文屋

文にまつわるお話。詩・小説・エッセイ・俳句・コピーライティングまで。そして音楽や映画のことも。京都から発信。

■マイルスの「オンザコーナー」にある、民族性。

2012年02月16日 12時31分49秒 | 詩作品
40年代、プエルトリコのコルティーホ楽団から、ボ・ディドリーと来て、マイルスの「オンザコーナー」までは、もうすぐそこです。めくるめくリズムのリフ、ブギ。そこにブラスもからみ、そのリフがちょっとずついびつに歪む。歪みつつも走らせる。ボ・ディドリーの映像の最後の部分で、リードの手を止めてこのリフだけになったとき、要するに、そこではリードを待ち受ける器の側だけが顕在化し、からむものの自由度が一気に増す。
このミニマムな凝固を、たとえば凝固だけにスポットを当てて、微細に静謐に解体させていけば、ミニマル・ミュージックになる。それから、「側」だけに頼って、むしろそれを冷淡に様式 (ファッション) 化させれば、クラフトワークなどの電子音楽になる。それからさらに、都会的に洗練された、ペラペラの側、つまりはとても自由度が増したそこにただ発話を重ねていけば、それがラップになるといったん言ってみる。

ちょっと前に、「1969年頃のマイルス・デイヴィス」のことを書いていたけど、その10年前の「カインド・オブ・ブルー」では、この凝固し様式化したリズムの「側」=「へた」を一旦排除して、いわば室内楽の「管楽合奏曲」のようなことをやった。それは、この時期のジャズにとっては画期的で芸術的な価値を高めた成果とも言える。それがどれだけジャズにとって画期的だったかというと、その後のビル・エヴァンスやコルトレーンなどの成果や指向をたどればよくわかる。たとえば、ビル・エヴァンスのそれ以前の音は、たとえば伴奏者としてとてもブルージーであった。とくに、ミンガスの「イーストコースティング」(57年)でのサポートとソロは、とてもダークな陰りをみせている。

そのころのもうひとつの流れとして、オーネット・コールマンが「フリーミュージック」(60年)を発表する。これは、当時やっと本格化してきたステレオ再生というテクノロジーとも関連があるが、右のスピーカーからはひとつの即興合奏を、また左のスピーカーからは別の即興合奏を同時に再生させる、混沌音楽だった。マイルスがブルースという普遍的な価値を芸術的に抽出したように、オーネットもまたまったく逆方向に、混沌の中から普遍的な無意識層の根を抽出した。そして、この60年代初めのころに、ジャズは、「側」をすっかり捨ててしまった。

それから10年後のマイルスは、どうしたか。ふたたび、ミニマルなリズムの「側」を見直した。それが「オンザコーナー」ではないかと考えた。きっとマイルス、テリー・ライリーの「ザ・ギフト」(63年)を聴いていたのかなあ。ここでズタズタと再生成されたチェット・ベーカーの「側のない音」はとても哀れで歪んだ、それでいて鮮烈な空間的な違和をもたらしている。
そこで、今一度「側」の「混沌」に着目したのではないか。それは言いかえれば「アフロな混沌」だったのでないかと。
ぼくは、ずっとこの「オンザコーナー」の魅力のとりこになってきた。でもそれがどういう音楽なのか、わからなかった。いまでもわかっていない。でもこれは、決してロックやファンクとの融和ではない。それは、しいて言えば、自らのアイデンティティへの融和、あるいは直流的回帰であったように思われる。民族的な言語を獲得した音楽といってもいいように思っている。

