文屋

文にまつわるお話。詩・小説・エッセイ・俳句・コピーライティングまで。そして音楽や映画のことも。京都から発信。

■「グレン・グールドは語る」を読んで、断片的にメモしてみた。

2013年01月05日 17時24分34秒 | 音楽
ハイドンのピアノソナタを収録したピアニストは、そんなに多くない。
このラストソナタをまとまって録音してるのは、グールドのほか、ブレンデルを思い出すが、
他は、リサイタルで数曲演奏したバックハウス、リヒテルも数曲ある。ぼくは、グールドでは、
「バード&ギボンズ作品集」とハイドン集をもっとも好む。一聴、バッハのようではあるが
バッハとは違う。湿り気はなく、可憐で瀟洒でもある。都会的でもある。それでいて、
深い。鋭い。ハイドンの音楽の特性がそうなのだろう。グールドは、自分の奏法にひきつけて
いるが、どこかで、ハイドンを憧憬している。



年末年始、自宅に持ち帰った本は、この一冊。グールドの声を聴いています。彼は、どうして、
シューマンやシューベルトを演奏しなかったのか、モーツァルトのあの不完全で奇態な演奏
であるのにソナタを全曲収録し、ベートーベンのハンマークラヴィーアや重要なソナタを収録
しなかったのか、そういうあたりを知りたい。グールド、ピアノ演奏の技術は、
30分で伝授できるといっている。その理由が凄い。「ムカデがそれぞれの足をどのように
動かすかを学ばないようにピアノもまた、、、、、。」と。ピアノの、
「観念化」(idealization)という言葉、とても面白い。まったく、
それは、喩的身体の話。



テーマへの煩わしさというのがあるのだろうか。手垢というか、ティピカルなものへの拒絶。
ショパンやラフマニノフは弾いていないが、ショパンのソナタは弾いている。ティピカルという
意味で、メンデルスゾーンの「無言歌」に、グールドは、自由の空気を感じ取っていたかもしれない。
もちろん、シベリウスの底なしの虚無にも。



観念化であるとか、どうでもよくなってくる。ベートーベンの6つのバガテル。
バガテルとは、「たわいもない音楽」という意味らしい。べートーベンとグールドが、
自在な生死の意志で、瞬間の存在を賭して出会っている。ほんとだよ。音楽ではない。




ピアニストが触覚的な感覚を信じていないというのは、驚き。海外の演奏会で、
不本意なピアノをあてがわれて、砂漠の道中に車の中で楽器のイメージを想起する。
そのときグールドは、車のダッシュボードにも、中空にも指を当てたりしなかったという語り。
触覚的な感触が瑕疵になるというので、頭の中だけで反芻するという。実際グールドは、
演奏会の一週間前ぐらいまでは、演奏する曲をピアノで演奏しなかったという。
それまではすべて頭の中。恐るべき、喩的人種、詩人。そりゃ、50で、死ぬわけだ。



GG 最初の講演では、ベートーベンの作品109の第一楽章を論じました。<中略>
(ところでその次の講演ではブルックナーの交響曲八番の第一楽章を論じましたが、証明
を試みた内容はほとんど同じです)。<中略>
そしてその連続する部分こそが私の関心の対象なのです。なぜならその部分は通常の呈示部
(この楽章には存在しないけれど、実在するならば)における第二主題の領域の代わりでもあり、
... また、再現部の代わりでもあるからです。<中略>
私としては、作品109のこの二箇所を分析することで、ベートーベンの
不在の根音(アブセント・ルーツ)の処理に興じていたことを結論づけたかったのです。

                    「グレン・グールドは語る」宮澤淳一訳

グールドの発言は、あきらかですね。彼は、ピアノという楽器(媒介)を信じていないようにも
感じられる。あるいは、触覚的感触をただ記号化して「裏」に隠して思考している。「不在の根音」
とは、なんと魅惑的な言葉だろう。しかもベートーベンのソナタを語りながら、ブルックナーの
第八交響曲についても同様に語っているあたり実に興味深い。
「代わり」という言葉「非在の代替」音は、そのまま「非在の代替」語と読むこともできる。
彼のいう、「観念化」とは、この「響くことのない」「根音」へと褶曲・収斂される。
根音とは、手や指の触覚や耳による聴覚ではなく、身体の芯だけがとらえる「無音」なのである。
いいかえれば「喩」の代替概念である「身」ということになる。




グレン・グールドの発言で、もっとも驚きかつ納得したのが、モーツァルトのピアノソナタに
ついて語っている言葉。グールドは、モーツァルトのピアノソナタを全曲録音しているが、
ベートーベンは、19-22、25-27番は、収録していない。
ぼくは、グールドのモーツァルトは嫌いである。グールドがなぜあれほどにつまらない
モーツァルトを弾いているのか。謎だった。「冗談だろ」「すぎた冗談だ」と思ってきた。

GG さて、ソナタ集の録音についてですが、今までであんなに愉快な企画はありませんでし
たよ。実際問題として。いちばんの理由は、作曲家としてのモーツァルトが本当に嫌いだからです。
初期のソナタは大好きです。初期のモーツァルトは本当にいい。はい、話はそれでおしまい、
なのです。              「グレン・グールドは語る」宮澤淳一訳

そのあと、GGは、嫌いな理由を「芝居がかった」「軽率な快楽主義」と語る。そして、
「男性的対女性的」「威圧的なものの誘惑的なもの」「厳しいものと優しいもの」を「互いに対置させる」
そこが嫌で、関心がないという。つまり、内実というか、求心としての「不在の根音」がない
ということなのだろう。GGが他の個所でビートルズを批判し、ペトゥラ・クラークを評価する
ように、極端な意見ではあるが、うなづける。ただ時流に自分の音楽を同調させるだけでは
音楽の「内的真=(芯)」は生まれないと言いたいのだろう。

ぼくにとってのモーツァルトは、優秀なポピュラー音楽の作曲家として魅力ということに尽きるが
GGは、それが許せなかった。まるでソナタ全集が、「嫌悪の証し」であり「暴き」であったとは。

