文屋

文にまつわるお話。詩・小説・エッセイ・俳句・コピーライティングまで。そして音楽や映画のことも。京都から発信。

■SANAAという建築家プロジェクト、非術というアクション。。

2013年01月20日 12時11分41秒 | 世間批評
NHKの番組で「SANAA-建築の冒険-」を見た。SANAAとは、妹島和世と西沢立衛、ふたりの建築家による、社名でありPT名であり、試みのためのコンビである。ほとんど無名であったふたりが、ルーブルのランス館のコンペで勝利する。金沢や豊島美術館などの設計もする。彼らの、ぶれることのない、独創は、けっして芸術でも表現でもない。ひとことでいえば、自分たちの道を歩むという「営為」ということだろう。ただそうした彼らの営みを評価する人たちが一部の日本人を除いて、海外からであることに嘆息する。
ただ、彼らの営為に向かう眼差しに、はかりしれない勇気をいただいた。テレビの画像で映し出された、その空間にぜひとも行ってみたいと強く思った。とくに、豊島美術館の内藤礼の作品(ただ一作品しか展示されていないそうだが)には、感銘を受けた。建築とは、外見(そとみ)ではなく、それが内包する、あるいはそこから開放し発する「内実」なのだとごくあたりまえのことを思った。とにかく、とても低次元の言にはなるが、「仕事」するという「営為」の支えを知らされた。ただ、番組のサブタイトルにある「冒険」という言葉はあまりに浅薄に思えた。彼らは、冒険などしていない。営んでいるだけなのだ。
朝になっても、昨晩の「SANAA」のことを考えている。妹島も西沢も、若くはない。しかし、眼差しの強さと直線的な視線が強烈な印象を感じさせる。ふたりの考え方は、決して一致していない。当たり前だが、どこかで熾烈に個性が衝突している。ただ眼差しは同じだ。
それは、映像で流れた、内藤礼の作品に似ている。水滴がいくつも自然(じねん)の姿態のまま流れて、つながりひとつになりたがっているように、思念の太い幹となり茎となり樹となっていく。
この映像を見ていて、ひとつ確かに納得したことがある。昨晩は「営為」などとあいまいなことを言ったが、こういうことだと思う。
彼らのどこにも「術」という概念がないのである。「優位」「競合」「虚名欲」そうしたものを支える方法の模索というよりも、あくまでも現在と未来の「実」を具現化することに力を注いでいる。芸術、技術、戦術、、、、、などと、私たちは、この術の錬磨に時間を弄してきたのではないか。たとえば、言葉遊びになるが、これからは、「芸実」や「技実」や「戦実」が求められる時代になるのではないかと覚った。
といえば、これもまた「術」となってしまうトートロジーにはまってしまうが、とにかく一度、眼差しのさきの目的を定めたうえで、私たちにとって求められる「実」にむかって今一度錬磨の時間を費やさなければならないのではないかと思った。
これは、コミュニケーションの実態においても言いうることで、SNSやメールなどという道具の進化によって私たちは淺く合理的な対話の「術」は得たかもしれない。しかし「実」の感触がすっかり後退した。
「なんのために」「だれのために」その実こそが肝心なのだろうな。
東京、国立競技場のコンペの模様が映されていた。SANAAは、結果的にイギリスの建築家に敗れるのだが、「実」と「術」のせめぎあう場面を見た。
はじめ、スタッフ間の競作で選ばれた作品は、競技場全体が周囲の環境に解き放たれた、境界があいまいな建物だった。そこで妹島が発言する。「観客が競技の観戦に集中できないのではないか」と。その作品は、私には素晴らしい構想に思えた。一方のイギリス人の作品は、空間をソリッドに固定したインパクトのある、シンボリックなオブジェ態だった。
審査委員長の安藤忠雄はこう発言する。「境界があいまいな空間では、競技者が集中できないのではないか」と。目的は、各者の拠って立つ場によってパラレルに分かれる。でも
どこかに「オリンピック招致」への「術」が介在しているような。それにSANAA作は、無配慮でむしろ反発しているようにも感じられた。それよりも環境と周辺住民への配慮が先行したのだろう。そして、コンペには敗れる。
「実」とは、己と対象(目的)への「近しい信」ではないだろうか。
今朝のテレビでは、75歳の芥川賞作家、黒田夏子さんのことが紹介されていた。「己と対象への近しい信」という意味で、彼女もまた、「非術」の「実人」なのだろう。

