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夏の詩人 13  花鳥と燈

2015年07月07日 13時09分14秒 | 文学全部
夏の詩人13  花鳥と燈


詩集『夏花』は、『わがひとに与ふる哀歌』(昭和十年)と『春のいそぎ』(昭和十八年)の間、昭和十五年に刊行されている。全二十一篇から成る。この詩集について伊東は、次のように述べている。

『詩集夏花』は、一部を大阪市内の狭い露地の家で、大部分を、堺市北三国ヶ丘の斜面に立つてゐる家で書いた。ここに引越すとすぐ大陸の戦争が起こつた。坂下の大道路を幾日も大軍団が通るのを眺めた。――<中略>――私は毎日のやうに子供をつれて路傍に立ち、敬礼した。家にじつと坐つてゐても、胸がはあはあと息づき強く、我慢出来ず興奮したりした。そんななかで、わたしの書く詩は、依然として、花や鳥の詩になるのであつた。 
              (『コギト』昭和十五年五月  傍点筆者)

 この「依然として」という言葉であるが、詩人のこれまでの作品傾向のモチーフを語っているのではないだろう。この四年半前に出版された『わがひとに与ふる哀歌』を見ても、「花や鳥」が材となっている作品はそれほど多くはない。むしろ詩人の想念に浮かぶ叙景をしるした作品を多く見受けられる。そうすれば、「依然として」と述べた意味合いは、むしろ「そんななかで」という時流の空気に反したひとつの釈明として語られているように感じられる。つまり「依然として」とは、『哀歌』刊行以後の昭和十年から、十四年までのより激化する戦中の空気に対応した言葉であろうと思われる。
 それから、引用末尾の言葉「なるのであつた」も気になる。これは、詩人が意図して「花や鳥」を材として書いたというよりも、むしろ消極的な意味において、なぜだかそう「なるのであつた」と述懐しているようにも読める。
 さて、詩集『夏花』であるが、全21編の作品をひと通り眺めていけば、ほとんどすべてといっていいくらいに、花、鳥、虫、魚などの生き物の気配があらわれる。

 草むらに子供は踠(ルビもが)く小鳥を見つけた。
 子供はのがしはしなかつた。
 けれど何か瀕死に傷いた小鳥の方でも
 はげしくその指に噛みついた。

 子供はハツトその愛撫を裏切られて
 小鳥を力まかせに投げつけた。
 小鳥は奇妙につよく空(ルビくう)を蹴り
 飜り 自然にかたへの枝をえらんだ。

 自然に? 左様 充分自然に!
――やがて子供は見たのであつた、
 礫(ルビこいし)のやうにそれが地上に落ちるのを。
 そこに小鳥はらくらくと仰けにね転んだ。
               (『自然に、充分自然に』全編)

 伊東の代表作ともいえる『水中花』の次に配された作品。『水中花』においては描かれた材が、色彩的にも音楽的にもある種の象徴力をもって微細に描写されているのに比べて、本作は意図して淡彩に描写されているように思える。「小鳥」に対する視線としては、冷徹でもあり、薄情にも思える。
 詩人が見た、情景が実際のものであったか、想像上のものであるかはわからない。ただ、この作品で描かれていることは、とても単純である。子供がいる。傷を負った小鳥を見つけ一度は手にとったが、小鳥はその手を逃れ、一旦は樹木の枝にとまったが、地に落ちて死んでしまった。これだけである。しかしよくよく詩篇を見てみると、4行ずつの3連、全12行から成る作品に「小鳥」という言葉が5回、「子供」が4回も記されている。これは、ある種の客観的記述に徹しようとする姿勢であろうか。それとも観察文や写生文に模して、極力、主観的な「思い入れ」を抑制したのだろう。これは、『水中花』に向かう
姿勢とまったく異なっている。
 そしてこの姿勢とはどこに因があるかを見つめるとき、昭和4年に書かれた詩人の卒業論文『子規の俳論』に行き当たる。

 しかして子規は芸術に於ける主観を知識的なものにまで堕せしめないもつともよき方
 法として、先づ主観を没せよ、只ありの儘に自然を見、そのまま模倣せよと言ふ写生
 主義を唱へたのである。――<中略>――次に「理想の弊害」として彼は知識的主観
 のほかに今一つ陳腐なる「感情的主観」も指摘してゐる。
                           (『子規の俳論』)

 「依然として」「なるのであつた」、「花や鳥」とは、主観を排した、それは、冷徹な目で向けられた、時代の状況、もしくは、その潮流に無言のまま流されて生きる民の喩えであろうか。そう私には読める。また、この詩篇の題『自然に、充分自然に』という言葉もまた、卒業論文の文中にある「先づ主観を没せよ、只ありの儘に自然を見、そのまま模倣せよ」に照応しているように読める。
 ただ、いくら冷徹に淡々と小鳥と子供のいる光景を写生したとしても、否、淡々と描写しているからこそ、それを見つめる作者の位置と姿が、逆に反照されて浮かび上がってくる。

 彼の写生といふことが単に在外物象の何等主観の裏づけなき写真術的模倣にとどまら
ず、それを通過して、その最も反極に立つ所の物象の内的真といふこと、客観を描く
ことによつて自己の態き主観を表現しようとする様な境地にまで飛躍しつつあること
を認め得るといふことである。
                           (同)

 写生する客観的対象としてある、「花や鳥」にもはや、伊東静雄の思い入れ(「感情的主観」)はない。それは、時代の大局という背景をあらわす気配といってもよい。では、それらを透徹してさらに、あぶりだされる「自己の主観」とはどこにあるのだろうか。
 詩集『夏花』の詩篇を見ていると、「花や鳥」のほかにもうひとつの重要な像が浮かびあがってくる。それは、「光や燈」のイメージだ。

 万象のこれは自(ルビみづか)ら光る明るさの時刻(ルビとき)。 (『水中花』)

 燈台の頂には、気附かれず緑の光が点(ルビとも)される。   (『夕の海』)

 あゝわれら自(ルビみづか)ら弧寂(ルビこせき)なる発光体なり! (『八月の石にすがりて』)

 燈台の緑のひかりが 彷徨(ルビさまよ)ふ  (『燈台の光を見つつ』)

 仔細に見ればさらに多く、この光の像が散見される。たとえば、燈台、光を発するものは、弧寂ではあるが、透明で繊細で鋭敏で強い意志も感じられる。角度を変えてみれば、ほとんど思い入れのない写生の対象である「花や鳥」の反極とも言えるこれこそが、伊東の喩的身体(内的真)なのではないか。
 伊東静雄における「花や鳥」そして「光や燈」は、けっして彼の詩における“抒情の具”ではない。たとえば吉増剛造は、伊東の詩を読んだ印象として次のように述べている。

 まず気づいたことは、全く予想に反して、伊東静雄の詩から季節感が感じられなかっ
 たことだ。
               (思潮社・現代詩文庫『伊東静雄詩集』)

 そこに描かれた、「花や鳥」は主観的に託された喩えではない。ましてや、日本的な古雅の象徴でもなんでもない。ある種名を与えられた生き物であり、光景の中の事物に近いと言ってもいい。伊東はむしろ、そこを貫いたその先(奥)にある、鋭敏でこわれやすい発光する我を現出させたかったのだろう。