■ぼくのいのちに必要な音楽 アントン・ブルックナー3

2012年11月07日 16時15分54秒 | 音楽
連載第三回(詩的尺書) 掲載初出「天蚕虫」4号(田中勲編集発行)
ぼくのいのちに必要な音楽。
アントン・ブルックナー(3)               萩原健次郎


 一時期は、狂ったように毎日毎日聴いていたアントン・ブルックナーの音楽も最近は、それほど聴かなくなった。飽きたからではない。心のどこかではいつも彼の交響曲が、延々と鳴っている。
 私は、これまでずっとなのだが、聴いた音楽の旋律などを務めて記憶しようとは思わってこなかった。記憶力の問題なのか、生来の感覚の乏しさからか、それができないといったほうが正しいのかもしれない。何度も何度も好んで聴いてきた曲でもできない。しかし、とっさにどこか遠くからその旋律が流れてきたりすると、すっと即座に曲名を言い当てることができるようにも思える。ジャズでもポピュラー音楽でも歌謡曲でもできるだろう。でもそこにクラシック音楽も含めれば、いったい何百曲、いや何千曲になるだろうか。そう考えると、自分の記憶力の容量と照らして「そんなものは覚えなくていいよ」と身体が命令をして、記憶することを自然に拒んでいるのかもしれない。
 ブルックナーの交響曲その9曲すべてとなると、一曲60分として、540分にもなる。しかも彼には9曲以外に、0番も00番といった初期の習作曲もある。ずっと聴き通したら、10時間を超える。ほんとうのブルックナー狂いの人なら、その旋律を諳んじることぐらいはできるのだろう。でも、私はできない。ベートーベンの交響曲ならば、できるかもしれない。ただ、この9曲の断片であれば、少しだけ時間を与えられたら、すっとハミングで歌いだすかもしれない。
 ときどきではあるが、夜、ふとんの中で眠りに就くとき、彼の交響曲を第一楽章から終楽章までを、諳(そら)んじて歌ってみようと試みることがある。冒頭の何小節かを思い浮かべればそれが、ずっとつづいて、楽章をたどっていける。しかし、どうしても曲のどこかの断片がひっかかり、さらにはそれが肥大化して強く、ひととき刻印されて消えなくなってくる。そうするとその断片が、翌朝からその日一日を通して、付着し離れなくなる。そしてたまらなくなって、その部分をCDで聴き直し、さらに刻印は濃さを増すといった具合なのだ。
 たとえば、彼の交響曲5番、終楽章の冒頭の部分。不穏な弦楽合奏で始まり、音の空白が生じる。楽章自体は、美しいアダージョではあるが、この弦楽合奏の空白に、奇妙なクラリネットの独奏が挿まれる。ほんの数小節ではあるが、作品の部分や断片というよりも、私には、なんだか事件や事故のように迫ってくる何かがそこにはある。
 この部分、ベートーベンの交響曲9番との関連を語る人もいるが、私には、ベートーベンにもブラームスにもそしてマーラーにも感じたことのない、ある種の突出した「現代性」を刻印してくる。そう、それが深夜、就寝時の闇の中ならば、黒黒と迫ってきて、濃密な痕跡をしるしていくのである。
 静寂の中挿まれるクラリネットの音は、不均衡であればあるほど、作曲者の意図にあっているのだろう。ある種の諧謔が混ざり、すこし間違えれば曲全体を壊してしまいそうな大胆な発想。ただ、この冒頭の部分を過ぎれば、終楽章は、曲全体のいくつかの主題をなぞるようにまとめられて終わる。つまり、通して聴いたとき、ひっかかるような部分ではないのかもしれない。事実、ある必然に基づいた均衡が十分に保たれているようにも感じられる。ブルックナー自身は、なにも屈折したような意図はまったくなかったのだろう。
 ブルックナー的な「均衡」、あるいは「自然」といえば、そういうことである。私は、その個的な自然にふれ、干渉をされ、諭されて知らず知らずのうちに抱擁されているのである。それが、クラシック音楽を感受することの本質であるといわれれば、そうかもしれない。
 ブルックナー音楽のたとえば、アダージョ楽章における美を、山河や宇宙の遥か彼方に見え隠れする光景を淡彩で描いたと、讃えることはよくある。それは、確かに比類のない魅惑的な再現芸術だ。交響曲5番の第二楽章、6番の第二楽章、9番の終楽章などは、その白眉といえる。この世からあの世、此岸から彼方の岸を眺めるかのような時間を反芻しているようでうっとりと、その時間に溶解しそうになる。では、それ以外の、奇妙な行進曲風のリズムでたどられるスケルツォ楽章は、どうなのだろうか。アダージョ楽章の悲哀とその美しさをひときわきわだたせるための方策であるのか。
 私は、ブルックナーという人間の自然も時間もなにもかも共有したことも、あるいはそれに正しく共感することもできないであろう。ただ、交響曲5番終楽章冒頭の断片が、私に動揺を与え、響き、ときによって濃淡はあっても強く染み込んでいることだけは確かなのである。

●ぼくのいのちに必要な音楽 連載2 ブルックナー

2012年07月23日 10時01分37秒 | 音楽
連載第二回(詩的尺書)
ぼくのいのちに必要な音楽。
アントン・ブルックナー(2)               萩原健次郎


