていくばかり。悪循環。

中3にもなると背も力も圧倒的に父を追い越したことに気づいた。腕相撲で相手の手を握った瞬間に勝てるかどうか分かるのと一緒で、取っ組み合うとだいたい相手の強さって分かるものだ。

このままではいつか自分は父に対して取り返しのつかないことをしてしまうのではないかと不安になった。

高校生になると、なるべく父と顔を合わさないために家にいない事が多くなった。元凶がいなくなれば丸く収まるのだ。

アルバイトをして金を貯め、高校卒業前に家を出た。そうして今に至る。

お互いにワダカマリなく話せるようになったのはつい最近なような気がする。やはり親の死を考えるようになってからだろうか。

そんな父と2人だけの旅行。

お互いに口には出さないが、これが最後になるのではないだろうかと。

いつか必ず訪れる親の死。何ひとつ特別なことではない。生命である以上は必ずそれは誰にも平等に訪れる。

なんとか平等なんて最近よく耳にするが、公平に、なら分かるが平等なんて軽々しく口に出して欲しくない。響きがカッコイイのかもしれんが、平等の意味を考えれば考えるほど軽々しく口に出す気にならないハズなのだが。

生命に平等なんてものがあるとすれば死だけだ。死にゆくこと、これだけはどんな個体差や環境などの後天的な要素に一切関係なく、誰にも平等にやってくる。これが平等というものだ。

ショーペンハウアー著の自殺についてでも書かれているが、生命活動とはピークを過ぎればあとは下降してゆく運命である。そんな生命にとって死とは最後の救いですらある。少なくとも死んだ者はもうそれ以上傷つかなくてよい。

そう思っていたが、最近どうもそうハッキリと断言できない自分がいる。

親が死ぬ事を考えたときにやってくるこの言いようのない感情はなんなのだろう。若い時はそれほど切実に考えてない故の虚勢に近いものだったのか。はたまた単純に弱くなったのか。

もともと弱くはあった。1人でいられず、常に誰かと一緒にいないと不安だった。

こんなことでこのさき生きていけるのか不安になった。少しでも強くなりたい、弱さは頭が悪いことが原因なのだろうか、と必死で本を読んだ。ドラマを人生と見做していたのだ。

だから「弱くなった」というのは違うのか。単純に前者であるような気がする。

死の先にある無というものが何なのか。

思えば子供の頃から漠然と死について考える事が多かった。宇宙の果て、果ての外にあるもの、時間、いつか来る全ての終わり、そういう事を考えると夜中に眠れなくなることもあった。

深淵を覗くとき、深淵もまたこちらを覗いている。

それについては今すぐに答えの出るものではないし、まだ起こっていないことは起こっていないことで、それを必要以上に考えて憂鬱になるのは愚かなことだ。時間の無駄。馬鹿の考え休むに似たり。

重苦しい予感も、この果てしない道のりも全て振り切るぜ!

そう思い、蓮田SAでの休憩を終え、再び走り出した。

蓮田SAから20分ほど走って羽生ICあたりで、父が蓮田SAのトイレに全持ち物入ったバッグを置き忘れきたことが発覚。

なんだってぇぇぇ

 

 

 

 


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