◆カンチェリとペルトの癒し

2012年02月12日 18時18分04秒 | 音楽
エストニアのアルヴォ・ペルトやグルジアのギア・カンチェリの
音楽を一時期、よく聴いた。ロシアとドイツの大国にはさまれた
東欧の小国であるが、激情に根差したパルスや、鬱積した寂寥は
ヨーロッパの正統とは違っている。
どちらも、20世紀の音楽だが、現代音楽の前衛性の底を衝いた
その先の、擬古的な静謐さに至っている。つまりは、現代性を
一周して、なにかにたどりついている感じ。
この安堵感を、「癒し」や「安息」などといって、一種の環境音楽のように
語るのは、少し違うように思われる。
たとえば、バッハやベートーベンやモーツァルトにないものが
これらの音楽にはある。
さきに聴いた、ニールセンのデンマークや、シベリウスのフィンランドなども
そうだが、そこには、民族的な怒りの衝動がある。
このパルスが瞬発していく、褶曲が、いってみれば
ジャズに似ていなくもない。まあ、その類似については語っても
意味がないが、ジャズを聴いたあとにカンチェリやペルトを聴いても
なんの違和感もない。
角度を変えれば、彼らの音楽を発信するECMレーベルの眼目も
そんなところにあるのだろう。
根底にあるのは、民や国土や日常への信があり
その代弁者としての誇りもあるのだろう。
ニールセンという名が日本ではどちらかといえばマイナーであるが
彼らは、紙幣に肖像が描かれるほどの、国民的な創造者であること
にもそうしたことは表れている。
もちろん、私たち、私にはそれを心底理解することはできない。
だからこそ、「癒し」の音楽として受容されるのだろうが
それはしょうがないし、作曲者の意図と違って、どう受け取られようが
音楽自体の魅力は変わらないだろう。

カンチェリの音楽は、寂しく、悲しい。その悲しみの審級は、聴く主体である
己の感性の芯にとどき、深いなにかをもたらす。
そうした「私よりも悲しく寂しい」という理解が
つまりは、「癒し」の正体なのかもしれない。

それとも、今を生きる私たちにとっての「癒し」は、ただ静謐であるだけでなく
どこかに、歪んだ衝動がないともう満足しなくなっているのだろうか。

●ヤナーチェクの呼吸。

2012年02月05日 19時15分53秒 | 音楽


ぼくは、ヤナーチェクの悲しみがわかるような気がする。
そして、それは、彼の部屋を撮影した、写真家
ヨセフ・スデックと重なる。その重なり方が
自分では気にいっている。
ヨセフ・スデックは、彼の父親がヤナーチェクと親交があったと
... いう縁で、作曲家の残された室内を撮影する。
スデックはそのときすでに、戦争によって片腕を失っていた。

ヤナーチェクの呼吸。
彼が、最後の弦楽四重奏「ないしょの手紙」を創作した部屋。
そこに、どんな空気が充満していたか。
どんな凍てる悲しみがたゆたっていたか。
音楽を聴くと、清い湧水のように満ちてくる。

「ないしょの手紙」という、俗っぽい副題がついているが
作曲家が死ぬ目前に書いた、渾身の一曲である。
生きているときの記憶の集約。凍結。
それは、38歳も年のひらいた人妻へのラブレターとして
作られている。

西洋音楽の正統とはかけ離れた、奇妙な旋律。
震えるような不安定な抑揚。
まるで、発語のような、そう言葉を朗詠するような
声の翻案。

あえてソナタ形式を無視し、あふれだす恋情に
身投げしていく。
しかし、そうした挿話を知らずとも、切々とした
弦楽四重奏のたたずまいは、時代を超えて
わたしにとどく。
この音は、ヤナーチェクの愛と生とを交換した音なのだ。

それから、数年たち、主のいないこの部屋へ踏み込んだ
写真家。第二次世界大戦では、ナチスによって
撮影対象を制限させられ、自らの身辺をずっと撮り続けた人。

その人が、ヤナーチェクの息が潜む空間を撮った。
日常への愛。ファインダーが、空気に迫っている。

ヤナーチェクの「in the mists」、「霧の中で」を聴く。
悲しみは清澄であっていい。
1912年の作。不幸な祖国、チェコスロヴァキアは当時
母国語を奪われ、ドイツ語が公用語となっていた。
忍び寄る、暗雲。
... そして、作曲家は音楽界からはほとんど認められることはなく
60歳になろうとしていた。