 あるとき、就寝前にブルックナーの交響曲9番をかけて、ふとんの中で聴いていた。ギュンター・ヴァント指揮・ベルリンフィルハーモニーの演奏。この9番は、それまで何度も聴いてきた。でもこのときの音がいつまでも耳について離れない。
 9番は、ブルックナーにとって、生涯最後の曲だ。没年は、1896年。72歳で亡くなっているが、曲が一旦完成したのは、1894年末。全3楽章であるが、死の直前まで最終楽章を構想していたようである。つまり、未完の遺作である。ただ、未完といっても、全曲を聴いてそれが不自然であるとはけっして思えない。トレモノの多様、それが霧深い山巓の情景を浮かび上がらせ、ホルンの合奏による金管の咆哮が、不穏な現実感を予感させ、さらには、寂寥を甘美に閉じこめていくアダージョの旋律美など、そのどれもが、ブルックナー特有の個的な様式が完成されて詰まっている。
 ブルックナーの交響曲は、ただただ冗長で、どの曲を聴いても同じなどと揶揄されるが、私にはまったくそのように思えない。たとえば、先日亡くなった、吉田秀和は、こんな風に書いている。
 「ところが私は、その演奏をききながら、ぐうぐう眠ってしまった。第二楽章(アダージョ)の途中で、眠りこけてしまった私は、ふっと目がさめたら、まだその楽章が続いているのを知り、すっかりびっくりした、何と長ったらしい音楽と思ったものだ。そっと、そのアダージョが終わったら、それに続くスケルツォで、短短長長のリズムの無限のくり返しにつきあわされたのにも閉口した。要するに、私には何にもわからなかったのだ」
           (ブルックナー『第九交響曲』1981年刊「音楽手帖」より) 
 滞在先のザルツブルグで、たまたまクナーパーズブッシュが指揮する第7交響曲を聴いたあとの感想だが、私には羨ましい限りだ。おそらく、60年代のことであろう。たとえば、なんの準備もなくいきなりブルックナーの80分にも及ぶ曲に接したら、「眠くなる」のもわからないでもない。たとえばベートーベンの交響曲のように、各曲にきわだった特長があるわけでもない。また、マーラーのように突如として激情があふれ出すといった極端な変化もない。
 しかし、吉田秀和は、同文で次のようにつづけている。
 「では、ブルックナーの何が、そんなによいのか? 音楽のクライマックスが緊張の絶頂であると同時に、大きな、底知れないほど深い解決のやすらぎでもあるということ。その点でまず、彼は比類のない音楽を書いた」。
 「ベートーベンは緊張を急速に高めてゆくために、リズムをだんだん加速させてゆく。その結果、主要主題はそれを準備していた段階にくらべると、もっと大きな迫力を獲得していることになる。ところが、ブルックナーの主要主題は、一つの行進の終わり、停止を含まずにいない。私たちは、そこでひと息つき、後ろをふりかえったりさえする」。 
 聴後の心象であろうが、まさにこのブルックナー音楽の髄を言いえている。緊迫をもたらす音楽的な語調を一旦、全停止するいわゆる“ブルックナー休止”、息苦しいほどに歪みはねる奇妙なスケルツォ、諦観を甘やかに抱擁するようなアダージョ。これら特有の作法は、一旦聴く私たちに断言を避け、深い永遠を見せる。そして決然と、留保される。曲の一端、森の中の単一の木を眺めただけでは、何が意識され主張されようとしているかは、判然としない。しかし、聴き終えたとき、確かに聴きとったことの充足が訪れる。
 私のある夜の強い体感も、不思議な言い方になるが、音の最中にあったわけではない。この交響曲9番の第1楽章の終盤に訪れる、展開部のあとの完全な無音(沈黙)に痴れてしまったのである。とくにヴァント指揮による演奏でのこの部分は、凄まじい。いくつかの主題が現れ重なり、圧倒的な頂へ登りつめたあと突如として音が止む。暗闇の床で聴いていたからだろうか、比喩ではなく、つまりは、迫りくる実音の渦中にいたのであるからこう喩えられるが、無情が束になって落下していった。架空(音像)であるとはいえ、それは世界が谷底に向かって瓦解、崩壊する様であった。
 生きようとするもの、そして死にいこうとするもの、そのどちらの意志も無にする、“無音の純音”といってもいい。そうした主張がきっぱりとシンフォニーという芸術で美しく昇華されているのである。吉田秀和のいう“底知れないほど深い解決のやすらぎ”という感慨であろう。この一曲で、しかもほんの数秒の沈黙に、本質がある。自己救済としてのブルックナー音楽の魅力はつきない。