夏の詩人 15  内声と外声

2015年07月07日 12時44分42秒 | 文学全部
夏の詩人 15    内声と外声


 「春の雪」で語られている些景の奥行は、浅い。詩人がその時住んでいた、堺市三国ヶ丘の御陵に、雪が降る。木にうっすら積もった雪が、光に透けている。「ながめゐしわれが想ひ」は、「下草のしめりもかすか」と体感し「春來むと」「ゆきふるあした」の今にいることを確かめている。
 些景と言ったが、それは景物の描写に頼らないがための詩人の細い感性が選択した詩法であったろう。たとえば、俳諧における名辞や事物の象徴性に仮託させる方法に近しい。象徴性を高めるために、景物描写のまわりで修飾される雅語は、けっして浅くない。詩の内、つまり言葉の内声において、「些」であったとしても、一篇の数行を通して渡る時、そこに外なる声も響かせている。
 では、外なる声とはなんだろう。

 みささぎにふるはるの雪
 枝透きてあかるき木々に
つもるともえせぬけはひは

なく聲のけさはきこえず
まなこ閉じ百(ルビもも)ゐむ鳥の
しづかなるはねにかつ消え

        (詩集『春のいそぎ』「春の雪」全三連のうちの前二連)
 
 詩とは、言葉によって書かれていることがすべてであるという考え方もあるだろう。伊東の場合その「すべて」が「些」にすぎない。それを内声といってしまい、書かれた詩の余情や、漏れ出る行間からの声を、外声といって、考えてみると見えてくるものがある。
 もちろん伊東詩の本質を、内と外どちらに見るかといったことを考えることの方法的な正否は、別にしてである。
 外の声といって、まず考えられるのが、詩人の存在を包む時代の気分があげられる。この詩が書かれたのは、戦中のまさにその最中であろう。住まいの近隣へ歩み出で、浅き春の雪に出会う。その雪は、積りもせずただ、朝の光を受けて解けはじめている。光景は、まばゆいばかりの光に満ちてはいるが、それだけにしだいに淡彩に均されて見える。圧倒的な光、そして淡く薄い眼前の様子。詩篇の行末の言葉は、「消え」である。詩人はもう、光景とともに、消滅への予感を察知している。
 たとえば、この一冊の詩集の標題である『春のいそぎ』の「いそぎ」という言葉を取り出してみてもいい。詩集の標題とは、詩人の内と外を繋ぐ、特別な声なのである。仮に、この「春の雪」一篇との接点を考えてみる。「いそぎ」とは、この些景でもある儚い春の光景への没入ととらえてみよう。つまり景と情が、詩において溶解し、一つになる方途を、伊東は望んでいたのではないか。「いそぎ」「消え」、これこそが、溶解への願望と私には読める。そして外の声を想像してみると、そこに、生と滅へ急(ルビせ)くことの運命的な受苦を感ずる。

*

同『春のいそぎ』より、同じ頃に書かれたであろう、もう一篇の春の詩を引く。

 春淺き  

あゝ暗(ルビくら)と まみひそめ  
をさなきものの  
室(ルビしつ)に入りくる  

いつ暮れし        
机のほとり  
ひぢつきてわれ幾刻(ルビいくとき)をありけむ  

ひとりして摘みけりと  
ほこりがほ子が差しいだす  
あはれ野の草の一握り  

その花の名をいへといふなり  
わが子よかの野の上は  
なほひかりありしや   

目とむれば  
げに花ともいへぬ
花著(ルビつ)けり

春淺き雑草の
固くいとちさき  
實(ルビみ)ににたる花の數(ルビかず)なり  

名をいへと汝(ルビなれ)はせがめど  
いかにせむ  
ちちは知らざり  

すべなしや  
わが子よ さなりこは  
しろ花 黄い花とぞいふ  

そをききて点頭(ルビうなづ)ける  
をさなきものの  
あはれなるこころ足らひは  

しろばな きいばな  
こゑ高くうたになしつつ  
走りさる ははのゐる厨の方(ルビかた)へ

             (同詩集「春淺き」全篇)

 伊東の詩の中でも、最も私が好んでいる一篇である。詩集『春のいそぎ』の中に詩人がひそませた、佳篇。ある日の家族の光景ととらえることができる。詩人が暗い書斎にいると、外から娘が帰ってくる。手には雑草を持っている。あどけない子は、光を帯びている。冒頭の「あゝ暗」という関西風のリアルな口語が、一気に光と闇のあざやかな対比を見せる。子は、光につつまれ、詩人は、闇につつまれている。闇は、そこにいる室内の闇だけではない。詩人の心中のすみずみにまで溶解している。
 また、この対比は、花の名称というモチーフを接点とした、親子のつながりの内にも投影されている。子にとっては、その時、切実に知りたいと願っている花の名称が、詩人にとっては、朧な心中に混濁させてしまいたいと思うほどに、そのことは、些事にすぎない。
 この一篇にも、些事や些景の内声が綿密な細工で描かれている。おそらく実際にここで描かれていることは事実であると思う。子は、「あゝ暗」とつぶやいてもいただろう。それは、全篇全行によって示された言葉で、確かに見えてくる。ただ、ここでも私は、伊東の外声の余情を聞いてしまう。作品の終行、末尾の言葉は、またしても描かれた些景から、「走りさる」という生と滅への急きが吐露される。
 あるいは、大胆に、この一篇の詩行を読み終えた後の外声を想像してみる。光の場所と闇の場所、それが接している。私は闇の場所にいる。あるいは、闇の場所にいたいと欲している。そうしたことを意識したのは、ある時、子がふいに発した詰問であった。闇にいる私は、その時いっさいの煩わしい想を捨てて、いそぐように朧な闇を選択した。そして、闇の中に、光も色も、それから花の名辞もすべてが一束となって消えて行く。子の姿とともに。外声とは、これらが瞬く間に消えていく様子のことである。
 些事や些景とともに、急くように消滅することを願う。これが伊東詩における、内外をひっくるめた詩の声である。虚無のあらわれなどといってしまうと、それで済むようなことだろうが、秀逸なのは、それらが実際の詩の構えにおいては、端正にそして淡彩にしかも薄情に仕立てられていることだ。詩人は、一篇の詩を書き終えた後、つまり最終行に至って、結ぶように、光景ともどもそれと溶解するための消滅を希求する。私は、この詩人の特質が、単に書かれた時代の気分などではないと思っている。

*

六月の夜(ルビよ)と晝のあはひに  
萬象のこれは自(ルビみづか)ら光る明るさの時刻(ルビとき)。  
遂(ルビつ)ひ逢はざりし人の面影  
一莖(ルビいっけい)の葵(ルビあふひ)の花の前に立て。  
堪へがたければわれ空に投げうつ水中花。  
金魚の影もそこに閃きつ。  
すべてのものは吾にむかひて  
死ねといふ、  
わが水無月のなどかくはうつくしき。             
(詩集『夏花』「水中花」より後半)

 些事や些景といっては、あまりにも鮮烈であるかもしれない。光彩に満ちた透明な時間。ガラス、水、夜の灯。結びの三行で、光景への消滅的な同化が希求されている。
 詩人は、何になりたいか。こう問うてみた時、伊東ならばこう答えると思う。
 私は、詩になりたい。詩の光景となって滅んでいきたいと。

夏の詩人 14  詠嘆と叙述

2015年07月07日 12時39分53秒 | 文学全部
夏の詩人  14     詠嘆と叙述




 中野重治の『歌』という詩作品は、かつてアジテーションのように聴こえた。しかし、私がこの作品にはじめて接した時から、現在までの歳月を経てこれを読み返してみると、詩人自身への自戒めいた宣言であったように読めてくる。

