文屋

文にまつわるお話。詩・小説・エッセイ・俳句・コピーライティングまで。そして音楽や映画のことも。京都から発信。

■女の職人のような自信みなぎる、若いひと

2005年02月14日 19時39分20秒 | 世間批評


宮里藍・北田瑠衣チームが世界一になった。
ゴルフの話。
昨日、テレビつけた時点では、突然乱れて
韓国とフィリピンチームに追いつかれて、ダメかなあ
と思っていたけど、
乱れに乱れていた、北田さんが、長いパットを入れて
突き放した。

それにしても19歳で、あの落ち着きには驚く。
藍ちゃん。前に、仕事で、あるゴルファーの話をうかがったときに
「藍ちゃんは、周囲の人をみな味方につける天性の才能がある」
と言っていた。

それがどんな厳しい状況でも、キャディを笑わせるとか。

頼もしい限り。

男性的なのかも。

去年の秋に、タダ券をもらったものだから
瀬田GCの「ミズノオープン」の試合を観戦した。

そのときに、このふたりは見たんですが、
小さい、普通の女の子だった。
ただ、面構えはまったくのプロフェッショナル。

男の職人の「胸の上げ方」「顔の威力」はわかるけど
女の職人の自信のようなものを感じた。

ぼくは、多分パットでぶるぶる震えてたと思うけど
それでも「絶対にきめなければならないところ」を決めた
北田瑠衣選手の根性にこそ乾杯したい。

すごいもんだと思う。

★直情・屈折、速度の達人。子規の出るドラマ

2005年02月13日 13時42分21秒 | 文学全部

まったくもってミーハー的に正岡子規をアイドル視しているんだけど
司馬遼太郎の「坂の上の雲」は、彼も主人公のひとりなんだね。
いまのいままで知らなかった。
あわてて、文庫を探したら、全8巻とは。
こんどNHKの大河ドラマになるそうだけど
いったい誰が、子規の役をやるんだろうか。

相当に癖があって、歪んでいるのに直情的な

たとえば竹中直人、柄本明あたりか、(月並か)

そういえば、子規は、月並俳句=主観俳句
というような図式で、暫定的なレトリックで写生を称揚した。

でも彼の真意というのは、いつもおぼろ。

生きる時間の方が迫っていたから
彼にとって、真意などどうでもよかったのだろうね。
思った、語った、考えた、それよりも早く「書いた」。

だからたとえば、碧悟桐あたりから批判がくると
間違いもすぐに認めた。それでまた、速度を増して書いた。

「坂の上の雲」なんて、読むと思ってもみなかったけど
読んでみようかな。

●ガーシュインの「誰かが私を見つめている」をカラオケで

2005年02月12日 19時35分16秒 | 音楽

久しぶりにクラシックのCDを買う。

ずっとグールド一点張りだったけど思い立って、リヒテルの「平均律クラヴィーア」。
どこかのブログに、クールとかなんとか印象が書いてあったけど
とても流麗に湿っていて、どちらかといえば、ぬくい。

4枚組で、2700円だったけど、その横にあった日本盤は、6千いくらの値段。
どうなってんだろう。この値段の格差。

同時に

EMIの2枚組シリーズが、1050円で、さらに10%OFFとあるので
衝動買い。

●サン・サーンスのピアノ協奏曲集
●アンドレ・プレビン指揮のメシアンやプーランク

それから、多分これすでに持ってるけど、まあいいやで

●ワルター・ギーゼキングのドビュッシー

それから、異様に安かったので

クアドロマニアという企画もので

ジョージ・ガーシュインの自作自演を含む4枚組、1500円
を買う。

4枚目は、ジャズで、ガーシュインのオムニバスになっていて

ビリー・ホリデイと最後の最後の
チャーリー・パーカーの「エンブレイサブル・ユー」が胸にしみる。

最近、ガーシュインの「サムワン トー ウォッチ オーバー ミー」
=「誰かが私を見つめている」にいれあげている。

リドリー・スコット監督だったかで映画にも使われている。

名唱なのは、アン・バートン。
フランク・シナトラもいい。

それから演奏で好きのなは、ロイ・エルドリッチと
キース・ジャレットかな。

この曲、バースの部分も含めて、カラオケで歌えるかもしれない。
事務所でひとりのときに練習しよっと。

■薄めの孤絶。アメリカンな詠嘆

2005年02月11日 18時00分38秒 | 
客が来ていて、詩の話になった。
客は、大学の先生もしている。
それで、最近の学生の書く論文というのは、論理の中にも
ごくごく個人的な詠嘆的なセンチメントが入り交じっているという。