                               つづく  

■ゆっくりと浸されていく、ブルックナー音楽の世界。

2012年06月21日 10時56分11秒 | 音楽


ぼくのいのちに必要な音楽。1   

 アントン・ブルックナー 1


ブルックナーの音楽と出会ったのは、80年代のはじめのころだった。
そのころは、まだブルックナーの音楽はあまり知られていなかったように思う。アナログからCDにメディアがかわって、ブルックナーのCDは、店でもあまり売られてなかった。そんな中から、なんの知識もないままに手に入れたCDが、サヴァリッシュ指揮・バイエルン国立管の交響曲6番だった。ぼくはそのころ、カルロス・クライバーが指揮した、同じ楽団のベートーベンの交響曲4番に夢中だった。バイエルン国立管というのは、楽団としてそんなに高く評価はされていなかったかと思うが、とにかくクライバーの熱演で、なんだか、「いい響きだなあ」と思いついついつられて買ってしまった。
ブルックナーという名もどんな音楽の傾向かもまったく知らなかったが、一聴して「ワーグナーの管弦楽版だなあ」と思った。
 それからそのブルックナー盤は、しばらく聴くこともなくわが家の棚に眠っていた。ベートーベンやブラームス、シューベルトなどはたまに聴いてはいたが、あの陰鬱な厚みのある音塊をなんとなく拒んでいたのかもしれない。
 そして10年ぐらいたっていただろうか、マーラーの交響曲盤などは、もうCDショップにも百花繚乱のごとくに並んでいた。ブルックナー盤も、以前に比べて格段に増えていた。そのころ手にしたのが、ブロムシュテット指揮ドレスデン国立管の交響曲4番と7番だった。
 アントン・ブルックナーは、19世紀後半に活躍したオーストリアの作曲家だが、その作品は9番まである交響曲がすべてといってもいい。ミサ曲や室内楽曲もあるが、とくに交響曲の3番から9番までが一般的にはよく知られている。元々は、リンツ近郊にある聖フローリアン寺院のオルガニストであった彼の曲は、その基底にオルガンの響きがあるというようにいわれることが多い。また、一曲の所要時間が80分近くあり、「長々と続き、どの曲も同じように聴こえる」などと評される。確かに、モーツァルトの交響曲41番「ジュピター」が、約30分、ベートーベンの交響曲6番「田園」が約40分ほどだから、その2曲分以上の長さになる。独特の霧に包まれたようなかすかな律動ではじまる「ブルックナー開始」や、全音がぴったりと止み空白をつくる「ブルックナー休止」など、特有の書法があり、そのような頑なな曲づくりがある種の平坦な連なりを感じさせるのかもしれない。たとえば、ベートーベンの「英雄」「運命」「田園」「合唱」などと連なる山巓の起伏と比べても、ブルックナーにそうした劇的な構成・企画性はほとんどない。
 さて、ブルックナーとの最初の出会いから20年以上もすぎたころ、2005年ぐらいだっただろうか、私は突如として“ブルックナー狂”になってしまった。もう、彼の交響曲はひと通り聴いていた。そして徐々にではあるが、所持している指揮者や楽団以外のいろんな演奏を聴きたくなってきた。それまではたとえばベートーベンにしても曲さえあれば指揮者や楽団など気にもしないほうだったのに、どうしていっぱしのマニアのようになってしまったのか。そんなことを顧みないまま、わがCD棚は、ブルックナー盤で埋まっていった。どちらかといえば、クラシック音楽よりもジャズを好み、日常的には、ジャズやロックを聴いていた私が、いつの間にか、仕事中も車の運転中も自宅でもずっとブルックナーの交響曲を聴くようになっていた。そして棚には、いつしかブルックナーの交響曲だけでCDが400枚ほどになっていた。
 音楽が流れている間、今という現実が薄く感じられ、音や旋律の中に没頭できる。悔恨や悲哀や恥辱や、仕事の軋轢や、そうした雑然と混在する時間が、浅薄に感じられただけではなく、それは“目前の音楽”に比べてあきらかに浅薄であると確認できた。錯覚や思い込みかもしれない。いやそれはそうだろう。音楽など眼前にはどこにも姿形は存在していない。しかし、それと対峙するとき、聴くこちらがわの生命や情や観念は、姿形になっているかというと、それもまた存在はしていない。おあいこなのだ。
 とても不思議なことだが、ブルックナーの交響曲を聴いている時、私の心の中に自分の生涯のさまざまな記憶がめぐりめぐって浮き上がってくる。それは、幼児であったころの母や父との対話であったり、小学生のころに見た山河の風景だったりする。就寝時の夢見とはまったく違う、覚めた現実感をともなって見えてくるのである。
 単なる、癒しといったものではないなにかへの没頭や没入、現実逃避というだけだろうか。そのことをもう少し考えてみたい。

初出 富山県の詩誌「天蚕糸」4号

◆マイルスのこと、ふたたび

2012年05月01日 22時14分29秒 | 音楽
マイルス・デヴィスは、アルバム「ジャック・ジョンソン」で
スライ&ファミリーストーンの「シング・ア・シンプル・ソング」を引用挿入している。
具体的には、同アルバムの「ライト・オフ」の後半で、スライの曲中におけるギターとベースによるリフを、ジョン・マクラフリンに再現して繰り返すように指示したようだ。ただ、このアルバムは、何度かの“遊びのセッション”の模様をたっぷり収録しておいて、そのテープをプロデューサーのテオ・マセロがほとんどマイルスが関わることはなく、勝手に編集したようなも...の。
だから、ある意味で、テオの翻案であり、半創作物ともいえる。
ただ、この1970年頃のマイルスは、スライの音楽にかなり影響を受けていたと思われる。
それで、このアルバム「J.J」の挿入部分と、スライ&ファミリーストーンのオリジナル音が収録されている「スタンド」を聴き比べてみた。
じっくり聴いて、ひきこまれてしまったのは、久しぶりに聴いたスライ&ファミリーストーンの音楽だった。なんと、混沌として、濃厚な“ブラックネス”なんだとどっぷりはまりこんでしまった。CDよりもアナログLPで聴きたいとも思った。この液状であるのに“ザラザラした”触感は、どうだ。あきらかにマイルスよりも時代性に身投げして潔い。
マイルスにしてこの混沌ならば、「オン・ザ・コーナー」の横溢する破調とはくらべようもないほどに、「J.J」の密度は、すかすかしている。
「液状の」といって、そうだよなあマイルスにもたらりと垂れる液状の地平があったはずなんだけど、これは、スライの音楽にあふれていたんだ。
このアルバム「スタンド」の7曲目に収録された「セックスマシーン」のヴォイシングなど、マイルスは即座にいかれたのだろうな。
むだなく、清廉として邪悪な前衛が鳴っている。

       ●

相当以前に読んだのでうろ覚えなんだけど、マイルスは自伝で「ヴォイシング」ということを語っていて後年、ジミヘンが使っていた、「ワウ・ペダル」に強く興味をもち自分でも多用するようになる。それで、トランペットでギターのような人声のような、獣のような「音=ノイズ」を混在させる。その自伝で語っていたことで、とても
驚いたのは、ずっと昔のことだけど「フランク・シナトラのオール・ザ・シングス・ユー・アーの歌唱をヴォイシングした」という発言があった。
その音源は、はるか50年代なんだけど、7...0年代になって、もちろん推測だけど、
彼は、ジミ・ヘンのギターをトランペットで人声に似たものに翻案したのではないか。
そういうふうに「オール・ザ・シングス・ユー・アー」のフレージングと「間」を聴くと、確かにシナトラの歌声がかすかに聴こえる。思い過ごしか。ただ、この「似たもの」という発想がすごいと思う。
似たものを追求することで、つねに典型からはぐれ、破れていく。「なにやってんだ」と思われる。
確かに、70年代のマイルスは、リアルタイムに聴いていて、ジャズ喫茶でもどこでも
「なにやってんだ」と苦笑されていたなあ。でも、彼はそこに「想像できないもの」をどこかにとらえ一点突破しようともがいていたようにも思う。あの時代、ジャズの世界で一番「もがいていた」のはマイルスだった。コルトレーンがもちろん外に出ようとしていただろうが、圧倒的に「内面=スピリチュアル」に走っていたとき、
マイルスは、いつも外出だけを考えていたのだ。

