文屋

文にまつわるお話。詩・小説・エッセイ・俳句・コピーライティングまで。そして音楽や映画のことも。京都から発信。

●ぼくのいのちに必要な音楽 連載2 ブルックナー

2012年07月23日 10時01分37秒 | 音楽
連載第二回(詩的尺書)
ぼくのいのちに必要な音楽。
アントン・ブルックナー(2)               萩原健次郎


 あるとき、就寝前にブルックナーの交響曲9番をかけて、ふとんの中で聴いていた。ギュンター・ヴァント指揮・ベルリンフィルハーモニーの演奏。この9番は、それまで何度も聴いてきた。でもこのときの音がいつまでも耳について離れない。
 9番は、ブルックナーにとって、生涯最後の曲だ。没年は、1896年。72歳で亡くなっているが、曲が一旦完成したのは、1894年末。全3楽章であるが、死の直前まで最終楽章を構想していたようである。つまり、未完の遺作である。ただ、未完といっても、全曲を聴いてそれが不自然であるとはけっして思えない。トレモノの多様、それが霧深い山巓の情景を浮かび上がらせ、ホルンの合奏による金管の咆哮が、不穏な現実感を予感させ、さらには、寂寥を甘美に閉じこめていくアダージョの旋律美など、そのどれもが、ブルックナー特有の個的な様式が完成されて詰まっている。
 ブルックナーの交響曲は、ただただ冗長で、どの曲を聴いても同じなどと揶揄されるが、私にはまったくそのように思えない。たとえば、先日亡くなった、吉田秀和は、こんな風に書いている。
 「ところが私は、その演奏をききながら、ぐうぐう眠ってしまった。第二楽章(アダージョ)の途中で、眠りこけてしまった私は、ふっと目がさめたら、まだその楽章が続いているのを知り、すっかりびっくりした、何と長ったらしい音楽と思ったものだ。そっと、そのアダージョが終わったら、それに続くスケルツォで、短短長長のリズムの無限のくり返しにつきあわされたのにも閉口した。要するに、私には何にもわからなかったのだ」
           (ブルックナー『第九交響曲』1981年刊「音楽手帖」より) 
 滞在先のザルツブルグで、たまたまクナーパーズブッシュが指揮する第7交響曲を聴いたあとの感想だが、私には羨ましい限りだ。おそらく、60年代のことであろう。たとえば、なんの準備もなくいきなりブルックナーの80分にも及ぶ曲に接したら、「眠くなる」のもわからないでもない。たとえばベートーベンの交響曲のように、各曲にきわだった特長があるわけでもない。また、マーラーのように突如として激情があふれ出すといった極端な変化もない。
 しかし、吉田秀和は、同文で次のようにつづけている。
 「では、ブルックナーの何が、そんなによいのか? 音楽のクライマックスが緊張の絶頂であると同時に、大きな、底知れないほど深い解決のやすらぎでもあるということ。その点でまず、彼は比類のない音楽を書いた」。
 「ベートーベンは緊張を急速に高めてゆくために、リズムをだんだん加速させてゆく。その結果、主要主題はそれを準備していた段階にくらべると、もっと大きな迫力を獲得していることになる。ところが、ブルックナーの主要主題は、一つの行進の終わり、停止を含まずにいない。私たちは、そこでひと息つき、後ろをふりかえったりさえする」。 
 聴後の心象であろうが、まさにこのブルックナー音楽の髄を言いえている。緊迫をもたらす音楽的な語調を一旦、全停止するいわゆる“ブルックナー休止”、息苦しいほどに歪みはねる奇妙なスケルツォ、諦観を甘やかに抱擁するようなアダージョ。これら特有の作法は、一旦聴く私たちに断言を避け、深い永遠を見せる。そして決然と、留保される。曲の一端、森の中の単一の木を眺めただけでは、何が意識され主張されようとしているかは、判然としない。しかし、聴き終えたとき、確かに聴きとったことの充足が訪れる。
 私のある夜の強い体感も、不思議な言い方になるが、音の最中にあったわけではない。この交響曲9番の第1楽章の終盤に訪れる、展開部のあとの完全な無音(沈黙)に痴れてしまったのである。とくにヴァント指揮による演奏でのこの部分は、凄まじい。いくつかの主題が現れ重なり、圧倒的な頂へ登りつめたあと突如として音が止む。暗闇の床で聴いていたからだろうか、比喩ではなく、つまりは、迫りくる実音の渦中にいたのであるからこう喩えられるが、無情が束になって落下していった。架空(音像)であるとはいえ、それは世界が谷底に向かって瓦解、崩壊する様であった。
 生きようとするもの、そして死にいこうとするもの、そのどちらの意志も無にする、“無音の純音”といってもいい。そうした主張がきっぱりとシンフォニーという芸術で美しく昇華されているのである。吉田秀和のいう“底知れないほど深い解決のやすらぎ”という感慨であろう。この一曲で、しかもほんの数秒の沈黙に、本質がある。自己救済としてのブルックナー音楽の魅力はつきない。