 お前は歌うな
 お前は赤ままの花やとんぼの羽根を歌うな
 すべてのひよわなもの
 すべてのうそうそとしたもの
 すべての物憂げなものを撥(ルビはじ)き去れ
 すべての風情(ルビふぜい)を擯斥(ルビひんせき)せよ
 もつぱら正直のところを
 腹の足(ルビた)しになるところを
 胸先きを突き上げて來るぎりぎりのところを歌え
 たたかれることによつて彈(ルビは)ねかえる歌を
 恥辱の底から勇氣をくみ來る歌を
 それらの歌々を
 咽喉(ルビのど)をふくらまして嚴しい韻律に歌い上げよ
 それらの歌々を
 行く行く人々の胸郭(ルビきようかく)にたたきこめ
           (『中野重治詩集』より「歌」全篇)

 岩波文庫版の『後書き』には、「私は室生犀星の弟子の一人である」と記している。また東京大学で一年後輩であった、堀辰雄との知己のいきさつについてもふれられている。中野が、自ら抑制したものとは、何なのか。あるいは、自封しようと強く語ったのは一体何なのか。書かれた作品の内にそれはある。たとえば「歌うな」と否定したものとは、「赤ままの花」であり、「ひよわ」で「うそうそとし」「物憂げ」なものであり、逆に「歌え」と肯定したものは、「正直のところ」「腹の足しになる」と対比している。
 この腑分けは、ある種明確である。一方に配置したのは、伝統的な日本的抒情の否定であり、他方肯定したのは、新しき社会主義的リアリズムであったろう。ただ、この対比は、単純にイデオロギーによる表層的な対比にすぎない。なぜかというと、これらの二項は、詩における本質的な位置や姿勢を言っているのではないからだ。これは、詩において「何」を書くかという題材を語っている。言いかえれば、ここでの中野は、自らの詩のある圏域が、状況的なイデオロギーによる倫理にとらわれているだけなのだ。詩に、そうした表層的な倫理の振る舞いは無用である。
 では、詩人という書き手の本質的な位置や姿勢、つまり志向しているところは、どこかと言えば、これも明確に「胸先きを突き上げて來るぎりぎりのところ」であり、「咽喉(ルビのど)をふくらまして嚴しい韻律」を「人々の胸郭(ルビきようかく)にたたきこめ」と激しく語られている。否定したのは、目先という状況への配慮であり、肯定し志向しようとしている詩人の身体は、そこに充満した情と熱を、「突き上げ」「ふくらませ」「たたきこめ」と言っているのである。そうしてつぶさにこの詩を読んでいけば、書きだしの激しい抒情否定の姿勢に反して、自戒ののちに語られる心底において激しい「抒情的姿勢」の肯定を発露しているように私には、読める。
 
 私はこのしずかな水邊(ルビすいへん)を去りましよう
 今日は水さえも私をいとうている
 水の心はおとなしい故
 それとみずからは言い出さない
 ただ私が向うの方へ行くならば
 水は彼自身のしめやかな歌をうたい始めるでしよう
 私はしずかなこの水邊を去りましよう
 水がそれを乞うているようです
            (同「水邊を去る」全篇)

 あきらかに、この詩においては、題材さえも「ひよわ」で「うそうそとし」「物憂げ」で「風情」がある。しかもこの寂しさや憂いの情景への接触は、読むものに迫ってくる。中野は、これを戒めたのだ。



 中野重治は、明治三十五年生まれ。伊東静雄は、その四年後の明治三十九年生まれである。同じ時代を生きた詩人と言える。伊東の詩を引いてみる。

 みささぎにふるはるの雪
 枝透きてあかるき木々に
つもるともえせぬけはひは

なく聲のけさはきこえず
まなこ閉じ百(ルビもも)ゐむ鳥の
しづかなるはねにかつ消え

ながめゐしわれが想ひに
下草のしめりもかすか
春來むとゆきふるあした
        (詩集『春のいそぎ』「春の雪」全篇)

 中野の「水邊を去る」が書かれたのは、大正から昭和の初めにかけてであり、すでに全日本無産者芸術連盟(ナップ)を結成していた。伊東の「春の雪」は、昭和十七年。この時間の隔たりは、到底看過できるものではない。しかし、この二つの情景を感受する二人の詩人の詩人たる身体の脈に、同質の何かを読みとることができる。
 伊東が、この当時住んでいたのは大阪、堺市の北三国ヶ丘である。この地のことを語った文に次のようなものがある。
 「前の所とはすつかり趣の違つた所で、横は廣大な反正御陵、裏は堺市が一望の下に見渡される高爽の地で、夜などはご陵のお濠で變な聲で鳥がなき、近所の原つぱではお化けが出るといふ噂です」(昭和十二年一月付 酒井ゆり子宛書簡より)
 また、次のような作品でも、おそらく同じ景色を描写している。

 この夜更(ルビよふけ)に、わたしの眠をさましたものは何の氣配(ルビけはひ)か。
 硝子窓の向ふに、あゝ今夜も耳原御陵(ルビみみはらごりよう)の丘の斜面で
 火が燃えてゐる。
              <中略>
 それは現(ルビうつつ)の目でみたどの夕影よりも美しかつた、何の表情もないその冷たさ、
  透明さ。
 そして庭には白い木の花が、夕陽(ルビゆふひ)の中に咲いてゐた
 わが幼時の思ひ出の取縋る術(ルビすべ)もないほどに端然(ルビたんぜん)と……。
 あゝこのわたしの夢を覺したのは、さうだ、あの怪しく獣(ルビけもの)めく
 御陵(ルビみささぎ)の夜鳥(ルビやちよう)の叫びではなかつたのだ。
           (詩集『夏花』「夢からさめて」部分)

 伊東の詩を読んで、つくづく思うことではあるが、詩人は、何かを叙述し伝えようとしていない。もちろん、詩に書かれた情景を頭の中に浮かべているのだろうが、その情景はきわめて、小さく薄い。それは、些末や些事という言葉があるように、まさに“些景”といった態だ。またこの傾向は、口語で書かれた作品よりも、文語もしくは雅語で修飾された作品において特に顕著である。
 詩人が転居して住んだ住居、すぐ脇に御陵(「みささぎ」)がある。そこは、当然のように夕照につつまれるし、浅い春の頃には雪がふることもあるだろう。御陵を囲む濠には、水
鳥も棲息しているだろう。その小さな些景を言葉の細工で装飾する。もちろん、その細工を私は否定するつもりはない。そこに、造形された文字による視覚的な美しさも、朗詠することで浮かびたつ音楽もある。またそうした細工への情と熱は、秀逸である。
 ただ、細工され、造形された些景の深部、そして底部を掘って味読するとき、何か確信に満ちた、弧寂にたどりつく。それは、具体的に言葉として作品に顕現しているかというと、つねに翻って、破れ、消えようとしているかのようなのだ。一篇の作品、行の渡りのすべてが、むしろ弧寂の隠喩のように端坐しているとも言える。存外、詠嘆がそこに顕著かと言うと、そうでもない。そうした詠い嘆く、強い言葉は作品中に極力抑制されて、一語に託されている場合が多い。
 中野の「水邊を去る」においても、ほぼ同様の、些景を細工しつつ造形していく手際を見ることができる。
 詩の本然、あるいは、詩人の深い所の姿勢にたどりつくとき、そこに題材や景物の描写のための手際など、つねに副次的なものなのだ。詠嘆であろうが、淡々とした叙述であろうが、それもまた副次にすぎない。
 「お前は歌うな / お前は赤ままの花やとんぼの羽根を歌うな」と語りだしているが、実は『四季派』と言われた詩人たちの作品において、そうした花鳥風月をのみ歌ったものなど存在したのだろうかと、私は考えてしまう。そう、詩における題材など、それはつねに副次的なのだ。そして、詩人の心根の外包にまとわりついているイデオロギーもまた意匠のひとつにすぎない。

