文屋

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●センチメントを抱きしめる

2005年02月09日 18時45分44秒 | 
だから井上陽水には、センチメントがない。
詞にはない。しかしそれがなければ大衆の“海”に流れこまない。
で、どうするかというと、歌唱でセンチメントを強調する。
身をよじるように、喉をしぼるように。
ジム・モリソンやジョニー・ロットンにはそんなのは
全然ない。淡々と読む。
センチメントよりも外に吐かれる感じ。

センチメントとは、なにかというと
「我が身」への慈しみだろうね。自分で自分を抱きしめるような。
この我が身を抱きしめる、センチメントな言葉は、孤絶に向かっているかというと
どっこいまったく逆で、
「孤絶です」。というメッセージをひたすら、共感の“海”に向かって
投げ出される。

詞や詩の大衆性とは、実は、単純にこのことだけかもしれない。

孤絶ならば、それは、徹底して、トートロジックに孤絶の螺旋だし
他人にわかるわけがない。

この「他人にわかるわけがない」“意志”は、実は少数だが他人にわかる。

あるいは、その意志の水流の音は聞こえる。匂いはかげる。

というのは、意志は、作品の渦や謎から気流のようにたちのぼるのだから。

そこに、現代詩がある。
近代詩との違いというべきか。


       ------------------つづくだろう