                               つづく  

●夏の詩人10「余生と観照」

2012年07月19日 23時12分24秒 | 文学全部
夏の詩人10

余生と観照


小津安二郎の遺作となった、『「秋刀魚の味』は、軍艦マーチを聴く映画なのかもしれない。定年を間近にした主人公は、戦中、駆逐艦の艦長をしていた。そのこと自体は、劇の流れの大筋に強くかかわることではない。物語は単純だ。妻に先だたれた主人公の一人娘が嫁いでいくまでの話が描かれている。その意味では、見る者だれしもに共感を呼ぶ、平易な家庭劇の体裁をとっている。しかし、劇中の挿入曲としてあの「軍艦マーチ」が、前半で2回、後半で1回、そして悲嘆が盛り上がる最後半には、主人公役の笠智衆が直接、口ずさみまた、そこに弦楽合奏によってこの曲がかぶせられる。つまり大きな劇性のないこの一編の作品の中で、計5回も挿入される。もちろん、小津の企ては、けっして劇性の流れを阻むような感じではない。どちらかというと、自然な筋運びのうちにさりげなく挿まれる。ただ、軍艦マーチといえば、私たちの記憶ではパチンコ店のBGMとして、まさに手垢にまみれた俗流の象徴のような音楽なのである。異様といえば、異様である。
 
商人らは映画を見ない 夕方彼らは
たべ物と適量の酒と冷たいものをもとめる
事務所で一日の勤めををへたわかい女が
まだ暮れるには間のある街路をあゆむ
青葉した並木や焼跡ののびた雑草の緑に
少しづつ疲れを回復しながら
そしてちらとわが家の夜(よる)の茶の間を思ひ浮べる
そこに帰つてゆく前にゆつくり考へてみねばならぬ事が
あるやうな気がする
それが何なのか自分にもわからぬが
どこかに坐つてよく考へねばならぬ気がする
大都会でひとは何処でしづかに坐つたらいゝのか
ひとり考へるための椅子はどこにあるのか

<中略>

もう何も考へることはなくなつてゐる
また別になんにも考へもしなかつたのだ
街には燈がついてゐて
彼女はただぼんやりと気だるく満足した心持で
ジープのつづれざまに走りすぎるのをしばらく待つてから
車道を横ぎる

          (『反響』より「都会の慰め」部分引用)

 伊東の詩は、戦後まもない昭和22年、小津の「秋刀魚の味」は、昭和37年に上映されている。詩と映画、もちろん媒介となる表現方法はまったく違う。しかし、私にはそれが“戦後的”という意味でとても強く通じ合っているように感じる。
 戦中に、小津安二郎は従軍カメラマンとして戦地におもむいている。戦地から帰国した昭和14年の便りに、こう記されている。