岩成達也「みどり、その日々を過ぎて。」を読んで

2013年09月12日 12時52分56秒 | 文学全部

初出誌「びーぐる」


齟齬の代替  『みどり、その日々を過ぎて。』を読んで。

             萩原健次郎


カメラのファインダーをのぞく。肉眼とは、違った世界の肌理が見える。この自然の中で、私は、その欠片であっても、ひとつの数として存在しているのだろうか。あるいは、すくなくとも、レンズの枠内に、それこそ今この時の自然の姿がとらえられているのだから、強いられた事実として在るということになるのだろうと考えたりする。
 私は、見ている。見ている私は、その時の夕暮れの空の下にいる。写真機に記された映像は、いたという事実の証にもなる。しかし、証になるのは、たとえ数秒後であっても過去の証となる。もしも私が身体的な事情で、眼が見えないのならどうだろう。過去の証は、聴こえてくる音となり、声となり言葉となる。あるいは、わずかな光量の変化は察知できるかもしれない。空気や風に混じる匂いに頼るかもしれない。手や肌のふれる感触にも、記されるだろう。人間のこうした五感を交えた行いは、それでも過去の証をただ反芻しているにすぎない。なぜなら、器官から得た情報は、ひと時に紡がれて混在し錯綜し、ときには紛れて失ってしまうかもしれない。これが、さみしさやはかなさの、私たちの濃密に堆積するある種の感情の正体なのかもしれない。紡ぐという営みの明滅や、反芻、そして繰り返される齟齬と紛失。
 岩成達也さんの『みどり、その日々を過ぎて。』を読みながら、ずいぶん以前に岩成さんとともに、みどりさんにお目にかかった日のことを思い出していた。それは、ある集まりでのほんの短い時間であったが、私が感じたことが、この一冊の書物にそっくり収まっていると思った。そのとき、岩成さんは奥様に対して、終始やわらかく微笑み、優しく見つめているようであった。こうした日常の光景を語ることを岩成さんは、嫌うかもしれない。
 本書のあとがきには、次のように記されている「従来、私は私的なことを作品にしたてることは極力避けてきた。というのは、感慨表出や感情吐露ということに、心から嫌悪を覚えていたからである」と。「私的な」と言えば、一冊すべてが、表面上は過ぎた時間がそのまま記されているのだからそうとも言える。しかし、ここには、少なくとも主題となる部分において、「感慨」や「感情」やその「吐露」を聴くことはない。はじめに一書を読了した印象を述べれば、そこに静謐に堆積した時間の森が、言葉で記されていると言ったらいいだろうか。その森は、外縁は定かではないが、緻密に塑型されている。記述は、詩人の記憶に添って正確に、見たものや起きたできごととして記されている。みどりさんが好きであった路傍のスミレのことや、句会で記した句や、旅先で見たもの起こったこと、そして、偶発的な数字の縁起など。木や花や、衣服などの名称とともに列記されていく。それらは、事物の、そして名の断片であるとともに、切実な時間の欠片でもある。この断片こそが、本詩集における主題に用意された設えであるかもしれない。事実、読む者は、そうであるかのように、感慨や感情以上に、自分とはまったく関わりのない事物や名が明瞭に堆積した形姿となって顕現するのを強く望見する。また、この時間の記述は、けっして「物語」や「説話」へと浪漫の嵩を上げようとしない。こうした物語といった仮構体の「糖衣」を避けることで、時に淡々とつづられる回想譚のように読めるかもしれない。さらには、過ぎた時を慈しむ、「哀惜」や「哀悼」のそう「愛」(あえて言えば)の記述と読むこともできる。
 ただ、本書を微細に読みすすめていくとわかるのだが、愛や物語や回想といった感情の脈がどこにも、言葉として結節していないことを覚る。あるいはこうも言える。事物や名や、事実として記された書簡文などは、いったん言葉として作品上結節しているように見える。しかし、振り返ってその光景を見渡すと「明瞭な輪郭のない」「遠い森」として、はるかに茫洋と、光を放って照り返してくるのである。
 それは、虚(齟齬による)を把捉した暫時の塑型物だ。あるいは、もはや態の無い光の気配であるかもしれない。言葉で結節しえないもの、事物の列記でも結節しえないものを、それでもその先の白地点に、質量の無い無彩の態として印していこうとする、詩人の営みがここにある。
 茫洋としているが、虚の森の堆積は、深い。そしてその基層には熱い温度帯がある。輪郭は無いが、着実に層は、事後に重なり幾重にも膨らみを増しているようにも思える。その熱は、時間を記述する手の熱なのだ。そこから未知へ持続する飽くなき齟齬の結節点。存在することの代替として、どこかに、だれかに捧げられている。

■15年くらい前に書いた、写真と詩に関わる文

2012年10月06日 18時30分03秒 | 文学全部

15年ぐらい前に書いた、写真と詩に関する文章です。


永遠の齟齬に恋して。



 写真に撮られると魂を抜かれると昔の人は、それを忌み嫌ったという。私が最近しばしば思うことは、それとは逆に「写真を撮ると魂を抜かれる」ということだ。

 道を歩いていて、美しいスミレが咲いているのを見つけた。ほとんど無自覚にカメラを向ける。少し慎重にフレーミングして、そしてシャッターを押す。そこには、なんの意志も意図もまったくない。写真を撮ることは、意識を介した行為でも表現でもなんでもない。時間を経て、やがてフィルムがそのままプリントされて、その場の光景が記録されていることを、はじめて自覚する。そして私は、いつもそのことを不思議に思う。

 機械あるいは、写真というシステムに対して私は、通じていない、つまりは幼稚であるのだろうか。そんなことはない。カメラという機械には、一般の人以上に愛着も執着もあるし、もう何年も写真を撮り、そしてプリントされたものを先の執着の角度とはまた違った感情をもって束ねて集めている。

 よく写真表現などというが、これらの行為は表現とも、ましてや芸術などというものとはほど遠い、あるいはまったく対極にある実に不遜で、倒錯した行為であるように思えてしかたがない。なにか、うしろめたく、どちらかといえば、密やかなことであるように感じられる。束ねられたプリントは、死屍累々というか、生命の輝きのない乾いた光景ばかりだ。私は、ひょっとしたら剥製趣味を、写真というシステムで覆い隠しつつ楽しんでいるのだろうか。そんなふうに、卑下することもある。

 私が、スミレと出会ったその瞬間の光景は、確かに生命の動いている時間であるだろう。しかし、私とスミレが無意識という、カメラのレンズを媒介にし、対峙しているとき、そこに彼岸と此岸といった、別の時間の確かな齟齬の感覚に根ざした「呆けた関係」が生まれる。これを、「表現」といわず、このごろは「交換」といってカタをつけている。

 無意識というが、そこになにもないのだろうか。自分の撮った写真を他人に見せたとき、「独特の感覚ですね。なかなか撮れませんよ」などとほめていただくこともある。また、「よく撮れたね、このへんの光の回り具合とか、背景のボケ味が素晴らしい」などと評価されることもある。本人にとっては、自分がいったいその時、なににとらまえられなにを焦点にシャッターを押したのかもわからないにもかかわらず、そうまでいわれると、やはり感覚は、そこにあったのだろう。しかし、その感覚とても、たとえばそれを「なけなしの金」と考えれば目前の光景と、交換したにすぎないわけで、撮り記録したことは、限りなく偶然に近い。