生涯のほとんどを、一地方都市であるブルーノで
作曲をつづけた。その光景を
ヨセフ・スデックは、撮っている。

同時期に作られた、ピアノによる小品
「草陰の小径にて」にも通じる
霧がふる、個的な場所。その場所は
思いが充満する、霧まみれの袋。

ピアノは、その袋から嘆息を漏れいだす。

少しの歌謡、旋律。それが、民の歌を代弁する。

三人のピアニストによって、聴く。

◆アンスネス
◆バーレニーチェク
そして、ヤナーチェクの化身のような
◆ルドルフ・フィルクスニー

2012年2月4日の朝、霧に洗われる


ピアニスト、ルドルフ・フィルクスニーは、5歳のときに、ヤナーチェクに出会い、以後ずっと師事した。
彼の述懐によると、ピアノの教え方は、特異で、いきなり
小品の作曲をさせたという。
技巧の鍛練には厳しく、同時にイマジネーションの飛躍ももとめたようだ。
幼いころ、その宿命から孤児として育てられたヤナーチェクが、ただ、様式にのみ埋没する固苦しい、アルチザンであろうとするならそれは理解できるが、どうもそうでもないらしい。
... 相当に、変わりものであったであろうことが、うかがえる。

フィルクスニーで
「草陰の小径にて」を聴く。

組曲第一集には、それぞれ文学的なタイトルが付されている。

1私たちの夕べ
2風に散った木の葉
3一緒においで
4フリーデクの聖母マリア
5彼らは燕のようにしゃべる
6言葉もなく
7おやすみなさい
8こんなにひどく怯えて
9涙ながらに
10フクロウはとびさらなかった

小さな声で語られる、内面の秘話(悲話)。
楽譜どうりに曲をたどっても
その内面は、見えない。
まるで、親子のように生きた
このピアニストだけが弾ききる、静かな述懐。
弱音の美が際立つ。

似たような、関係は
ディーリアスとフェンビー
にも感じられる。

曲想は、まったく違うが
ヤナーチェクとディーリアス
何か、通じる。

◆あらためて、セシリア・エボラのことと音楽について

2012年02月05日 17時33分08秒 | 音楽
昨年の暮れに70歳で亡くなった、セシリア・エヴォラのことが
ずっと気になってしょうがない。
セザリアという表記もあるが、10年ぐらい前に買ったCDに書かれていた
表記のまま、ぼくの頭の中では、「セシリア」で記憶している。
そのときのCDには「大西洋のビリー・ホリデイ」と謳われていた。
まあ、ビリー・ホリデイと似ているかどうかは別にして
歌が心に沁みた。解説の中に彼女の肖像がのっていて
ウィスキーの入ったコップを手にした、酔っぱらった老女だった。

そのとき、ぼくは彼女の音楽もそうだが、住んでいる島が
気にかかった。その島、「カーボ・ヴェルデ」を地図で確かめると、
ポルトガルにあった。(公用語もポルトガル語)
ポルトガルといっても、ヨーロッパの圏域内でもなく
どちらかといえば、アフリカの圏域にも近く、ちょうどその中間の
大西洋に浮かぶ、孤島群であった。

少しこの島のことを調べた。あまりなかったが、この島の音楽を
集めた2枚組のCDも購入して聴いてみた。
どうもこの島は、ヨーロッパと新大陸アメリカを結ぶ要衝であったようだ。
なんのための拠点であったかというとアフリカ大陸の
黒人たちを運ぶための継地としての島であった。
要するに、当時の西欧人たちの搾取と収奪のための島であったとも
言える。
もう少し調べてみると、黒人たちは、この島からアフリカ大陸の
象牙海岸を経て、ブラジルや南米諸国に運ばれていた。
そういう歴史がある。