 弾にあたる。戦死をする。着のみ着のまゝ埃と汗と垢で湯灌もせずに火葬になる。白木の箱に納まって東京に帰ったら、先づ水道の蛇口の下に骨箱を置いて頭からどうどう、
 暫く水をかけて貰い度い。足先を凝視めて歩きながらそう思った。
                (『小津安二郎を読む』フィルムアート社刊の年譜より)

 それから十数年を経過して、映画で「軍艦マーチ」薄皮のようにはかなく鳴る。その音は、あっけらかんと浅薄に時代の表層に浮き上がる。人に言えないほどの悲惨な体験もし、無数の惨たらしい景物に接してきただろう。しかし、映画の中では、ただ空しさの象徴として“戦争”という陰画が挿入される。

                   ●

 一方、伊東静雄は、「都会の慰め」を書いていた戦後間もない頃の書簡に次のように記している。

 丁度一年目の八月二十日ごろでありました。その日は颱風の余波が、河内平野を過ぎよ
 うとして、しきりに雷鳴のある日でありました。それから二三日目に未知の青年(三高の
学生)が来訪し、その人が話のついでに、蓮田さんに対する敬愛の表情を述べましたので、
その最後のことををしへましたら、急にその青年は、顔面蒼白になり、貧血をおこした
模様で、失礼しますと云つて私の前に仰向けにねころびました。私は驚くと同時に、こ
の青年の肉体にまでしみこんでゐた蓮田さんの影響を思ひ、痛切の情にうたれました。私は『ひとりの友を失つて、他の多くの友をも遠ざかつてゐたい気持』とそのころの心境をノートに書きとめておきました。ほんたうに壮年時代が過ぎたといふ感がいたします。『余生』といふことも考へます。私はただこれからは『観る』生活をつづけようと思ひます。
              (昭和二十一年十一月十四日清水文雄宛・傍線筆者)
蓮田とは、蓮田善明のことである。終戦を迎えた南方の戦地、シンガポールのジョホールバルで上官を射殺し、自決している。それは、ある種自らの主義への殉教であり殉死であった。上官は、敗戦に際し愛国の志を非難した。そうしたあからさまな背信に我慢ができなかったのだろう。そうした報せを聞いて伊東はどう思ったのか。戦前から自ら最も信頼する文芸の同志であり心の友であったその人が主義に殉じて、凄絶な死を遂げた。ある季節が終わった。そのことを先に引用した書面の言葉が如実に示している。「壮年時代が過ぎ」、「余生」と「観る生活」がはじまった。
 「都会の慰め」は、まさに『観る』記述に従っている。この方法は、伊東が終生拘泥したエーリッヒ・ケストナーの新即物主義の書法であるともいえる。
 戦前から戦中にかけて、伊東は文語を用いた擬古的な書法と平易な口語で即物的な書法を混在して詩集にまとめていた。このアンビバレンツは、伊東詩の理解を妨げていた。そして戦後には、この擬古的で大時代的な浪漫の色濃い書法を捨てている。しかし、このアンビバレンツの傾向にしても、二つの書法というフィルターをはずし、書かれている内容を微細に読解していけば、そこに大時代の状況や国家や愛国の志を意識したような作品は意外と少ないということがわかる。少なくとも、伊東の詩は非日常を描くというよりも、むしろなにげない日常の些事を題材に書かれていることが多い。ただ、戦後は、その浪漫的な偽装としての書法を排したのである。これが、「余生」である「観る」書法への転換ともいえる。それは、ひとことでいうならば、諦観の書法だ。
 詩編の作中の人物に語らせた言葉、「もう何も考へることはなくなつてゐる/また別になんにも考へもしなかつたのだ」という嘆息は、そのまま伊東の諦観を語っている。