 被写体である、この世界は我以外の物や時が横溢している。その容量たるや、我の量を消滅させるほどに世界に圧倒されている。しかしそこにある時間は、対等の量(ユニット)で計ることが可能である。剥製趣味といった根拠もこんな事実に根ざしているのであろうか。世界がその一瞬、たとえば250分の1秒という時間のなかで、単一化されて、ともに死するわけである。パフォーミング・アートというものは、こうしたものだろうが、写真の場合は、その意味が多層化されている。

 たとえば、スミレと違って、偶然ではなく自覚してそこへ、その被写体である光景へと出かけて写真を撮りに行けばどうだろうか。いわゆる定点観測のようなものだが、私は、この5年ほど、とある場所の写真を撮りつづけている。そこは、わが家のある、京都・修学院の離宮の敷地内なのだが、一部農地になっている土地がある。古くからここで暮らしている農民は出入りが許されているが、一般には足を踏み込むことを禁じている。周囲は、宮内庁によって鉄条網がはりめぐらされている。わが家の裏手から、赤山禅院という寺院の参道を少し上り、ちょっと横道をそれたところで、その光景に行き当たる。

 通行止めになったそこには、鉄の扉があり、厳重に警戒されている。しかしその向こう側では、農作業をしている人がおり、ただ一軒、粗末なトタン張りの倉庫のような小屋だけがある。鉄扉の左から2つ目、下の段にカメラを構えて撮影する。まったく同じ角度のローアングル、同じフレーミングで、四季を通じて撮っている。雨の時も雪の時も出かけていって撮っている。いつだったか、昨年の秋頃だったと思うが、いつもの場所に洗濯洗剤のカラ箱が落ちているのを発見した。私は、かなり激しくショックをうけ、動揺した。どのような動揺なのか表しようのない無情なものだった。目前の箱は、取り除こうとするが、とれない。中にいる人に叫んで、ゴミを拾ってもらうわけにもいかない。ふだんは、きっと私だけしか来る

者はいないと思っていたが、ゴミがあるということは、誰かの手によって捨てられたのだろう。それからは、いままで、かの地へいくことを、私は軽く拒んでいる。

 その場所は、数年を経過しても全く変わらない光景を見せている。それは、樹木の葉群がふくらんだり、草の色が濃淡を見せたり、また、紅葉に染まろうが、積雪のためいちめんが真っ白になろうが、変わることはない。そう、思い込んで被写体と私は、確信に満ちた契約を結んでいるのであるが、たったひとつのゴミという挿入物のために、この幸福な関係が突如として壊れてしまうのである。

 ここでは、我以外の世界の容量が、むしろ狭量に凍結される。(と、多分錯覚される)意識的に自覚して被写体を選択しても、写真における、私の事態はなんら変わることがない。ただ、ふたつの時間の齟齬関係をつつみこむ、ある同心円上の単一(ユニット)感覚はどちらにも共通してある。      

 たとえば、写真史上著名な作品である、アンセル・アダムスの撮ったアメリカの大地、これなどは、見る者にまで魂を抜くような作用をもたらす。また、アッジェのパリならどうだろうか。ここでは、徹底的にパリ(世界)と私(アッジェ)のすれ違いが表れている。まるで、撮影者であるアッジェは、この世に生きていなかったようなのだ。ウィトキンの場合ならそれは、ダイレクトに剥製趣味の露呈というかたちで表れる。

 これらの諸作にも共通していることは、写真という無情のシステムを熟知していながらなおも世界とのユニット化を志向していることだ。共謀といおうか、別のいいかたをすれば、永遠に遠い「齟齬」というカラクリを知った上でなおも執拗に、詐欺システムに身を委ねる自業自得の行為のようでもある。あるいは、彼岸と此岸の別の時間を、もうもうと煙を上げて燃え消滅するまでに擦り合わせ無化していこうとする情熱のようでもある。

 私は、昨年秋に出した著書に「求愛」という書名を付した。なぜ、この標題が浮かんできたのかは、私自身もその時点では不明であったが、なんだかいまここで、わかったような気がしてきた。その書の表紙写真もまた、先の空白の農地を撮った、いつかの一片である。不可能なユニット化を求めつつ、その齟齬関係の中に高速に身を委ねていく。それは、人生のなにかに、確かに似ている。

 私は、交換(表現)の場で、絶えず魂を骨抜きにされていく。それはそれで納得はしているのだが、とても無惨である。

 写真について思うことは、詩について思うことと驚くほど類似している。それは、ごく自然なことなのだろうが、そこにあるシステムに違いはないのだろうか。ともあれ、現在、私は、詩を書くことと、写真を撮るという、ふたつの「交換」行為は、同じことだと思っている。むしろ、混同しているといったらいいだろうか。


●夏の詩人10「余生と観照」

2012年07月19日 23時12分24秒 | 文学全部
夏の詩人10

余生と観照


小津安二郎の遺作となった、『「秋刀魚の味』は、軍艦マーチを聴く映画なのかもしれない。定年を間近にした主人公は、戦中、駆逐艦の艦長をしていた。そのこと自体は、劇の流れの大筋に強くかかわることではない。物語は単純だ。妻に先だたれた主人公の一人娘が嫁いでいくまでの話が描かれている。その意味では、見る者だれしもに共感を呼ぶ、平易な家庭劇の体裁をとっている。しかし、劇中の挿入曲としてあの「軍艦マーチ」が、前半で2回、後半で1回、そして悲嘆が盛り上がる最後半には、主人公役の笠智衆が直接、口ずさみまた、そこに弦楽合奏によってこの曲がかぶせられる。つまり大きな劇性のないこの一編の作品の中で、計5回も挿入される。もちろん、小津の企ては、けっして劇性の流れを阻むような感じではない。どちらかというと、自然な筋運びのうちにさりげなく挿まれる。ただ、軍艦マーチといえば、私たちの記憶ではパチンコ店のBGMとして、まさに手垢にまみれた俗流の象徴のような音楽なのである。異様といえば、異様である。
 
商人らは映画を見ない 夕方彼らは
たべ物と適量の酒と冷たいものをもとめる
事務所で一日の勤めををへたわかい女が
まだ暮れるには間のある街路をあゆむ
青葉した並木や焼跡ののびた雑草の緑に
少しづつ疲れを回復しながら
そしてちらとわが家の夜(よる)の茶の間を思ひ浮べる
そこに帰つてゆく前にゆつくり考へてみねばならぬ事が
あるやうな気がする
それが何なのか自分にもわからぬが
どこかに坐つてよく考へねばならぬ気がする
大都会でひとは何処でしづかに坐つたらいゝのか
ひとり考へるための椅子はどこにあるのか

<中略>

もう何も考へることはなくなつてゐる
また別になんにも考へもしなかつたのだ
街には燈がついてゐて
彼女はただぼんやりと気だるく満足した心持で
ジープのつづれざまに走りすぎるのをしばらく待つてから
車道を横ぎる

          (『反響』より「都会の慰め」部分引用)

 伊東の詩は、戦後まもない昭和22年、小津の「秋刀魚の味」は、昭和37年に上映されている。詩と映画、もちろん媒介となる表現方法はまったく違う。しかし、私にはそれが“戦後的”という意味でとても強く通じ合っているように感じる。
 戦中に、小津安二郎は従軍カメラマンとして戦地におもむいている。戦地から帰国した昭和14年の便りに、こう記されている。

 弾にあたる。戦死をする。着のみ着のまゝ埃と汗と垢で湯灌もせずに火葬になる。白木の箱に納まって東京に帰ったら、先づ水道の蛇口の下に骨箱を置いて頭からどうどう、
 暫く水をかけて貰い度い。足先を凝視めて歩きながらそう思った。
                (『小津安二郎を読む』フィルムアート社刊の年譜より)