孤絶。

孤絶を、根城にしているが、その孤絶は、いつか、他者に伝えようとする
性質の孤絶で、孤絶に詠嘆や嘆息が交じる。

「いつかだれかにわかってもらえる」というような。

ネットという性質にもこれはある。

甘い孤絶。

なぜかというと、ある世代にとっては、ほんとうの孤絶を知らないままに
大人になってしまうのですね。

寂しいのに、「寂しさ」を知らない。

孤絶していないにもかかわらず、ただディスコミュニケーションであることが
孤絶であると解釈してしまう。
「わがまま気まま」が、孤絶の正体だと、とりあえずは納得する。
その辺の感覚ならば、ちらちらと詩みたいなものを書けば
だれかには、共感が得られる。

いまのJ−POPの詞が近代詩みたい、という感じ方の背景には
そこんとこがあるんだけど
実は、この「はびこり」は、滅茶苦茶、頑固で重層的。

だれかにぶつかったり、だれかに絶望したり
どうしょうもない孤絶という体験がないまま

むしろいつも「コドクでひとりぼっち」だったことの
日常的居直りが、薄いセンチメンタルな感慨を生む。




          -----------ときどきつづく


◆新京極へぶらふらと

2005年02月10日 15時18分01秒 | 日録雑感
ライカを持って、御池堺町から新京極を河原町まで散歩。
途中、ゲームセンターの中をさみしく徘徊している、ぬいぐるみ君を写真に撮る。
店員が、オートマチックに歩いていく人形の向きを変える。
さみしい人形。UFOキャッチャーにずらりと並んだキャラクター人形も
よく写真に撮る。あれらは、不憫だ。

「有次」に展示している刃物、あれらも不憫だが
どちらかとえば、危うい。





●センチメントを抱きしめる

2005年02月09日 18時45分44秒 | 
だから井上陽水には、センチメントがない。
詞にはない。しかしそれがなければ大衆の“海”に流れこまない。
で、どうするかというと、歌唱でセンチメントを強調する。
身をよじるように、喉をしぼるように。
ジム・モリソンやジョニー・ロットンにはそんなのは
全然ない。淡々と読む。
センチメントよりも外に吐かれる感じ。

センチメントとは、なにかというと
「我が身」への慈しみだろうね。自分で自分を抱きしめるような。
この我が身を抱きしめる、センチメントな言葉は、孤絶に向かっているかというと
どっこいまったく逆で、
「孤絶です」。というメッセージをひたすら、共感の“海”に向かって
投げ出される。

詞や詩の大衆性とは、実は、単純にこのことだけかもしれない。

孤絶ならば、それは、徹底して、トートロジックに孤絶の螺旋だし
他人にわかるわけがない。

この「他人にわかるわけがない」“意志”は、実は少数だが他人にわかる。

あるいは、その意志の水流の音は聞こえる。匂いはかげる。

というのは、意志は、作品の渦や謎から気流のようにたちのぼるのだから。

そこに、現代詩がある。
近代詩との違いというべきか。


       ------------------つづくだろう

★書く詩と演る詩

2005年02月08日 18時55分06秒 | 
現代詩は歌にならないということは、自由詩が非定型だからだと思う。
リズムに合わない。旋律を意識しないということがある。
現代詩を書く者は、たとえばリフレインなどを嫌う。
そもそも歌になることで、大衆化をめざすわけだから
あまりに朧気なテーマならば、大衆の心情すらつかめない。
そもそもつかもうともしない。むしろ、マイナーをめざしたりする。
旋律をあまり意識しない、リズムだけで語る
リーディングのような音楽もある。
ルー・リードやジョニー・ロットン、ジム・モリソンなどは
ロックと詩の境界で、いくつかの作品を残している。
ボブ・ディランなども少しだけ近しい。
一時期の井上陽水の、たとえば
「氷の世界」「傘がない」などは、現代詩に近いような
言葉の屈折があった。その屈折自体は、マイナーなんだけど
内容は、大衆の心情にも親近感があった。
それは、心情というよりも身体的な感受の真実味みたいなもの。
「痛い」とか「惨め」とか、「うるさい」とか。
そういうものであれば、マイナーな屈折語法であっても
「わかるわかる」というレベルで大衆に浸透した。
リーディングといういまの詩の現象も、多くはこの
「わかるわかる」という身体的な親近感で、うけたりするけれど
本質的に詩がうけたわけでもなんでもない。
だからパフォーマティブな側面だけが浮き出される。
そこは、なんだか、書かれた詩と、演られた詩は違う。
しかしね、ジム・モリソンのリーディングは、いい。
そんなこんなをもう少し考えたい。