                   ●

 小津安二郎もまた、戦後のいくつかの作品を通じて映画における物語や観念といった大時代的な浪漫を映像の背後に隠した。あるいは退けたともいえる。たとえば、そこに家族というようなモチーフがあり濃厚な愛僧劇をきわだたせて映画の感興を増すことも考えられる。それはもちろん小津にはわかっている。悲哀があるのであれば、主人公はその悲哀を台詞を介して語ればいい。しかし、映像は、あくまで冷徹でときに希薄なふりをする。なにも浪漫は語られない。ただ、日常の些事のなにげない会話とそこにある事物(記号)だけが映し出される。
 「秋刀魚の味」においても、それが顕著だ。バーや居酒屋の看板、器、電話機、鉄道の駅やホーム、家屋の調度や、植栽など執拗とも思えるほどに事物が前面に顕れる。主人公の嘆息や台詞は、この事物に紛れるほど薄く配置される。そしてまさに「余生」の音としての「軍艦マーチ」も紛れている。

●伊東静雄論 夏の詩人8 初出「海鳴り」

2012年07月19日 23時04分49秒 | 文学全部
  夏の詩人 8    萩原健次郎

開花する悲哀
 
 いつの頃だったろうか、空き地に咲く朝顔を見つけたのは。それは、私の住む京都・北山の近隣に住む人の野菜畑の隅に、うち捨てられ、夏の終わりから秋にかけて地を這いながら花弁を無造作に連ねていた。雑草の風情と化した、野生の朝顔。その花は、空よりも海の色よりも濃い紺碧だった。一つひとつの色合いも姿も完璧なほど可憐ではあるが、地に横たう草群れとなったその一隅の光景は、無惨とも思えた。
 救う気持ちにでもなったのだろう。私はある時、畑にしゃがみこんでその種子を数粒拾って持ち帰り、ここ数年鉢に植えて、毎年のように見事な花を咲かせた。

 伊東静雄の全詩集の中から朝顔の文字を拾い上げてみると四作見いだせる。それらは、戦前・中に出された四つの詩集すべてに挿まれている。そのうちの三作を引用する。

 秋のほの明い一隅に私はすぎなく
 なつた
 充溢であつた日のやうに
 私の中に 私の憩ひに
 鮮(ルビ あたら)しい陰影になつて
 朝顔は咲くことは出来なく
 なつた
        (『わがひとに與ふる哀歌』より「咏嘆」)

 悲傷が露わになっている。ほとんど詩人の心性が晒されているようで珍しく無防備である。日記において「美しい詩が書きたい」と嘆息し、事実眼前のその先の彼岸に詩を仮構(架構)する詩人の手際は、対岸のそれとは別に、此岸の「吾」を用意する。彼岸と此岸、それは、単純に現生(現世ではなく筆者の造語)と他生という構図で解されるものではない。確かに、この『咏嘆』のような、己から発した直情的な作品においては俳諧的な言語を即物的かつ情緒で配した擬古文調の喩法は見られない。そうした意味での無防備なのだ。
 では、伊東の“防備”とはどのような態なのだろうか。私は、本誌の前号までに伊東の卒論である「子規の俳論」について述べてきた。その考察について時を経て今思えば
あの俳論は、実は、伊東の「リアリズム試論」ではなかったのかと望観し始めた。主題は、もちろん正岡子規の「写生論」をめぐって自らの俳論が語られているのだが、その内実においてはマルクス主義に根差したリアリズム文学に対する自分なりの思考を経めぐらせたものではないだろうか。そして、詩人は、事物がそこにある、つまりは、現実の事物の深奥にあるところの生を写すことが、文学における本然であると覚る。この生とは、物のフィジカルな意味での本質などではなく、詩人という身体を透過させた、起原としての虚無なのである。そこでは心情として、現生に対する惜別と諦念と悲哀が混沌として混ざっている。
 此方側の混沌とした「吾」の地平から、彼方へ架けられる審美としての喩の体躯。それが伊東の抒情詩なのだろう。そこにある方法としての俳諧。俳諧とは、長短三十六句の連なりを数名で巻く、共同文芸である。それは「座」の文芸などとも言われる。ここでは、書く主体は、一義ではなくむしろ無署名性をも希求される。一義は、森羅万象、喜怒哀楽、自然の事物を一巻に封じた歌仙という作物であり、彼方に架けられた擬世界こそがすべてなのだ。作者である連衆たちは、一巻の作物に仮託し頼み、寄り、擬世界が成る。しかも、芭蕉は、「文台引下ろせば、すなわち反古也」(『三冊子』)と教える。つまり、その場で作り成った一巻の作物は、その場で捨てなさいと言っている。
 仮託された世界が彼岸にあり、創作主体の現実は、此岸にある。始めに掲げた、「咏嘆」における「朝顔」は、その意味では、此岸に根ざしたストレートな心根なのだろう。彼岸に架けられた擬世界ではない。「咏嘆」が出版されたのが、昭和十年。それから五年後に出版された「夏花」では、それが微妙に異なってくる。