 それから十数年を経過して、映画で「軍艦マーチ」薄皮のようにはかなく鳴る。その音は、あっけらかんと浅薄に時代の表層に浮き上がる。人に言えないほどの悲惨な体験もし、無数の惨たらしい景物に接してきただろう。しかし、映画の中では、ただ空しさの象徴として“戦争”という陰画が挿入される。

                   ●

 一方、伊東静雄は、「都会の慰め」を書いていた戦後間もない頃の書簡に次のように記している。

 丁度一年目の八月二十日ごろでありました。その日は颱風の余波が、河内平野を過ぎよ
 うとして、しきりに雷鳴のある日でありました。それから二三日目に未知の青年(三高の
学生)が来訪し、その人が話のついでに、蓮田さんに対する敬愛の表情を述べましたので、
その最後のことををしへましたら、急にその青年は、顔面蒼白になり、貧血をおこした
模様で、失礼しますと云つて私の前に仰向けにねころびました。私は驚くと同時に、こ
の青年の肉体にまでしみこんでゐた蓮田さんの影響を思ひ、痛切の情にうたれました。私は『ひとりの友を失つて、他の多くの友をも遠ざかつてゐたい気持』とそのころの心境をノートに書きとめておきました。ほんたうに壮年時代が過ぎたといふ感がいたします。『余生』といふことも考へます。私はただこれからは『観る』生活をつづけようと思ひます。
              (昭和二十一年十一月十四日清水文雄宛・傍線筆者)
蓮田とは、蓮田善明のことである。終戦を迎えた南方の戦地、シンガポールのジョホールバルで上官を射殺し、自決している。それは、ある種自らの主義への殉教であり殉死であった。上官は、敗戦に際し愛国の志を非難した。そうしたあからさまな背信に我慢ができなかったのだろう。そうした報せを聞いて伊東はどう思ったのか。戦前から自ら最も信頼する文芸の同志であり心の友であったその人が主義に殉じて、凄絶な死を遂げた。ある季節が終わった。そのことを先に引用した書面の言葉が如実に示している。「壮年時代が過ぎ」、「余生」と「観る生活」がはじまった。
 「都会の慰め」は、まさに『観る』記述に従っている。この方法は、伊東が終生拘泥したエーリッヒ・ケストナーの新即物主義の書法であるともいえる。
 戦前から戦中にかけて、伊東は文語を用いた擬古的な書法と平易な口語で即物的な書法を混在して詩集にまとめていた。このアンビバレンツは、伊東詩の理解を妨げていた。そして戦後には、この擬古的で大時代的な浪漫の色濃い書法を捨てている。しかし、このアンビバレンツの傾向にしても、二つの書法というフィルターをはずし、書かれている内容を微細に読解していけば、そこに大時代の状況や国家や愛国の志を意識したような作品は意外と少ないということがわかる。少なくとも、伊東の詩は非日常を描くというよりも、むしろなにげない日常の些事を題材に書かれていることが多い。ただ、戦後は、その浪漫的な偽装としての書法を排したのである。これが、「余生」である「観る」書法への転換ともいえる。それは、ひとことでいうならば、諦観の書法だ。
 詩編の作中の人物に語らせた言葉、「もう何も考へることはなくなつてゐる/また別になんにも考へもしなかつたのだ」という嘆息は、そのまま伊東の諦観を語っている。

                   ●

 小津安二郎もまた、戦後のいくつかの作品を通じて映画における物語や観念といった大時代的な浪漫を映像の背後に隠した。あるいは退けたともいえる。たとえば、そこに家族というようなモチーフがあり濃厚な愛僧劇をきわだたせて映画の感興を増すことも考えられる。それはもちろん小津にはわかっている。悲哀があるのであれば、主人公はその悲哀を台詞を介して語ればいい。しかし、映像は、あくまで冷徹でときに希薄なふりをする。なにも浪漫は語られない。ただ、日常の些事のなにげない会話とそこにある事物(記号)だけが映し出される。
 「秋刀魚の味」においても、それが顕著だ。バーや居酒屋の看板、器、電話機、鉄道の駅やホーム、家屋の調度や、植栽など執拗とも思えるほどに事物が前面に顕れる。主人公の嘆息や台詞は、この事物に紛れるほど薄く配置される。そしてまさに「余生」の音としての「軍艦マーチ」も紛れている。

●伊東静雄論 夏の詩人8 初出「海鳴り」

2012年07月19日 23時04分49秒 | 文学全部
  夏の詩人 8    萩原健次郎

開花する悲哀
 
 いつの頃だったろうか、空き地に咲く朝顔を見つけたのは。それは、私の住む京都・北山の近隣に住む人の野菜畑の隅に、うち捨てられ、夏の終わりから秋にかけて地を這いながら花弁を無造作に連ねていた。雑草の風情と化した、野生の朝顔。その花は、空よりも海の色よりも濃い紺碧だった。一つひとつの色合いも姿も完璧なほど可憐ではあるが、地に横たう草群れとなったその一隅の光景は、無惨とも思えた。
 救う気持ちにでもなったのだろう。私はある時、畑にしゃがみこんでその種子を数粒拾って持ち帰り、ここ数年鉢に植えて、毎年のように見事な花を咲かせた。

 伊東静雄の全詩集の中から朝顔の文字を拾い上げてみると四作見いだせる。それらは、戦前・中に出された四つの詩集すべてに挿まれている。そのうちの三作を引用する。

 秋のほの明い一隅に私はすぎなく
 なつた
 充溢であつた日のやうに
 私の中に 私の憩ひに
 鮮(ルビ あたら)しい陰影になつて
 朝顔は咲くことは出来なく
 なつた
        (『わがひとに與ふる哀歌』より「咏嘆」)

 悲傷が露わになっている。ほとんど詩人の心性が晒されているようで珍しく無防備である。日記において「美しい詩が書きたい」と嘆息し、事実眼前のその先の彼岸に詩を仮構(架構)する詩人の手際は、対岸のそれとは別に、此岸の「吾」を用意する。彼岸と此岸、それは、単純に現生(現世ではなく筆者の造語)と他生という構図で解されるものではない。確かに、この『咏嘆』のような、己から発した直情的な作品においては俳諧的な言語を即物的かつ情緒で配した擬古文調の喩法は見られない。そうした意味での無防備なのだ。
 では、伊東の“防備”とはどのような態なのだろうか。私は、本誌の前号までに伊東の卒論である「子規の俳論」について述べてきた。その考察について時を経て今思えば
あの俳論は、実は、伊東の「リアリズム試論」ではなかったのかと望観し始めた。主題は、もちろん正岡子規の「写生論」をめぐって自らの俳論が語られているのだが、その内実においてはマルクス主義に根差したリアリズム文学に対する自分なりの思考を経めぐらせたものではないだろうか。そして、詩人は、事物がそこにある、つまりは、現実の事物の深奥にあるところの生を写すことが、文学における本然であると覚る。この生とは、物のフィジカルな意味での本質などではなく、詩人という身体を透過させた、起原としての虚無なのである。そこでは心情として、現生に対する惜別と諦念と悲哀が混沌として混ざっている。
 此方側の混沌とした「吾」の地平から、彼方へ架けられる審美としての喩の体躯。それが伊東の抒情詩なのだろう。そこにある方法としての俳諧。俳諧とは、長短三十六句の連なりを数名で巻く、共同文芸である。それは「座」の文芸などとも言われる。ここでは、書く主体は、一義ではなくむしろ無署名性をも希求される。一義は、森羅万象、喜怒哀楽、自然の事物を一巻に封じた歌仙という作物であり、彼方に架けられた擬世界こそがすべてなのだ。作者である連衆たちは、一巻の作物に仮託し頼み、寄り、擬世界が成る。しかも、芭蕉は、「文台引下ろせば、すなわち反古也」(『三冊子』)と教える。つまり、その場で作り成った一巻の作物は、その場で捨てなさいと言っている。
 仮託された世界が彼岸にあり、創作主体の現実は、此岸にある。始めに掲げた、「咏嘆」における「朝顔」は、その意味では、此岸に根ざしたストレートな心根なのだろう。彼岸に架けられた擬世界ではない。「咏嘆」が出版されたのが、昭和十年。それから五年後に出版された「夏花」では、それが微妙に異なってくる。