             -----------つづかせようかな

●別冊カドカワに書きました。

2005年02月07日 15時29分43秒 | 文学全部
ふだん現代詩の世界にいると、こむずかしいことばかり考えていて
いまでも、伊東静雄の戦中の一部の作品は、どうだったのかなどと
頭をかかえていますが、たまには、一般誌から
原稿依頼があって書いている。

このブログってまだ、数週間しかたってなくて、もひとつ
トラックバックやなんやかやの仕組みわからなかったけど徐々にわかってきた。

まあ、自分の書いた文章で、いま本屋でもちらっと読めるものは、一応
案内しておこうと思った。

「別冊カドカワ」のGLAY特集という雑誌があって
そこで、GLAYの詩について述べています。

---------P236 「息するように語られるセンチメンタル」

ずっと前から思ってきたことだけど、日本のJポップの歌詞って
どうしていつまでも近代詩なんだろう、といつも疑問に思ってきた。
近代詩って、つまりは、古くさいわけです。
「私は」
「辛い」「悲しい」「孤独」です、と切々と、センチメンタルに迫る。
迫り方が、一様。これ、一様であるからこそ、大衆にうける。
大衆にうけなければ、音楽も産業だから、レコード化にもならなかったわけで。

ところが、難解でならした「現代詩」も、一時期歌われたときがあった。

たとえば、六文銭などが、谷川俊太郎や大岡信や清岡卓行の詩を唄った。

でも、大衆化しなかった。つまり多くの人にはうけなかった。
息が短いんだろうね。そうした歌は、歌詞が突出している分だけ
一度聴いたら、すぐに歌全体に納得してしまって、愛唱されたりはしない。

でも、その谷川俊太郎も、たとえば彼の有名な歌詞
「鉄腕アトム」は、谷川が完全に大衆側に降りて、愛唱された。

歌われる詩と、読まれる詩、これはまた質が違うのだろうね。


             ---------------------------つづく「別冊カドカワ」

□昔からある、フツー

2005年02月05日 16時41分33秒 | 日録雑感
なんだか、フツーに京町家で昼飯食べてる。
事務所の回りの、お昼処は、畳に障子に縁側みたいな造りが多い。
京都では、こういうスタンスがもうスタンダードになってきているのかもしれない。
そうすると、もう飽きてくる。
飽きるのもフツーのこと。
中身が問題になってくるのは当然。
町家で、まずまず和めてそれから味はフツーでよい。
接客もフツーでよい。
京都の日常につつまれているだけで。

まあ、最近は、あれこれ凝っていない、
「昔からある」店によくいく。
「昔からある」感覚がかえって新鮮。



先日、大阪行ってタワーレコードで買ってきた

ロイ・エルドリッチの4枚組
アーティ・ショー2枚組

そればかり聴いている。車でも。

ロイ・エルドリッチは、アーティ・ショーの
グラマシー・ファイブのメンバーでもあったし、
ハープシコードにからんだり
オスカー・ピーターソンのオルガンとからんだり
元気でしゃれた、ジャズ。

まずまずわくわくしたフツーの日々。

◆人生の思い出

2005年02月04日 14時40分55秒 | 日録雑感
1990年前後は、RPGに熱中したなあ。
ドラクエ3、桃太郎伝説、ファイナルファンタジー、好きだったのが
「ゼルダの伝説」。ハート型のエネルギーがどんどん減って切なくなる。
トルネコには往生した。不眠不休って感じ。

でももう永遠の思い出みたいになっているのが
ドラクエ3。初期のファミコンは、風情があった。
ヤキュー風情ではなくて、ファミコン風情。

カンダダ、好きだったよ。

それから、湖を渡るときに悲しい曲が流れて、押し戻される。
あの悲しさは、いまでも鮮烈。

普通の市民が市長になって、牢獄に入る。鍵を見つけて逃がしてあげるという
エピソードあったね。あのときの会話が泣かせる。
ぼくは、死んだ柴犬、秀吉(アタゴールから拝借)の愛称コンキチにしたら
コンキチパークってできてたし。

いまのドラクエはどうなんだろう。
このごろのRPGは、どれも飽きてしまう。

なにか、面白いのがあったら教えてよ。