40年代、プエルトリコのコルティーホ楽団から、ボ・ディドリーと来て、マイルスの「オンザコーナー」までは、もうすぐそこです。めくるめくリズムのリフ、ブギ。そこにブラスもからみ、そのリフがちょっとずついびつに歪む。歪みつつも走らせる。ボ・ディドリーの映像の最後の部分で、リードの手を止めてこのリフだけになったとき、要するに、そこではリードを待ち受ける器の側だけが顕在化し、からむものの自由度が一気に増す。
このミニマムな凝固を、たとえば凝固だけにスポットを当てて、微細に静謐に解体させていけば、ミニマル・ミュージックになる。それから、「側」だけに頼って、むしろそれを冷淡に様式 (ファッション) 化させれば、クラフトワークなどの電子音楽になる。それからさらに、都会的に洗練された、ペラペラの側、つまりはとても自由度が増したそこにただ発話を重ねていけば、それがラップになるといったん言ってみる。
ちょっと前に、「1969年頃のマイルス・デイヴィス」のことを書いていたけど、その10年前の「カインド・オブ・ブルー」では、この凝固し様式化したリズムの「側」=「へた」を一旦排除して、いわば室内楽の「管楽合奏曲」のようなことをやった。それは、この時期のジャズにとっては画期的で芸術的な価値を高めた成果とも言える。それがどれだけジャズにとって画期的だったかというと、その後のビル・エヴァンスやコルトレーンなどの成果や指向をたどればよくわかる。たとえば、ビル・エヴァンスのそれ以前の音は、たとえば伴奏者としてとてもブルージーであった。とくに、ミンガスの「イーストコースティング」(57年)でのサポートとソロは、とてもダークな陰りをみせている。
そのころのもうひとつの流れとして、オーネット・コールマンが「フリーミュージック」(60年)を発表する。これは、当時やっと本格化してきたステレオ再生というテクノロジーとも関連があるが、右のスピーカーからはひとつの即興合奏を、また左のスピーカーからは別の即興合奏を同時に再生させる、混沌音楽だった。マイルスがブルースという普遍的な価値を芸術的に抽出したように、オーネットもまたまったく逆方向に、混沌の中から普遍的な無意識層の根を抽出した。そして、この60年代初めのころに、ジャズは、「側」をすっかり捨ててしまった。
それから10年後のマイルスは、どうしたか。ふたたび、ミニマルなリズムの「側」を見直した。それが「オンザコーナー」ではないかと考えた。きっとマイルス、テリー・ライリーの「ザ・ギフト」(63年)を聴いていたのかなあ。ここでズタズタと再生成されたチェット・ベーカーの「側のない音」はとても哀れで歪んだ、それでいて鮮烈な空間的な違和をもたらしている。
そこで、今一度「側」の「混沌」に着目したのではないか。それは言いかえれば「アフロな混沌」だったのでないかと。
ぼくは、ずっとこの「オンザコーナー」の魅力のとりこになってきた。でもそれがどういう音楽なのか、わからなかった。いまでもわかっていない。でもこれは、決してロックやファンクとの融和ではない。それは、しいて言えば、自らのアイデンティティへの融和、あるいは直流的回帰であったように思われる。民族的な言語を獲得した音楽といってもいいように思っている。
このミニマムな凝固を、たとえば凝固だけにスポットを当てて、微細に静謐に解体させていけば、ミニマル・ミュージックになる。それから、「側」だけに頼って、むしろそれを冷淡に様式 (ファッション) 化させれば、クラフトワークなどの電子音楽になる。それからさらに、都会的に洗練された、ペラペラの側、つまりはとても自由度が増したそこにただ発話を重ねていけば、それがラップになるといったん言ってみる。
ちょっと前に、「1969年頃のマイルス・デイヴィス」のことを書いていたけど、その10年前の「カインド・オブ・ブルー」では、この凝固し様式化したリズムの「側」=「へた」を一旦排除して、いわば室内楽の「管楽合奏曲」のようなことをやった。それは、この時期のジャズにとっては画期的で芸術的な価値を高めた成果とも言える。それがどれだけジャズにとって画期的だったかというと、その後のビル・エヴァンスやコルトレーンなどの成果や指向をたどればよくわかる。たとえば、ビル・エヴァンスのそれ以前の音は、たとえば伴奏者としてとてもブルージーであった。とくに、ミンガスの「イーストコースティング」(57年)でのサポートとソロは、とてもダークな陰りをみせている。
そのころのもうひとつの流れとして、オーネット・コールマンが「フリーミュージック」(60年)を発表する。これは、当時やっと本格化してきたステレオ再生というテクノロジーとも関連があるが、右のスピーカーからはひとつの即興合奏を、また左のスピーカーからは別の即興合奏を同時に再生させる、混沌音楽だった。マイルスがブルースという普遍的な価値を芸術的に抽出したように、オーネットもまたまったく逆方向に、混沌の中から普遍的な無意識層の根を抽出した。そして、この60年代初めのころに、ジャズは、「側」をすっかり捨ててしまった。
それから10年後のマイルスは、どうしたか。ふたたび、ミニマルなリズムの「側」を見直した。それが「オンザコーナー」ではないかと考えた。きっとマイルス、テリー・ライリーの「ザ・ギフト」(63年)を聴いていたのかなあ。ここでズタズタと再生成されたチェット・ベーカーの「側のない音」はとても哀れで歪んだ、それでいて鮮烈な空間的な違和をもたらしている。
そこで、今一度「側」の「混沌」に着目したのではないか。それは言いかえれば「アフロな混沌」だったのでないかと。
ぼくは、ずっとこの「オンザコーナー」の魅力のとりこになってきた。でもそれがどういう音楽なのか、わからなかった。いまでもわかっていない。でもこれは、決してロックやファンクとの融和ではない。それは、しいて言えば、自らのアイデンティティへの融和、あるいは直流的回帰であったように思われる。民族的な言語を獲得した音楽といってもいいように思っている。