       ●

あれは、高3の秋。文化祭で、「黒人差別とジャズ」というブースをつくって文化祭でがんばった。
受験間近で当初いっしょにやろうとしていた仲間は、みんな去ってしまって、一人でプロデュース
してなにもかもやった。黒人の人種差別の問題とジャズ音楽との関わりを考えるというテーマで
別にクラブ活動でもなく、楽しく作った。校長がやってきて、一応ぼくが説明すると「よく考えてるね」
と言った。「まあね」。受験なんてどうでもよかった。それで、隅っこにジャズ喫茶の空間をつくった。
香をたいてコーヒーを出した。さすがウィスキーは出さなかった。
ブレイヤーに当時のエレキギター用のアンプ+スピーカーをつないで
マイルスの「マイルス・イン・ザ・スカイ」を大音量でかけた。卒業した先輩は、大学で闘争にあけくれていて
、ぼくのマイルスを思い切りけなした。「コルトレーンかけろよ」と。
その当時、確かに「マイルス・イン・ザ・スカイ」がいいなんて、誰も評価していなかった。
文化祭のブースで、みんないなくなったとき、ぼくは、さらに大音響で、そのアルバムをかけた。
とてもいい気持ちだった。でもマイルスの音楽はそのとき、「本質的ではないな」と思った。
先輩たちは、しきりに「マイルスのジャズはノンラディカルだ」とかなんとか言っていた。
今となってはどうでもいいことだが。

■パーヴォ・ヤルヴィのブルックナー9番、「さようなら」が消えていく。

2012年03月09日 18時35分27秒 | 音楽
パーヴォ・ヤルヴィ指揮、フランクフルト放送響で、ブルックナーの交響曲9番を聴く。ブルックナー、最後の未完交響曲。未完であるのに、完全に、閉じていく。全3楽章、65分39秒。彼の曲はだいたい80分くらいあるのが多いが、確かに短く感じられる。この9番を聴くといつも、「ああ終わってしまった」と思ってしまう。ずっと聴いていたいと思う。彼の他の交響曲とは、なにかが違う。諧謔や、楽想や小さな躍動がまったくない。企画がないといってもいい。それだけ自然に全楽章が流れていく。美しい諦観といったらいいか、はじまりから終わりまで、「さようなら」が繰り返される。墨絵のように淡彩で、それが、さっと書かれて「消えてもいいよ」と言っている。
第一楽章の最後に、この「さようなら」が喉に満ちて、息が詰まって、全休止で音が止まる。ここで、いつも感興が高まって、目前の絵が一瞬で、消え去る。
長谷川等伯が書いた、あの松林図のように、淡く空白と酷似してくる。この部分、指揮者や楽団、ホールトーンなどいろんな条件によって異なってくる。
ギュンター・ヴァント指揮ベルリンフィルの演奏では、平面の絵が空白に変わるというよりも、立体的な目前の世界が、一気に瓦解していく様が見える。その意味で、淡彩ではなく、あるいは掠れているのではなく、デジタルなスイッチを発動させて、建物がざあーっと崩れていくのである。世界が面ではなく、造形されたなにかに感じられる。
パーヴォ・ヤルヴィの当盤は、この響きがやわらかなフランクフルトの「アルテオパー」のその空間に楽団の音を、ざざざあと摩耗させるように消している。美しい。
もともと、ヤルヴィは、ヴァントが来日して北ドイツ響とともにこの9番を演奏したのを聴き、強く影響を受けたと言明していたそうである。ヤルヴィは、その意味でも、自らの解釈を具現化しようとしたのだろう。ヴァントに比べて、全体に、ゆったりとしている。

きょうは、京都も一日雨降り。春を呼ぶ、慈雨だろう。でも終日、夜のように暗かった。
65分39秒があっという間に過ぎた。そして、もう一度一から、65分39秒を繰り返し聴いている。ブルックナーがまた、「さようなら」を繰り返している。

◆カンチェリとペルトの癒し

2012年02月12日 18時18分04秒 | 音楽
エストニアのアルヴォ・ペルトやグルジアのギア・カンチェリの
音楽を一時期、よく聴いた。ロシアとドイツの大国にはさまれた
東欧の小国であるが、激情に根差したパルスや、鬱積した寂寥は
ヨーロッパの正統とは違っている。
どちらも、20世紀の音楽だが、現代音楽の前衛性の底を衝いた
その先の、擬古的な静謐さに至っている。つまりは、現代性を
一周して、なにかにたどりついている感じ。
この安堵感を、「癒し」や「安息」などといって、一種の環境音楽のように
語るのは、少し違うように思われる。
たとえば、バッハやベートーベンやモーツァルトにないものが
これらの音楽にはある。
さきに聴いた、ニールセンのデンマークや、シベリウスのフィンランドなども
そうだが、そこには、民族的な怒りの衝動がある。
このパルスが瞬発していく、褶曲が、いってみれば
ジャズに似ていなくもない。まあ、その類似については語っても
意味がないが、ジャズを聴いたあとにカンチェリやペルトを聴いても
なんの違和感もない。
角度を変えれば、彼らの音楽を発信するECMレーベルの眼目も
そんなところにあるのだろう。
根底にあるのは、民や国土や日常への信があり
その代弁者としての誇りもあるのだろう。
ニールセンという名が日本ではどちらかといえばマイナーであるが
彼らは、紙幣に肖像が描かれるほどの、国民的な創造者であること
にもそうしたことは表れている。
もちろん、私たち、私にはそれを心底理解することはできない。
だからこそ、「癒し」の音楽として受容されるのだろうが
それはしょうがないし、作曲者の意図と違って、どう受け取られようが
音楽自体の魅力は変わらないだろう。

カンチェリの音楽は、寂しく、悲しい。その悲しみの審級は、聴く主体である
己の感性の芯にとどき、深いなにかをもたらす。
そうした「私よりも悲しく寂しい」という理解が
つまりは、「癒し」の正体なのかもしれない。