 去年の夏、その頃住んでゐた、市中(ルビ しちゅう)の一
 日中陽差の落ちて来ないわが家(ルビ や)の庭に、一莖(ルビ ひとくき)の朝顔が生ひ出でたが、その花は、夕の来
 るまで凋むことを知らず咲きつづけて、私を悲しませた。
 その時の歌、

 そこと知られぬ吹上(ルビ ふきあげ)の
 終夜(ルビ しゆうや)せはしき聲ありて
 この明け方に見出でしは
 つひに覺めゐしわが夢の
 朝顔の花咲けるさま

 さあれみ空に眞晝過ぎ
 人の耳には消えにしを
 かのふきあげの魅惑(ルビ まどはし)に
 己(ルビ わ)が時逝(ルビ ゆ)きて朝顔の
 なほ頼みゐる花のゆめ
           (『夏花』より「朝顔」傍線筆者)

 前の詩篇「咏嘆」では、己が身は朝顔の花に託されているが、この詩篇においては、前半の前書き部分は、「咏嘆」と変わらない此岸に拠ったスタンスだが、後半の擬古文調の謳(ルビ うた)においては、そのまま、俳諧における独吟の趣を呈している。
 前半の前書きは、現生での詩人自らの内部に交響する感情吐露である。傍線を付した「私を悲しませた」という言葉にそれは象徴されている。まさに真実の咏嘆であり、呟きであるだろう。しかし後半の謳となると、彼岸に架けられた喩の体躯だけが中空に出現する。それは、ある意味で、内部(身体・感情)とは通底していないかのような、外部の作物そのものにも見える。

 伊東の大学の恩師である潁原退蔵は、この詩集『夏花』冒頭に収められた「燕」を評して「芭蕉の『句と身と一枚になる』境涯を思わずには居られない」(全集年譜)と激賞している。
 詩集、全編を読み終えて、そこにあるところの混沌を語る時、それを「句と身が一枚」になっていると言えるかもしれない。しかし、私には、現生と他生の遊離の構図が色濃く見える。
 詩とは、此岸と彼岸、現実と夢幻、感情と言葉という両極がない交ぜになり、それが外化される不可能性を受容する、一歩手前で奇跡的に外部化が成されるものだ。だから内実がどうであれ、文芸の作物が成った時点で、「作身一体」は成されたと言うことはできる。「この作品は己が全てである」と。伊東は、この混沌を「堪へがたければわれ空に投げうつ」(「水中花」)気概で、喩の体躯へと一旦は昇華させて、潔く打ち捨てている。
 伊東における「私」性の問題もここにある。伊東詩に言葉を変えて現れる「私」「われ」「半身」「おのれ」「おれ」などの“擬我”はすべて、この混沌の発現主体といって間違いない。
 芭蕉のいう「句と身が一枚になる」境地とは、此岸にある市井の生活人としての詩人の現実から彼岸に想定される文芸作物へと架橋される混沌の現域のことである。混沌ゆえに、主格の名称は微妙に変化する。そういうよりも俳諧の喩えではないが、無署名性を頼りにして喩の現実だけが連なるが如くに現れる。作品が成った時、そこにあるのは「身と句が一枚」になった、喩的体躯だけなのである。
 伊東は、富士正晴に宛てた書簡にこんなふうに記している。