 去年の夏、その頃住んでゐた、市中(ルビ しちゅう)の一
 日中陽差の落ちて来ないわが家(ルビ や)の庭に、一莖(ルビ ひとくき)の朝顔が生ひ出でたが、その花は、夕の来
 るまで凋むことを知らず咲きつづけて、私を悲しませた。
 その時の歌、

 そこと知られぬ吹上(ルビ ふきあげ)の
 終夜(ルビ しゆうや)せはしき聲ありて
 この明け方に見出でしは
 つひに覺めゐしわが夢の
 朝顔の花咲けるさま

 さあれみ空に眞晝過ぎ
 人の耳には消えにしを
 かのふきあげの魅惑(ルビ まどはし)に
 己(ルビ わ)が時逝(ルビ ゆ)きて朝顔の
 なほ頼みゐる花のゆめ
           (『夏花』より「朝顔」傍線筆者)

 前の詩篇「咏嘆」では、己が身は朝顔の花に託されているが、この詩篇においては、前半の前書き部分は、「咏嘆」と変わらない此岸に拠ったスタンスだが、後半の擬古文調の謳(ルビ うた)においては、そのまま、俳諧における独吟の趣を呈している。
 前半の前書きは、現生での詩人自らの内部に交響する感情吐露である。傍線を付した「私を悲しませた」という言葉にそれは象徴されている。まさに真実の咏嘆であり、呟きであるだろう。しかし後半の謳となると、彼岸に架けられた喩の体躯だけが中空に出現する。それは、ある意味で、内部(身体・感情)とは通底していないかのような、外部の作物そのものにも見える。

 伊東の大学の恩師である潁原退蔵は、この詩集『夏花』冒頭に収められた「燕」を評して「芭蕉の『句と身と一枚になる』境涯を思わずには居られない」(全集年譜)と激賞している。
 詩集、全編を読み終えて、そこにあるところの混沌を語る時、それを「句と身が一枚」になっていると言えるかもしれない。しかし、私には、現生と他生の遊離の構図が色濃く見える。
 詩とは、此岸と彼岸、現実と夢幻、感情と言葉という両極がない交ぜになり、それが外化される不可能性を受容する、一歩手前で奇跡的に外部化が成されるものだ。だから内実がどうであれ、文芸の作物が成った時点で、「作身一体」は成されたと言うことはできる。「この作品は己が全てである」と。伊東は、この混沌を「堪へがたければわれ空に投げうつ」(「水中花」)気概で、喩の体躯へと一旦は昇華させて、潔く打ち捨てている。
 伊東における「私」性の問題もここにある。伊東詩に言葉を変えて現れる「私」「われ」「半身」「おのれ」「おれ」などの“擬我”はすべて、この混沌の発現主体といって間違いない。
 芭蕉のいう「句と身が一枚になる」境地とは、此岸にある市井の生活人としての詩人の現実から彼岸に想定される文芸作物へと架橋される混沌の現域のことである。混沌ゆえに、主格の名称は微妙に変化する。そういうよりも俳諧の喩えではないが、無署名性を頼りにして喩の現実だけが連なるが如くに現れる。作品が成った時、そこにあるのは「身と句が一枚」になった、喩的体躯だけなのである。
 伊東は、富士正晴に宛てた書簡にこんなふうに記している。

 (作品「初蝉」を掲げた後)これは擬古文の翻譯風の
 文體で出来てゐるものです。その點一寸、獨りで得意
 になつてゐるのです。然して詩としては小乗的なもの。
 例によつてたいへん唐突な言葉だが、私は一つ大乗詩
 を書きたいと思つてゐます。      (昭和十六年)

 伊東の言を借りれば、彼岸を大乗、現実に根ざした此岸を小乗と言いうるのではないか。このことは、私が本誌連載時のはじめのころに示した、伊東における聖俗の在処についても関連しているように思える。いまは、そのことにはふれえないが、前掲の詩篇「朝顔」における、前半前書きの部分が小乗であり、後半の謳の部分が大乗ということはできる。ただ、そうした構図による腑分けではなく、伊東静雄の抒情詩の魅力とは、これらの構図を超越した、彼岸と此岸との境域にあるところの架橋された、喩的体躯そのものにある。

 垣根に採つた朝顔の種
 小匣(ルビ こばこ)にそれを入れて
 吾子(ルビ あこ)は「蔵(ルビ しま)つておいてね」といふ
 今年の夏は ひとの心が
 トマトや芋のはうに
 行つてゐたのであろう
 方々の家のまはりや野菜畑の隅に
 播きすてられたらしいまま
 小さい野生の漏斗(ルビ じょうご)にかへつて
 ひなびた色の朝顔ばかりを
 見たやうに思ふ
 十月の末 氣象特報のつづいた
 ざわめく雨のころまで
 それは咲いてをつた
 昔の歌や俳諧の なるほどこれは秋の花
 ——世の態(ルビ すがた)と花のさが
 自分はひとりで面白かつた
 しかしいまは誇高い菊の季節
 したたかにうるはしい菊を
 想ふ日多く
 けふも久しぶりに琴が聴きたくて
 子供の母にそれをいふと
 彼女はまるでとりあはず 笑つてもみせなんだ
      (『春のいそぎ』より「菊を想ふ」傍線筆者)

 『夏花』の「朝顔」で、「私を悲しませた。」と嘆息させた花は、それからわずか三年後に出版された『春のいそぎ』では「面白かつた」と叙述されている。しかも、この詩は、大半が朝顔のことが書かれているにもかかわらず「菊を想ふ」と題されている。
 真実の咏嘆も、喩の体躯までもが痩せ細って、無署名性にのみ頼って虚言のように響く。それどころか、この詩篇は戦時という機会に便乗した機会詩以外のなにものでもない。ただ、この詩篇の題名と、「自分はひとりで面白かつた/しかしいまは誇高い菊の季節/したたかにうるはしい菊を/想ふ日多く」の数行、つまり「菊」を省けば、朝顔に仮託された詩篇として成り立つように思える。
 問題は、悲傷露わなる混沌なのだ。そこにおいては、曖昧な擬我性は、問われるものではない。
 しかしながら、こうした機会詩においては、彼此岸のはざまに架けられた喩的体躯は、肉を持たず貧弱に見える。
 喩的体躯といえども、その作品世界は現在する。伊東詩における抒情の質とは、まさにここに存するところの稀なる審美であったはずだ。俳諧のごとくの無署名的な発現主体によって成された混沌。そこに架けられた詩の現(ルビ うつつ)は、いくつもの作品において痛切な悲哀をたたえているではないか。

 今年の夏も、かつて打ち捨てられていた朝顔の種子は、見事な紺碧の花弁をつけるだろう。花は、自らの署名性を犠牲にしても、作物としての審美を披瀝する。悲哀の花は誰が咲かせたのであろうか。そんなことは問題外のことである。