それとも、今を生きる私たちにとっての「癒し」は、ただ静謐であるだけでなく
どこかに、歪んだ衝動がないともう満足しなくなっているのだろうか。

●ヤナーチェクの呼吸。

2012年02月05日 19時15分53秒 | 音楽


ぼくは、ヤナーチェクの悲しみがわかるような気がする。
そして、それは、彼の部屋を撮影した、写真家
ヨセフ・スデックと重なる。その重なり方が
自分では気にいっている。
ヨセフ・スデックは、彼の父親がヤナーチェクと親交があったと
... いう縁で、作曲家の残された室内を撮影する。
スデックはそのときすでに、戦争によって片腕を失っていた。

ヤナーチェクの呼吸。
彼が、最後の弦楽四重奏「ないしょの手紙」を創作した部屋。
そこに、どんな空気が充満していたか。
どんな凍てる悲しみがたゆたっていたか。
音楽を聴くと、清い湧水のように満ちてくる。

「ないしょの手紙」という、俗っぽい副題がついているが
作曲家が死ぬ目前に書いた、渾身の一曲である。
生きているときの記憶の集約。凍結。
それは、38歳も年のひらいた人妻へのラブレターとして
作られている。

西洋音楽の正統とはかけ離れた、奇妙な旋律。
震えるような不安定な抑揚。
まるで、発語のような、そう言葉を朗詠するような
声の翻案。

あえてソナタ形式を無視し、あふれだす恋情に
身投げしていく。
しかし、そうした挿話を知らずとも、切々とした
弦楽四重奏のたたずまいは、時代を超えて
わたしにとどく。
この音は、ヤナーチェクの愛と生とを交換した音なのだ。

それから、数年たち、主のいないこの部屋へ踏み込んだ
写真家。第二次世界大戦では、ナチスによって
撮影対象を制限させられ、自らの身辺をずっと撮り続けた人。

その人が、ヤナーチェクの息が潜む空間を撮った。
日常への愛。ファインダーが、空気に迫っている。

ヤナーチェクの「in the mists」、「霧の中で」を聴く。
悲しみは清澄であっていい。
1912年の作。不幸な祖国、チェコスロヴァキアは当時
母国語を奪われ、ドイツ語が公用語となっていた。
忍び寄る、暗雲。
... そして、作曲家は音楽界からはほとんど認められることはなく
60歳になろうとしていた。

生涯のほとんどを、一地方都市であるブルーノで
作曲をつづけた。その光景を
ヨセフ・スデックは、撮っている。

同時期に作られた、ピアノによる小品
「草陰の小径にて」にも通じる
霧がふる、個的な場所。その場所は
思いが充満する、霧まみれの袋。

ピアノは、その袋から嘆息を漏れいだす。

少しの歌謡、旋律。それが、民の歌を代弁する。

三人のピアニストによって、聴く。

◆アンスネス
◆バーレニーチェク
そして、ヤナーチェクの化身のような
◆ルドルフ・フィルクスニー

2012年2月4日の朝、霧に洗われる


ピアニスト、ルドルフ・フィルクスニーは、5歳のときに、ヤナーチェクに出会い、以後ずっと師事した。
彼の述懐によると、ピアノの教え方は、特異で、いきなり
小品の作曲をさせたという。
技巧の鍛練には厳しく、同時にイマジネーションの飛躍ももとめたようだ。
幼いころ、その宿命から孤児として育てられたヤナーチェクが、ただ、様式にのみ埋没する固苦しい、アルチザンであろうとするならそれは理解できるが、どうもそうでもないらしい。
... 相当に、変わりものであったであろうことが、うかがえる。

フィルクスニーで
「草陰の小径にて」を聴く。

組曲第一集には、それぞれ文学的なタイトルが付されている。

1私たちの夕べ
2風に散った木の葉
3一緒においで
4フリーデクの聖母マリア
5彼らは燕のようにしゃべる
6言葉もなく
7おやすみなさい
8こんなにひどく怯えて
9涙ながらに
10フクロウはとびさらなかった

小さな声で語られる、内面の秘話(悲話)。
楽譜どうりに曲をたどっても
その内面は、見えない。
まるで、親子のように生きた
このピアニストだけが弾ききる、静かな述懐。
弱音の美が際立つ。

似たような、関係は
ディーリアスとフェンビー
にも感じられる。

曲想は、まったく違うが
ヤナーチェクとディーリアス
何か、通じる。

◆あらためて、セシリア・エボラのことと音楽について

2012年02月05日 17時33分08秒 | 音楽
昨年の暮れに70歳で亡くなった、セシリア・エヴォラのことが
ずっと気になってしょうがない。
セザリアという表記もあるが、10年ぐらい前に買ったCDに書かれていた
表記のまま、ぼくの頭の中では、「セシリア」で記憶している。
そのときのCDには「大西洋のビリー・ホリデイ」と謳われていた。
まあ、ビリー・ホリデイと似ているかどうかは別にして
歌が心に沁みた。解説の中に彼女の肖像がのっていて
ウィスキーの入ったコップを手にした、酔っぱらった老女だった。

そのとき、ぼくは彼女の音楽もそうだが、住んでいる島が
気にかかった。その島、「カーボ・ヴェルデ」を地図で確かめると、
ポルトガルにあった。(公用語もポルトガル語)
ポルトガルといっても、ヨーロッパの圏域内でもなく
どちらかといえば、アフリカの圏域にも近く、ちょうどその中間の
大西洋に浮かぶ、孤島群であった。

少しこの島のことを調べた。あまりなかったが、この島の音楽を
集めた2枚組のCDも購入して聴いてみた。
どうもこの島は、ヨーロッパと新大陸アメリカを結ぶ要衝であったようだ。
なんのための拠点であったかというとアフリカ大陸の
黒人たちを運ぶための継地としての島であった。
要するに、当時の西欧人たちの搾取と収奪のための島であったとも
言える。
もう少し調べてみると、黒人たちは、この島からアフリカ大陸の
象牙海岸を経て、ブラジルや南米諸国に運ばれていた。
そういう歴史がある。