■さっきテレビで、キンキキッズが山之口獏の詩を歌っていた。妙な夜。

2010年08月15日 23時45分14秒 | 世間批評

キンキキッズの番組、
ゲストは、なぎらけんいちだった。

番組の最後に、アルフィーや小柳トムなんかが
合唱した曲の選曲に驚いた。

「生活の柄」という曲。

これは、山之口獏の詩。
それに高田渡が曲をつけて歌っていた曲。

もっと驚いたのは、番組で
この曲について、なんのコメントも説明もしなかったこと。

なんだか、この齟齬が、少しうれしかった。
別に、クレジットで山之口獏とでても
それが、なんの反響にもならなかっただろうから。

こういうのって、昨年の
桑田佳祐の「音楽虎さん」で、彼が「蟹工船」を
うたったときにも感じた。
そのとき、彼は、小林多喜二の小説の言葉を
歌っていた。

山之口獏の「生活の柄」、
せっかくだから、掲げてみます。


「生活の柄」 山之口獏      

歩き疲れては
夜空と陸との隙間にもぐり込んで寝たのである
草に埋もれて寝たのである
ところ構わず寝たのである
寝たのであるが
ねむれたのでもあったのか!
このごろはねむれない
陸を敷いてはねむれない
夜空の下ではねむれない
揺り起されてはねむれない
この生活の柄が夏むきなのか!
寝たかとおもうと冷気にからかわれて
秋は 浮浪人のままではねむれない


もちろん、この詩を
キンキキッズのふたりも歌っていました。

●テレビの語法がなんでこんなに、活字的になったのだろう。

2009年03月21日 19時58分15秒 | 世間批評


突然の雨。
中断30分。
逆襲。
連打。
KO。

逃げ遅れた理由。
突然の炎。
対策の遅れ。
5名の犠牲。

これは、最近のNHKの語法。

誰が、誰に伝えているのか、そのことを回避している。

何を、だけは伝えているつもりだろうが、
そんなものは新聞の見出しを読めばわかる。

新聞の語法も似たようなものだ。

体言止めは、助詞を殺す。

助詞を省く語法は、主語をあいまいにする。



サア、サムライジャパン。

サア、イチロー。

サア、中盤。


これは、WBCを放送しているTBSの語法。

アナウンサーが変わっても、「サア、サア」ばかり。

この「サア」って誰に言ってるのか。
自分への掛声でしょ。




絶対に負けられない戦い。

これは、テレ朝の常とう句。
いつまで言ってんの。
そりゃそうでしょ。

誰が、誰に、何を伝えたいの?

「絶対に負けられない戦い」って思うでしょ。
正しいでしょ。って視聴者に同意を求めて逃げてるだけでしょ。

これって、この試合は、「トーナメントです」と
スタイルを伝えているだけなんですね。



「サア」が単なる、リズムを呼ぶための間であれば
人によってこの間の言葉は、変えてくれよと思う。

大昔の「なんと申しましょうか」という
小西得郎なんて、あれはあれでよかった。


■WBCもサムライも日韓戦も関係なし。野に球を敬いたいね。

2009年03月20日 23時08分08秒 | 世間批評
なんか微妙なんだな。
野球のこと。まあWBCでは、熱烈に日本を応援しているのだが
ちょっと、これでいいのかなあ、と思っている。
この半月ぐらいずっと伊東静雄論をやってて
彼の卒論の関連で、正岡子規を読んでいたんだけど、
子規は、ベースボール狂いで、
漱石といっしょに愛媛に帰ったときに
中学生だった虚子の前で、
ベースボールを実践してみせている。
このシーンの再現を、NHKの「坂の上の雲」の予告編でやってたけど
虚子が書いたエッセイ集(岩波文庫)ですでに読んでいた。
あの、描写の子規は、ほんと意気揚揚ですぞ。
当時、子規さんはベースボール狂いで
アメリカの「最新流行スポーツ」を日本語に変えてみせた。

