文屋

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★オリンピックの中継で、石井選手のミミにはタコができていた。ほんとに。

2008年08月30日 17時28分49秒 | 世間批評
そうですね。ほんとに、最高でした。
そうですね、ほんとにみなさんの声援に、ほんとに
勇気づけられました。
ほんとに、そうです。
きょうは、ほんとにありがとうございました。
スタジオの古田さん、いかがでしたか。
ほんとに、凄かったですね。
ほんとに、興奮しました。

吐きそうになる。
スポーツのインタビューは、「ほんとに」だらけ。
せめて、「ほんとうに」と言え。
この現象は、なにかというと、
助詞や接続詞が消滅しつつあるということ。

あわせて、主格の設定がいい加減なこと。

えっ、まじー。
まじ、やべー。

あなたがいま言ったことは、本当なのでしょうか。
わたしは、その言葉に、一瞬我が耳を疑いました。
それは、本当にまじめにそうおっしゃったのでしょうか。
本当に私は、芯からそれは困るほどに本当に驚きました。
などと翻案できる。

これは、メディアの衰弱なのです。

人と人の間に、宙ぶらりんに言葉が置かれるから
誰が、誰に何を言っているのかとても
疑わしいままになってしまう。
疑わしいから、言葉は構造的に
「ほんと」かどうかが問われる。
あるいは、「ほんと」だよと強調される。

このことは、かつての語尾あげ口調と同じである。
語尾を上げることで、関係の間に、自信のない疑問調が
宙吊りにされる。



今回のオリンピックのインタビューで最も素晴らしかったのは
柔道の石井選手。

「もうこの試合に負けたら日本の威信がつぶれる」
というようなことを言って、そのあと

「斉藤監督から、ミミにタコができるくらい言われてましたから」

と言った石井選手の耳は、柔道選手らしく
ミミにタコがぷっくりしていた。

これは、驚くべき喩であった。

ぼくは、「ほんとうだ」と叫んだ。

■ヨハンナ・マルツィという細い直線の悲しみの虜になっている。

2008年08月28日 18時40分16秒 | 音楽
ヨハンナ・マルツィというヴァイオリニストが弾く
その切なさって、なんだろうか。
揺れていなくて、揺れていて
旋律の線が、まっすぐ細くて。
このヴァオリニストは、美しさに奉仕しながら
抑制する姿勢が、もう諦観なんだなあ。
1950年代の初めのころの音源なのに
どれも、びっくりするほど澄んでいる。
ずっと、ワルター・バリリの音が好きだったんだけど
この、水平にすっと伸びる悲しみは、もう
虜になります。
ぼくの生まれたころの音。
ぼくの幼時の音。





CDのジャケット写真だけど
いつもうっとりと眺める美しい人。
ジャクリーヌ・デュ・プレ
アンヌ・ケフェレック
ヨハンナ・マルツィ
キャスリーン・フェリア
エリザベート・シュワルツコップ
クララ・ハスキル
それから、美形ではないけど
うっとりするのが
タチアナ・ニコラーエワ。
この人たちが、楽器を提げて、楽譜をもって
旅をして、緊張しながら舞台に立っていた。
それをいつも思う。
ヨハンナ・マルツィのジャケット写真を
大きくコピーにして事務所に貼って眺めている。