■「ボン書店」の鳥羽茂という男の空気にふれた。一瞬に光るそれは喜びだった。

2009年04月03日 16時31分56秒 | 文学全部
内堀弘著『ボン書店の幻』(ちくま文庫)を読んだ。
以前に、白地社から出ていたことは記憶していたが、文庫になっていた。
私自身、詩や詩書、同人誌の発行などに関わってきたことが
この本を読んで、喜びとなった。
あるいは、励みにもなった。
あやうさや、はかなさ。でもこのまたたくような、あやうさは、
そうなのだなあ、輝きでもあると思った。
戦前の一時期、昭和初期に詩の潮流としてあった
モダニズム詩の詩書を、個の情熱で出版しつづけた
鳥羽茂という人の幻を追った書物。
史実をつづれば、そこには、鳥羽の無情が浮き彫りにされるが
読後、じっくりと鳥羽という人物の情熱を反芻、味読していけば
そこに、強い意志が見えてくる。
「詩という象(かたち)を愛していたのだろうな」と。
詩の精神や、詩のこころなどといったそんなもんじゃない。
詩が、文字になり行になり頁になり、意匠され
書物になる。その時間は、詩が象になっていく時間なのだ。
人は、別にそんなことはしなくてもいい。
でもそれをしなければ、詩はどこにも痕跡すら残らない。
この時間の齟齬や、矛盾のうちに、喜びはある。
本書は、まさに齟齬や矛盾を浮き上がらせている。
あとがきに描かれた「梨の墓標」が泣かせる。
でも私にはなぜか、VANの石津謙介氏との軽い交差の
くだりが強く印象に残った。
詩を身に抱き、それを象にしようと意志することは
献身的なダンディズムやディレッタンティズムなのだと。

■井筒俊彦からポール・ヴァレリーへ。迂回迂回、迂回。

2008年07月04日 23時34分57秒 | 文学全部

詩集を編もうと、これまでの未刊行の作品を整理して読み込んでいる。
未刊行の作品は、100編ぐらいあるだろうか。
パソコンにフォルダーを作ったら
概ね、4テーマほどにわけられる。
でも詩集に成るとすれば2テーマ。
その2テーマで、悶々とする。
敲けば敲くほど、テーマの密度が
自分自身の中で、錘りとしてなかなか成り立たない。

井筒俊彦の「意識の形而上学」を読む。
副題が「大乗起信論の哲学」。
無心になって読める。
物の存在について、そもそもの非在について
さらには、一者の諦観に基づいた
暫定、あるいは、架設としての存在について。

詩は、あるのか、そもそもないのか。
仮構か、それとも諦観の果ての刹那に
一者の夢幻として、あってもいいのか。

いろいろ考える。

それで、続いて、井筒俊彦の「意識と本質」へ。
いよいよ、これは、詩論であるぞ。
マラルメと芭蕉にふれたところで
文の濃度に、たちくらむ。

作品ってなんなんだと。

それで、芭蕉を透過して、子規の煩悶も思う。
子規の写生論。

突如として、マラルメの詩集を探すが見つからず、
ネットで入手。
マラルメの年譜を精読して、感動する。
マラルメとメリー・ローラン、そしてジュヌヴィエーヴとの関係と
愛のようなもの。

さらには、この岩波文庫の巻末にあった
ヴァレリーの
「私は時をりマラルメに語った」という小文におののく。
軽快に、本質を亘っている。
粋だ。
詩作品は、詩人の存在と関わりはない。
詩は、結節ではあるし、詩人も結節をして生きてはいるが
詩人と詩作品は、明瞭に結節したりはしない。

そのあいだ、
ふと、太宰治の「桜桃」と「満願」を読む。
ほらっ、結節しないよなあ。
作品世界では、結節はしているが、
作者は、諦観で結節して煮凝っている。

リルケの詩集を読む。
これから編む自分の詩集の「位置」を探る。
リルケって、ロダンの秘書だったんだ。
一者幻想の浪漫。
リルケって、恋しすぎ。

それで、いまは、平凡社の「ヴァレリー・セレクション」。
「人と貝殻」の知性と粋に驚き、酔う。
そして、「コローをめぐって」の自然観と
詩作品についての、潔い詩文に感嘆。


詩作品は、物体であり、存在に付随はするが別種の
非交差物なんだなあと、思う。
乱暴だが、マテリアリズムに基づいた文学論も気にかかる。
子規の写生論も、実は、マルキシズムへの接近(無意識の)だったのかなあ、
なんて。

「マルチチュード」というような、流行りの思念をちらちらと読むが
そうしたことは、いっさいふれていない。


方法論なのだろうけども、著者は、「哲学」だと言っている。
哲学ならば、マルクスやヴァレリーを読んだほうがいいだろうな。




音楽は、

フランスの現代音楽
デュティーユにめろめろ状態。

諦観のなかに、音楽の即物、
つまりは、成仏の過程を描いている(よなあデュティーユは)



ジャズもロックも復習したけど。なさけないほど、かすかす。

カウボーイ・ジャンキーズとトリッキー
ヴィレッジバンガードのコルトレーン、それから
キューバのカチャーオの音楽は、またまだいけていた。

でも。
デュティーユだな。いまは。
ヴァレリーとデュティーユ。

アイヴスのピアノソナタも無常でよかった。

ではまた。

●「朗読否定論者」になりかけていたけど、そうでもないように思えてきたこと。

2008年01月11日 19時01分22秒 | 文学全部

あまり夢のことなんか書きたくないけど
きのうの夢、

私は、ある集まりにきていて
そこに知り合いがいっぱい集ってきている。
それで、なんだかそれが前衛劇団のようで
来ている人たちが、次々に紙片を渡していく。
渡された紙片には、詩が書いてある。
どの詩も、当然ばらばらの内容。

そして壁面に、どこかの駅頭の雑踏が映し出される。
 (その映像は、なかなか洒落ていていいなと思う
       はっきり今でも覚えている)

で、「さあ、それらの詩篇をリーディングしろ」
と言う。

ぼくは、困った困った、なんかそんなことできないよお、
というところで目が覚めた。
今朝の4時頃。

それで考えた。どれぐらい考えていただろうか。
覚めて、ぼんやりしながら。

考えたことは、以下のこと。



詩は、手で書く。
もしも手の不自由な人(またはない人)ならば、口で書く。
口述筆記でもいいだろう。

詩のリーディングとは、この口、あるいは声で創作する行為
なのだろうなと思った。

書いたものを、声に出して「読む」ことではない。

書いたものを、「書いたときの声」にもう一度戻して「追創作」すること。
「書いたときの声」には、少し「音楽」や「リズム」もある。

書いたものを、声に出して「伝え」たり「演じ」たりするものではない。



リーディングの会というのは、「追創作の共有空間」であって、
パフォーマンスを観る空間ではない。
この場合、リーディングの会は、「創作の空間」であって
自作者自読がのぞましい。

演者と観客という関係ではないのだから、そこにギブ&テイクの
奉仕はない。故に、無料が基本だろうと思った。

ただ、「共有空間の使用料」は、共負担にしたほうがいいだろう。



詩のリーディングは「書く」ということに他ならない。
それを共有する、聴く側にとっても、「書く」ということだろう。



詩のリーディングを、できる限り「媒体化」しないこと。
余計な音楽や映像を挿んだり、協奏することなどは必要ない。
「書く」ことには、すでに、つまり「書いたときの声」には
音楽も映像もそこにあるわけだから。

媒体化する前に、身体は、すでに明確な媒体でもあるのだから。



詩のリーディングは、興行ではない。
基本的には、演奏会でもエキジビジョンでもない。

最近、リーディングということを否定的に考えがちだったが
こういう整理をしてみて、またできるような気がしてきた。