文屋

文にまつわるお話。詩・小説・エッセイ・俳句・コピーライティングまで。そして音楽や映画のことも。京都から発信。

■生まれて初めて他人の詩(ケネス・レクスロス)をリーディングした。

2005年08月23日 16時02分36秒 | 文学全部
昨夜は、興奮した。
生まれて初めて、他人の詩を人前で朗読した。

他人の詩は、感情が入らないんじゃないかと思っていたが
びっくりするほど
見知らぬ詩人の感情が、びとびととぼくの心の中に注入されて
奇妙な感じだった。

読みながら、興奮して、だんだん昂揚して震えていた。


見知らぬ詩人とは、ケネス・レクスロスという。

アメリカの詩人。

昨夜はその「生誕100年」を期しての朗読の集いだった。

場所は、同志社大学の構内にある、日本家屋。

この民家は、かつてこの詩人が京都で暮らしていた時の家を
そのまま大学に移築したそうだ。

レクスロスの写真が大きく掲げられていたし
詩人と親しかった、片桐ユズル先生や児玉実英先生
それから詩人に教わった、ジョン・ソルト氏のお話が
とっても熱くて、まるで
レクスロスさんが、この車座のどこかに居るような
感じだったからだろうか。

ぼくは、昭和24年に発行された古い「詩学」に掲載されていた
「不死鳥と亀」(北園克衛訳)を読んだ。

侠気(おとこぎ)がある
しかもアナーキーな言葉の横溢が激しく

いっぺんにこの詩人の大ファンになった。

ギンズバーグやケルアック、そしてボブ・ディランらが
師と仰いでいたということが読みながらよくわかった。

読むというのは、「身に詩を起たせる」ことなんだ
といまさらながら思った。

いい体験をさせてもらった。









●ほとんど名も知らぬ作曲家、ジャック・イベールが大当たり!

2005年08月18日 20時12分34秒 | 音楽


ジャック・イヴェール、
ほとんど知らない作曲家。
でも「寄港地」という管弦楽曲の名だけは、知っていた。

その「室内楽曲全集」、2枚組1000円(ブリリアント盤)
という値段だけにつられて購入。

ほとんど、20世紀の前半の作品。

サキソフォンやフルート、ギター曲など。

ほんとに素晴らしい、音楽。大当たり!

戦前・戦中・戦後のフランスの粋が気体となっている。








★突然オーディオ狂いになりそうな、古道具屋の巨大アンプ購入

2005年08月18日 14時40分50秒 | 音楽



お盆の間に、ちらちらと眺めていた古道具屋にあった
DENONのアンプを2万円弱で購入。
現在の最新機種のひと型前のサラウンドアンプで
定価は、多分15、6万ぐらいだろう。

休眠していたDENONのCDプレイヤーとつなぐ。

●ピリス(P)とコルボ指揮の「バッハのP協」
●ゴンサロ・ルバルカバのPトリオ
●アール・クルーのギター

さすが、120W

涼しい。涼しいクリア。

オーディオってまったく関心ないんだけど
見直した。オーディオ、恐るべし。

これで、自宅で死んでる、サンスイの大きなスピーカーを
たたき起こして、つなげば、いっぱしのオーディオセットが
できあがる。

とんでもないことになってきた。

★伊東静雄の終戦体験の日録記述を読んで、詩人にとっての「現実」を考えた

2005年08月04日 11時49分41秒 | 



■MIXIというソーシャルネットワークで伊東静雄のコミュニティに
参加しているが、そこでの掲示板で自分が発言した言葉を記録の意味でここに
残していきます。




昭和20年8月の日記にある、有名な記述。

 一日中雨。
 十五日陛下の御放送を拜した直後。
 太陽の光は少しもかはらず、透明に強く田と畑の面と木々とを
照し、白い雲は静かに浮び、家々からは炊煙がのぼつてゐる。そ
れなのに、戦は敗れたのだ。何の異変も自然におこらないのが信
ぜられない。

想像できないほどの強烈な出来事だったのでしょう。

ナショナリストでなくとも、ここには、ナショナルな心情がくっきりと吐露されています。このことは、好悪、あるいは、非難の対象となるものではないでしょう。

この終戦のできごとは、
「夏の詩人」の夏という、空気の結節と偶然を思わざるをえません。

この日記は、8月31日に、思い返したかのように記され、
日記は、22年まで空白になっています。

昭和20年の8月31日は

一日中、雨。

だったのですね。雨も太陽も現実感があります。
心の中の光景としての既視感のような、ずれをともなった
リアリティ。これがこの詩人の天分のような気がします。

時代ともっとも無縁でありたかった詩人ですが
時代に生きた、国土や国民(民衆)の心情には、濃厚に
交感していたのでしょう。

自分ではなく
なにかが、悲しんでいるときに
悲しくなる。

そうしたタチこそが、詩人の本分なのかもしれません。



  ■ある人の発言に呼応して、、


ぼくも西脇の、詩論集「斜塔の迷信」を読んでいたところです。

そこにこんな言葉

 詩人は現実を破壊しなければならないから、まず現実というもの を獲得しなければならない。現実は詩の条件である。現実は詩の 限界である。現実は詩の尺度である。現実という尺度がないと、 詩の効果を計算することはできない。どれだけうまく現実が破壊 されているか計ることができなくなる。

と書いて、そのあと

 詩の限界は現実から一定の間隔を保つことであって、現実に完全
 に到達してはいけない。その一定の間隔が詩の限界であると思う。

と言っている。

きのう、ぼくが書いた

 >心の中の光景としての既視感のような、ずれをともなった
  リアリティ。これがこの詩人の天分のような気がします。

この「ズレ」、こそが西脇の言う「間隔」なのでしょう。

現実、これを「自然」と決めつければ、
伊東がひたすら拘泥した「自然」の「リプレゼンテーション」が
間隔、あるいは、錯視や錯誤を意図的に保った
表現であったことがわかります。

同じ西脇の書で、ピカソのことが語られていて、

ピカソは、

「画家の仕事は、芸術というものによって「自然でないもの」を表現するのが本職である」と言ったことが紹介されている。






■こわれていたCDプレイヤーは、ただ眠って疲れていただけなのか!!

2005年08月03日 18時41分14秒 | 日録雑感

あれやこれやといくらいじっても
回復の気配を見せなかった、大好きな、
DENONのCDプレイヤーを、なぜか
ほこりを吹いてつないでみたら、見事によみがえった。

わけがわからない。

何度いろいろためしても音が飛んで、寿命だとあきらめていた。

久しぶりの、なめらかで深みのある音に感動。


大好きな

ブルーノ・ホフマン奏するところの

モーツァルト「グラスハーモニカのためのアダージョとロンド」

を聴く。陶然、、、、、、、、。

そのあと、ポリーニの

ショパンの「エチュード集」。

残響がまったく違う。ぺらぺらのセットもののプレイヤーで
代用していたのはなんだったのか。