彼女の唄う歌は、「どこかの歌」であり、「どこでもない歌」に聴こえた。

ぼくは、このCDを聴いていた当時、ジャズ関連の仕事で
ニューヨークに行った。ジャズを聴きに行って、そこで南米音楽の
魅力にとらえられてしまった。

たとえば、トライベッカのSOBsで聴いた、カリ。
ヴィレッジゲイトで聴いた、グルーポ・ニチェなどの演奏に接した
衝撃は、同時に聴いた、ジャンポール・ブレリーやデビッド・マレイを
凌駕した。それからは、一時期はずっとラテン音楽にどっぷり。

コロンビアの弦楽がからむ、ダンス音楽。気品が香るブラジルのショーロ。
マルチニークのビギン。プエルトリコの労働歌。ハイチやチリなど。
そしてとくに40、50年代のキューバ音楽に深く魅了された。

アンソニオ・ロドリゲス、カチャーオ、コルティーホ、マチート
タブー・コンボ、ラファエル・フェルナンデス、
そしてトロンボーンのモン・リベーラ、ピシンギーニャなど、
好きな音楽家をあげればきりがない。

セシリアの歌は、ポルトガル語という言葉のニュアンスもあるが
ファドのようでもあり、ブラジルの古謡のようでもあり、
確かに、ビリー・ホリデイのジャズのようでもあった。
さらには、彼女がキューバで人気があるように、キューバ音楽
のようでもあった。「どこでもない歌」は、ただ、「クレオール」
といえばそうでもあるが、ひょっとして、いや多分
アフロリズムの混在した、その根の芯の部分に
はるか昔の、クープランなどの小唄などがまざっているのではないかと
夢想した。

たとえば、マルチニークという南米の島に「ビギン」など、西洋風の
優雅が混ざったか、そしてその優雅にシドニー・ベシェやチャーリー・パーカー
たちジャズメンが魅せられたか、
カリブ音楽圏の、ポルトガル語、フランス語、スペイン語、英語など
多様な言語による多種多様な音楽が、ニューオリンズのストーリービルに
吹きだまるがごとく集積したか、そのはるかな道を思った。

また、マルチニークに育った医師でもあった、フランツ・ファノンのことを
思い出し、第二次世界大戦の疎開で、レヴィ・ストロースとアンドレ・ブルトンが
島へ向かう船上で出会った逸話なども想起した。

つまりは、セシリアが70年、心の錘のように胎に澱ませてきた「唄」こそが
ジャズの根ではないかと考えた。



そうしてある日、ホレス・シルバーに「カーボ・ベルデ」という曲があることを
思い出した。なぜか。よく調べてみたら、このファンキージャズの創始者でもある
ピアニストの父は、セシリアと同じこの島の出身者だった。

よくよく地図を眺めてみれば、ポルトガルのカーポ・ベルデ島と
ニューヨークは、地理的にも近しいことを知った。



たとえば、これを「大西洋の道」として、「太平洋の道」を考えれば
マダガスカル島で独自に熟成されたポピュラー音楽のことも重要だ。
タリフ・サミーというグループが唄う、あの喜納昌吉の「花」。
伴奏に加わっているのは、デビット・リンドレイやヘンリー・カイザーら
西洋人だ。

それから、「大陸の道」もあろう。去年、ジョルデイ・サヴァールが
スペインから日本まで、東へ東へ伸びる音楽の道をたどった実験的な
CDがあった。その果てにあったのは、日本の「新内」や「清元」「常磐津」など。
もちろん、日本はとだされた国ではあったが
河内音頭と鉄砲伝来との関連だとか、とても面白い話もある。

マダガスカルからインドネシアまで、船で漂えば、想像以上に
短い時間で着くという。



まだまだいっぱい知りたいことや学びたいことがある。