ベースボールが、野に球ですよ。
遊撃手ですよ。
ファールボールなんて、邪な、邪飛ですよ。
生還ですよ。
死球ですよ。

日本は、やっぱりね。
日韓戦なんていってるけど
サムライなんていってるけど
アメリカに勝ってはいけないような気がする。


★オリンピックの中継で、石井選手のミミにはタコができていた。ほんとに。

2008年08月30日 17時28分49秒 | 世間批評
そうですね。ほんとに、最高でした。
そうですね、ほんとにみなさんの声援に、ほんとに
勇気づけられました。
ほんとに、そうです。
きょうは、ほんとにありがとうございました。
スタジオの古田さん、いかがでしたか。
ほんとに、凄かったですね。
ほんとに、興奮しました。

吐きそうになる。
スポーツのインタビューは、「ほんとに」だらけ。
せめて、「ほんとうに」と言え。
この現象は、なにかというと、
助詞や接続詞が消滅しつつあるということ。

あわせて、主格の設定がいい加減なこと。

えっ、まじー。
まじ、やべー。

あなたがいま言ったことは、本当なのでしょうか。
わたしは、その言葉に、一瞬我が耳を疑いました。
それは、本当にまじめにそうおっしゃったのでしょうか。
本当に私は、芯からそれは困るほどに本当に驚きました。
などと翻案できる。

これは、メディアの衰弱なのです。

人と人の間に、宙ぶらりんに言葉が置かれるから
誰が、誰に何を言っているのかとても
疑わしいままになってしまう。
疑わしいから、言葉は構造的に
「ほんと」かどうかが問われる。
あるいは、「ほんと」だよと強調される。

このことは、かつての語尾あげ口調と同じである。
語尾を上げることで、関係の間に、自信のない疑問調が
宙吊りにされる。



今回のオリンピックのインタビューで最も素晴らしかったのは
柔道の石井選手。

「もうこの試合に負けたら日本の威信がつぶれる」
というようなことを言って、そのあと

「斉藤監督から、ミミにタコができるくらい言われてましたから」

と言った石井選手の耳は、柔道選手らしく
ミミにタコがぷっくりしていた。

これは、驚くべき喩であった。

ぼくは、「ほんとうだ」と叫んだ。

●現代詩手帖を久しぷりに購入。言葉にももちろん空間があるし、あれよなあと思う。

2006年06月09日 18時27分00秒 | 世間批評



東京で出している「あんど」という詩の雑誌が
一冊、ぼくの特集をするというので、
メールでの筆談インタビューをずっと続けている。
対話者の森川雅美さんが、鋭い質問を投げかけてくるので
悩みつつもこちらも乗ってきて、
話の内容は、深まるばかり。
次が応答の6回目で、かれこれ1カ月ぐらいになるかなあ。