彼女の唄う歌は、「どこかの歌」であり、「どこでもない歌」に聴こえた。

ぼくは、このCDを聴いていた当時、ジャズ関連の仕事で
ニューヨークに行った。ジャズを聴きに行って、そこで南米音楽の
魅力にとらえられてしまった。

たとえば、トライベッカのSOBsで聴いた、カリ。
ヴィレッジゲイトで聴いた、グルーポ・ニチェなどの演奏に接した
衝撃は、同時に聴いた、ジャンポール・ブレリーやデビッド・マレイを
凌駕した。それからは、一時期はずっとラテン音楽にどっぷり。

コロンビアの弦楽がからむ、ダンス音楽。気品が香るブラジルのショーロ。
マルチニークのビギン。プエルトリコの労働歌。ハイチやチリなど。
そしてとくに40、50年代のキューバ音楽に深く魅了された。

アンソニオ・ロドリゲス、カチャーオ、コルティーホ、マチート
タブー・コンボ、ラファエル・フェルナンデス、
そしてトロンボーンのモン・リベーラ、ピシンギーニャなど、
好きな音楽家をあげればきりがない。

セシリアの歌は、ポルトガル語という言葉のニュアンスもあるが
ファドのようでもあり、ブラジルの古謡のようでもあり、
確かに、ビリー・ホリデイのジャズのようでもあった。
さらには、彼女がキューバで人気があるように、キューバ音楽
のようでもあった。「どこでもない歌」は、ただ、「クレオール」
といえばそうでもあるが、ひょっとして、いや多分
アフロリズムの混在した、その根の芯の部分に
はるか昔の、クープランなどの小唄などがまざっているのではないかと
夢想した。

たとえば、マルチニークという南米の島に「ビギン」など、西洋風の
優雅が混ざったか、そしてその優雅にシドニー・ベシェやチャーリー・パーカー
たちジャズメンが魅せられたか、
カリブ音楽圏の、ポルトガル語、フランス語、スペイン語、英語など
多様な言語による多種多様な音楽が、ニューオリンズのストーリービルに
吹きだまるがごとく集積したか、そのはるかな道を思った。

また、マルチニークに育った医師でもあった、フランツ・ファノンのことを
思い出し、第二次世界大戦の疎開で、レヴィ・ストロースとアンドレ・ブルトンが
島へ向かう船上で出会った逸話なども想起した。

つまりは、セシリアが70年、心の錘のように胎に澱ませてきた「唄」こそが
ジャズの根ではないかと考えた。



そうしてある日、ホレス・シルバーに「カーボ・ベルデ」という曲があることを
思い出した。なぜか。よく調べてみたら、このファンキージャズの創始者でもある
ピアニストの父は、セシリアと同じこの島の出身者だった。

よくよく地図を眺めてみれば、ポルトガルのカーポ・ベルデ島と
ニューヨークは、地理的にも近しいことを知った。



たとえば、これを「大西洋の道」として、「太平洋の道」を考えれば
マダガスカル島で独自に熟成されたポピュラー音楽のことも重要だ。
タリフ・サミーというグループが唄う、あの喜納昌吉の「花」。
伴奏に加わっているのは、デビット・リンドレイやヘンリー・カイザーら
西洋人だ。

それから、「大陸の道」もあろう。去年、ジョルデイ・サヴァールが
スペインから日本まで、東へ東へ伸びる音楽の道をたどった実験的な
CDがあった。その果てにあったのは、日本の「新内」や「清元」「常磐津」など。
もちろん、日本はとだされた国ではあったが
河内音頭と鉄砲伝来との関連だとか、とても面白い話もある。

マダガスカルからインドネシアまで、船で漂えば、想像以上に
短い時間で着くという。



まだまだいっぱい知りたいことや学びたいことがある。

マイルス、コルトレーン、オーネットそれぞれの前衛

2012年01月17日 21時37分53秒 | 音楽
このマイルスのブートレグが収録されたのが、1969年。「ビッチェス・ブリュー」
のでたすぐあと。
ぼくは、高校3年生。その頃は、まあとにかく蝶ばかり追いかけて、全国の山々を歩いていた。
それで、家へ帰れば、ジャズだった。街へでてもジャズだった。
いま、この頃のマイルスを聴いて思うのは、「当時の高校生が聴いて、わかるわけないだろ」
ということ。
コルトレーンが死んだのは、この2年前の67年。あの当時のことを顧みてみれば、
みんな、コルトレーンをある種神格化して聴いていた。レコードが日本で、発売されるのも
いまみたいにリアルタイムではなかった。
ジャズ喫茶でも、その頃は、コルトレーンのインパルス盤なんかが「ラディカル」などと
いわれてよくかかっていた。それで、客たちは、変な瞑想をしていた。
マイルスはその頃の日本では、はぐれていた印象がある。まあ、せいぜいひねもす、
「カインド・オブ・ブルー」であったか。
... 「前衛」なんてあてにならないよなあ。いま聴くと、こんなにぶっとんで、状況からはぐれ
て孤高なんだから。
ぼくはその頃、最も先端をいっている音楽をオーネット・コールマンだと思っていた。
それでいま、いまだよ、彼の「ニューヨーク・イズ・ナウ」というアルバムを久しぶりに
聴いてみた。
このなかの、「ブロードウェイ・ブルース」という曲が大好きなんだけど、この収録年が1968年。
当時、ブルーノートの直輸入盤は日本上陸が、割りと早かった。それで高価だった。
あのとき、おもいきって3000円ぐらいしたかなあ、よくおぼえている。
見開きのレコードジャケットの、ジミー・ギャリソンのセーターの格好よかったこと。
でこのオーネットのアルバムは、43年も聴いているわけだ。