 (作品「初蝉」を掲げた後)これは擬古文の翻譯風の
 文體で出来てゐるものです。その點一寸、獨りで得意
 になつてゐるのです。然して詩としては小乗的なもの。
 例によつてたいへん唐突な言葉だが、私は一つ大乗詩
 を書きたいと思つてゐます。      (昭和十六年)

 伊東の言を借りれば、彼岸を大乗、現実に根ざした此岸を小乗と言いうるのではないか。このことは、私が本誌連載時のはじめのころに示した、伊東における聖俗の在処についても関連しているように思える。いまは、そのことにはふれえないが、前掲の詩篇「朝顔」における、前半前書きの部分が小乗であり、後半の謳の部分が大乗ということはできる。ただ、そうした構図による腑分けではなく、伊東静雄の抒情詩の魅力とは、これらの構図を超越した、彼岸と此岸との境域にあるところの架橋された、喩的体躯そのものにある。

 垣根に採つた朝顔の種
 小匣(ルビ こばこ)にそれを入れて
 吾子(ルビ あこ)は「蔵(ルビ しま)つておいてね」といふ
 今年の夏は ひとの心が
 トマトや芋のはうに
 行つてゐたのであろう
 方々の家のまはりや野菜畑の隅に
 播きすてられたらしいまま
 小さい野生の漏斗(ルビ じょうご)にかへつて
 ひなびた色の朝顔ばかりを
 見たやうに思ふ
 十月の末 氣象特報のつづいた
 ざわめく雨のころまで
 それは咲いてをつた
 昔の歌や俳諧の なるほどこれは秋の花
 ——世の態(ルビ すがた)と花のさが
 自分はひとりで面白かつた
 しかしいまは誇高い菊の季節
 したたかにうるはしい菊を
 想ふ日多く
 けふも久しぶりに琴が聴きたくて
 子供の母にそれをいふと
 彼女はまるでとりあはず 笑つてもみせなんだ
      (『春のいそぎ』より「菊を想ふ」傍線筆者)

 『夏花』の「朝顔」で、「私を悲しませた。」と嘆息させた花は、それからわずか三年後に出版された『春のいそぎ』では「面白かつた」と叙述されている。しかも、この詩は、大半が朝顔のことが書かれているにもかかわらず「菊を想ふ」と題されている。
 真実の咏嘆も、喩の体躯までもが痩せ細って、無署名性にのみ頼って虚言のように響く。それどころか、この詩篇は戦時という機会に便乗した機会詩以外のなにものでもない。ただ、この詩篇の題名と、「自分はひとりで面白かつた/しかしいまは誇高い菊の季節/したたかにうるはしい菊を/想ふ日多く」の数行、つまり「菊」を省けば、朝顔に仮託された詩篇として成り立つように思える。
 問題は、悲傷露わなる混沌なのだ。そこにおいては、曖昧な擬我性は、問われるものではない。
 しかしながら、こうした機会詩においては、彼此岸のはざまに架けられた喩的体躯は、肉を持たず貧弱に見える。
 喩的体躯といえども、その作品世界は現在する。伊東詩における抒情の質とは、まさにここに存するところの稀なる審美であったはずだ。俳諧のごとくの無署名的な発現主体によって成された混沌。そこに架けられた詩の現(ルビ うつつ)は、いくつもの作品において痛切な悲哀をたたえているではないか。

 今年の夏も、かつて打ち捨てられていた朝顔の種子は、見事な紺碧の花弁をつけるだろう。花は、自らの署名性を犠牲にしても、作物としての審美を披瀝する。悲哀の花は誰が咲かせたのであろうか。そんなことは問題外のことである。