自分の詩質や、詩法について自省する機会などなかったが
いい機会だと感謝している。

8月頃に発行の予定とのこと。



思い立って、はじめてYAHOOのオークションで
CDを購入。

レーグナー指揮のブルックナー5番。
ずっと探していたもの。

700円。

オークションなんて始めるとは、ついぞ思ったこともなかった。



ずっとブルックナー漬けだけど

たまに、シューベルトとシューマン、ベートーベン。

シューマン、好きだなあ。
ヨーロッパ音楽の交響曲という固有性のある文化。



この前ブックオフで、250円で買った

コンドラシン指揮のショスタコーヴィッチ7番。

ラベルのボレロみたいなリフが
ジャズっぽい。諧謔と混沌もあるなあ。

ヨーロッパの固有性などとは違った
マーラーにも通じる、民俗音楽の傾向。
ジャズもそうだが。




久しぶりに現代詩手帖を買った。

6月号の新人特集。

新人といっても、やはり時間が逆戻りしているみたいで
先祖帰りかなあ、と呟く。

わくわくするような、超然としたなにか
得体の知れない詩、それにはふれることができなかった。


なかでは、本編の

貞久秀紀の「数のよろこび」が、ずば「抜けて」秀逸。
こういう空間性を獲得することが
わくわくを生む。

新しい人では、

小峰慎也「田村先生の範囲」に心動いた。



●木村カエラの凄さって、少年声と、突発性のマーケティングセンスだと思う。

2006年04月04日 19時42分33秒 | 世間批評



はじめてその声を聴いたときから、木村カエラが気になっていた。
最近は、CMで「タイムマシーンにお願い」をリバイバルカバーしているね。
サディスティックミカバンドの「黒船」でやってたやつかなあ。
木村カエラの何に驚いたかというと、声ですね。
声が、中性。男の子みたい。
だいたいPOPソングを歌う、王道は、この中性だとずっと思ってきた。

ぼくのPOPソングの好きな道は、たとえば

リトル・エヴァ

「ロコモーション」ですね。キャロル・キングの家にいたお手伝いさんだった
エヴァ嬢に「この娘いけるじゃん」「唄わせようか」などと
夫の作詞家、ジェリー・ゴフィンとたくらんだ。
それが見事、大ヒット。
このやりとりは、自分の嫁さんが、台所仕事しながら鼻歌唄っていたのを
客だった、スタン・ゲッツかだれかが
「この娘いけるじゃん」「唄わせようか」といってデビューした
アストラッド・ジルベルトも同じ。曲は、当然夫のジョアン・ジルベルトが
提供した。

突然、世の中のマーケティングの波頭を突き抜けるのは
中性的ヴォイス。

イーディー・ゴーメ
ジョニー・ソマーズ
ディオンヌ・ワーウィック
カレン・カーペンター
コニー・スティーブンス
コニー・フランシス

それから男性では

ポール・アンカ
ドゥ・ワップのファルセット
チェット・ベーカー
ジミー・スコット
アレックス・チルトン

木村カエラは、少年声。
少年の声というのは、少女もそうだが
案外、濁っている。

この濁り具合が、音楽産業のリアルなマーケティングセンス。

それから
「この娘いけるじゃん」「唄わせようか」
という、セリングチャンスの波頭を裂く力を持っている。

●原始的に覚えていること、身はいつも普遍で悲しい。そんなスケートを見た夜に。

2005年12月18日 21時14分58秒 | 世間批評

フィギアスケートは素晴らしかった。
芸術として、とても満足できる。
音楽があり、それに身が添うのだが
添い方がアクロバティックで
芸術や芸能の本源にふれている。
もちろん、詩と無縁ではない。
大きな愛や、いたたまれない絶望とも無縁ではない。
マイファニーバレンタインの
ストリングスアレンジメント
ヴィバルディの四季の、いつ聴いても驚く
モダンさ。

それに添う、氷上のダンスは、まったく普遍的で
原始的でもある。

浅田真央という人は
その普遍を思うとき、
美空ひばりの普遍と交感している。

そのことが驚きである。

ぼくは、昨日の夜から
ブルックナーの交響曲の7番に寄り添ってきた。

昨夜の深夜、3時頃に聴いたブルックナーを
忘れないだろう。
原始的に忘れない。



●期待していたのに、たけしの「座頭市」は、見本市みたいだった。

2005年11月08日 19時23分27秒 | 世間批評


北野武の「座頭市」をテレビで見た。
スタイリッシュに切られていて、ああリメイクなんだなあと
思った。それとも、勝新が永年かかって積み上げてきた
演技術へのオマージュなのかもしれない。
それを満身で、演出したわけで
その意味で、「演出映画」みたいなものだった。
役者は、勝新と比較されるわけで
とても恥ずかしくなるぐらいに無惨だった。
演技よりも、演出の手際が浮き上がって見てられなかった。
「いやあ、エンタだよ」と考え直して見た場合、
これじゃ、日本のテレビ時代劇の典型を
シニカルに追随(オマージュ含みで)しただけになってしまっている。
日本のテレビ時代劇ともうひとつは、東映のやくざ映画。
とくに加藤泰などの手際。