オーネット・コールマンの「ブロードウェイ・ブルース」をはじめて聴いたときの印象は
(それは高校生の頃ですが)、疾走感が「格好いいなあ」といった素朴なものです。
その頃は、オーネットが、R&Bに帰ったとは、思いませんでした。
元々、オーネットは、テキサスのフォートワースという、ブルース土着の地で生まれた人
でしたね。それが、まるで、ブルースやジャズの都市化(北上)といった、過去のアメリカ
音楽の迂回伝播ルートと同じように、ニューヨークに定着する。
フォートワースでは、キング・カーティスみたいなブローをやっていたというのをどこかで
読んだ気がする。だから「帰ってきた」と書いたのだけど、いま聴くと、R&Bというより
ロック音楽の剽窃のようで、一時期の「デカショー」だったかがやってた「24000のキス」の
カバーみたいに聴こえてきた。でも剽窃ではないか。
剽窃でこんなにも格好よくやれるわけがない。ちなみにこの大好きな「ブロードウェイ・ブルース」、
あまり他のジャズマンがカバーしてないんですね。とずっと思っていたら、
大西順子が演奏しているCDを最近、聴いた。大西順子の男性的な「ピアノ圧」は、相当好み。
だから、オーネットは、自然に「ラララ、」と胸の内から湧き出てきたんだと思う。

1967年にジョン・コルトレーンが死んで、ジャズは、「さて、どうしようか」となった。
オーネットは、アトランティックでの「ジャズ来るべきもの」や「世紀の転換」などで
「ノンシャランな前衛」を突き進んだ。というのは、オーネットにとって、前衛なんて
「自分の歌を好き勝手にやればいいんだ」という決意でもあって、さしたる構えは必要なかった。
そして、この70年代の手前では、小休止していた。

ちょっと横道それるけど、最近岩波新書ででた「コルトレーン」という本で、彼の来日時のインタビュー
がでていて、コルトレーンが「尊敬する音楽家」としてオーネットの名を挙げていることを知った。
コルトレーンが来日したのは、うろおぼえだけど、亡くなる前年だったか、1966年だから
オーネットのアトランティック時代のことをたたえているわけです。
それとも、「ノンシャランな前衛」をたたえ、羨望しているのかもしれない。

ジャズを聴きながら、ちょこっとだけ今日、ジョン・ケージの「セヴンティ・フォー」を聴いたのだけど、
これは、日本の「声明」だよと思った。
さて、70年代を前に「ジャズをどうしよう」とある限られた人たちは考えた。
このように、内面の宇宙をたどるいわゆるスピリチュアルへと向かうか。
このスピリチュアルとかコズミック音楽というのは、つまりは、宇宙といっておきながら、
ある種、異郷という極所を憧憬することでもあるのですね。その証拠に、
さっきのコルトレーンの来日インタビューで、尊敬する音楽家として、
彼は、ラヴィ・シャンカールの名前を挙げています。今の、ノラ・ジョーンズのお父さんですね。
ジョン・ケージの中の楽天的に抜けた、ある肯定的に突破する前衛の中に異郷
への無抵抗な賛嘆があります。たとえば、彼のトイピアノを使用した曲などは、
ひょっとしたらこの「異郷への憧憬」と相似であるともいえます。
それから、ジ...ャズの脱皮として、後衛を選んだ人もいました。
この本題から逸れますが、ソニー・ロリンズです。後衛というのは、ぼくは、ジャズにおいて、
あるいは、音楽においても肯定はするのですが、つまりは、職人的にさらに成熟していこうとする姿勢です。最近の、ロイ・ハーグローブや、クリスチャン・マクブライトやデヴィッド・マレイなんかも、
どちらかといえば後衛だと思う。クラシックではたとえば、ロリオなんかは、
この後衛性を暴力的に引きちぎって反転させたりしていますが、、、、。
ジャズが「現代音楽のように」と模倣のような前衛を志向しましたが、これは長くは続きませんでした。
それはなんでかというと、退屈で面白くなく、演奏者は、「食っていけなかった」からです。
というのは、クラシックでは、デュティユーでもノーノでも曲をつくれば、曲自体は、残り記され
繰り返して演奏されます。ジャズの場合、その刹那で、一回性だけが求められて、奏者は消えてしまいます。そのあたりへの反発としてかどうかわかりませんが、マイルスは、
このころ、同じ曲ばかりを繰り返して演奏しています。
「じゃあ、ロックへ」って走ったジャズマンもいましたね。
この場合、成熟したロック市場のマーケティングに、ジャズはまったくついていけなかった。
圧倒的に後追いで後発だったのだ。しかも、ジミヘンでもジャニス・ジョプリンなども、
疾走したら即座に死んでいくというその速度感にもついていけなかった。

で、本題の本題、マイルスです。
マイルスは、ジャズの出口を、どう選んだのか。
彼は、徹底的にアナーキーです。ぼくは、音楽の出口に立って
あれこれと、イデオロギーをかざすのを好みません。
そうしたポーズがそこにあったとしても、ポーズを
... 音楽として聴く気はしない。たとえば、ミンガスなどが
ある意味で黒人の人権問題に言及したというような
キャンディッド盤の一連のアルバムでも、ぼくにとって
音楽は、彼らの政治性になんら関わりはない。
ただ、そこに怒りや、その怒りによるパルスの先鋭はあるだろう。
でも、そうしたポーズのような、「音楽の衝立」には興味はない。
マイルスは、そうした「衝立」とは無縁だった。

音楽に、芸術的美観と職人的美観があるとして、
その岐路をマイルスは破った。
あるいは、それは、マイルスに先行したであろう
スライ・アンド・ファミリーストーンなどの
能天気が、素早く鋭く破調した。

マイルスは、彼自身は、この「ビッチェス・ブリュー」の
後でも、職人的美観に拘泥していた。それは、曲全体の
一連の流れの中で、まったく異質だ。
突然、ペットが奏でる
「ラウンドミッドナイト」のフレージングそれは、
頑固の塊のようでもある。ある一定の、つまりこの晴れの瞬間に
彼は、ただただ様式的である。

その意味で、「ビッチェス・ブリュー以後」のマイルスにとっては
トランペッター、マイルス・デイヴィス個人よりも
ひとしきりのパフォーミングを「作曲する」音楽家としての姿勢が
際立ってくる。アナーキーといって、ぼくが肯定したいのは、
この点なのだ。