ではないだろと思った。

たけしの映画は、冷たいけども情念がある。
それがよかったんじゃないの。
「暴力」をあんな典型におとしめては、だめ。
情念だったら、勝新が監督した「座頭市」の中での
温泉の入浴シーン(露天風呂)のほうが
よほど、立ちのぼる映画のロマンがあった。

それと、ジャパンな色、事、形、姿を
ああまで、いやみったらしく描かれては
もう、うんざりしてしまう。

まあ「世界市場に出ていく時代劇」という
図式の中では、限界なのだろうなとも思った。

姉妹が踊るシーンの多さは、いったいなんなんだ。
それから、柄本明に課せた、演出の薄さも
唖然とした。

★「会田誠 無気力大陸」を見て、敗れたフリークの敗残力を賞味した。

2005年10月29日 12時12分37秒 | 世間批評


きょうは、土曜日なのでゆっくり出勤。などと思っていたのに
いつもの時間に目が覚めてしまって、さてどうしようかと
テレビを見ていたら、偶然
スカパーで「会田誠  無気力大陸」をやっていた。
日本映画専門チャンネルなんだけど、よくぞこんな番組を
やるもんだと思った。
会田誠って、以前に美術手帖の特集見てから、破れ(敗れ)具合が
ずっと気になっていた人。
しかしてその実態は、なんだか、「ぶってる」「先鋭」かと想像していたけれど
このドキュメンタリーに映っている彼は、
努めて、後衛であった。

もちろん、前衛を突き抜けた後衛なんだけど、
愛おしい感じがした。

美術にも「喩」があるんだろうけど、それを
言いかえて「コンセプチュアル」などと呼ぶ。
それでも「譬え」は「譬え」であって、
物の実体ではない。

そこに、これっぽっちのイデオロギーも介在させない
実体でなければ、次のフェーズは用意されない。

現代詩でも同じことが言えると思う。

会田は、語っていた。

「現代美術は滅んでいる」
「エンターテイメントにもなれなく」
「主張もない」

これは、たったいま見た映画からの引用で正確ではない。

で、でも、やるしかない。と言ったような、行為しているような
そんな感じ。

そこを突き抜ける
つまりは、「喩的世界」の底を、するっとスルーする表現が
いまこそ、面白いわけで、

会田の作品の中に見えてくるのも
この「スルー」だった。

穴。

内部から外部へ、破れていく(敗れて)ときの
既視、あるいは、擬死感でしょう。

内臓、爆撃、破裂、排泄を

喩的世界と同温で見せる。

神社の境内にあった、見せ物小屋みたいな。


現代という喩的世界の生ぬるい温度、
神社の敷地に入ったときからその空気を観客は吸っていて
そこで、小屋に入っても、同じような(ズレがあっても)
空気のまま、だしものを見る。

「そらっ、内も外も同じでっしゃろ」

と認識を突きつける。


会田は、パリのカルチェ現代美術館に展示するために
ホームレスの住居という「喩」を下敷きにした
段ボール製の天守閣をつくる。

彼の意図は、

「そらっ、内も外も同じでっしゃろ」

だったと思う。

でも、そこに(天守閣)パリに住む、スノッブなやつらが入っても
ただの、内部にすぎない。失敗している。

表現者が、外部といういわゆる社会性と
地続きであるという発想がすでにして無効なのだろう。

有効なのは、表現者の内なる外部性。

それこそが、次のフェーズ。

敗れた、フリーキーこそが
喩を笑うのである。