文屋

文にまつわるお話。詩・小説・エッセイ・俳句・コピーライティングまで。そして音楽や映画のことも。京都から発信。

■何年ふりだろうか。香港の今を見てきた。

2007年05月16日 17時04分30秒 | 紀行


15年ぶりだろうか。仕事で香港へ行ってきた。
香港はあの街のままだったが、人の多さがまるで違っていた。
かつては、携帯電話が出だしたころで、日本ではまだ
ほとんど普及していなかった。街ゆく香港人たちが、ただただ
路上でもどこでも電話している光景が異常で、気持ち悪かったが
そういう人たちは、もうあまり目立たなかった。
逆に、日本が遅れてそうなっている。
先週見た香港では、地下鉄内でもどこでも
抱擁しあっている男女と、携帯端末PCを眺めている人の多さが
目立った。かつてはあんなに人前でいちゃいちゃしていなかった。
それから、観光客の多さ。かつては、韓国人や中国人は、見ただけで
判別できたが、いまは、日本人との区別がつかない。
そこに西洋人も混ざって、あの混雑は、パンク寸前みたい。
女人街の横に、スニーカー街というのができていて
スニーカーばかりが並んで、混雑している。
どこもかしこも混雑している。
香港島のセントラルあたりは、もっとのんびりしていたけど
ここも人と車だらけ。多分、中国からの観光客が、どっと来て
混ざっているのだろう。
また、高層ビルがやたら増えているようだ。
あのブレードランナーの映像より進化しているかもしれない。
異国感というような言葉があるかないかしらないけども
そういうのんびりとした感覚は、ほとんど感じられないほど
尖端的な混雑ぶりが、異様に目立った。

●わかりやすい詩の有限と、逡巡・迂回の無限、不死。

2007年05月01日 18時34分35秒 | 

コメントのレスですが、ここにも掲載します。




「わかる」も「わかった」も、事後ですね。
書く前から「わかるも、わかった」もない。
書いてから、第一読者である作者が、はじめて諒解する。
この最初の諒解は、自由であっていいけれど
そこからは、はぐれていきます。
意味が、自分からはぐれていきます。
それから再度読んでも、はぐれたままであっても
新しく更新された、「自分のようなα」に出会うことができます。これは、作者以外の他人=読者と共有できますね。
最初から

>狙ってわかりたい人達に向けて書くことができたら、
 「詩らしきもの」で商売できてしまうんだろうか

それならば、商売人が詩らしきものを書いている

ということになります。

詩人というのも、事後的です。詩を書く以前から
詩人なんて者は、どこにもいない。
上の、逡巡する諒解上だけにいる。
詩人と称しているから、詩を書いているとも限らない。

商売人が詩らしきものを書く、これはこれで否定しよう
とも思いません。

「スカッとさわやかコカコーラ」

という、惹句。

武者小路実篤の

「仲よきことはよきことかな」や
相田みつおなどと、そんなに違いません。

わかりやすくて、商売にもなっています。

でも、この主格は、コカコーラ、
あるいは、コカコーラの会社
あるいは、コカコーラの社長
かもしれません。

わかりやすくて、嘘でもないかもしれません。

どこにも、逡巡がないし、発見もありません。
うまいものは、うまいだろうし。
炭酸は、スカッとします。

★自分の

自分ではないものたとえば、「棕櫚の木」

★思ったこと、感じたこと

思いも、感じもしえないことを

★自由にのびのび

逡巡、迂回、屈折、呻吟、停止しながら

★書く

沈思する。

★は、教科書的で、★の下の文をつなげると



「棕櫚の木」が「思いも、感じもしえないこと」を
「逡巡、迂回、屈折、呻吟、停止」しながら
「沈思」する。

これが詩かもしれません。

萩原朔太郎に「死なない蛸」という世にも変な作品があります

「棕櫚の木」を「死なない蛸」にしてもいいでしょう。



昨日、中沢新一の「ミクロコスモス」という本をちらちら見ていて

「音楽の不死性」という言葉に目がとまりました。

「スカッとさわやか」なんかは、コカコーラが死んだら
言葉も死んでしまいます。というより、その言葉は、
大衆に浸透し、諒解された時点で、指示性が成就されて
死んでしまいます。

音楽は、すぐに記憶から消え、なんの諒解も得られないまま
生き残りつづけます。

無理矢理に、難解な言葉を書くのではなく
その故意のなかで、諒解が成就されて、その難解な詩も
即死です。


ではなく、しようがなく、事後どうしても
言葉で諒解できないけれども、身体か身体外のなにかか
どこかに留保されつづける、事後の難解は
不死かもしれません。



円空
芭蕉
レヴィ・ストロース
エリック・ドルフィ
ジョン・オグドンの弾く、メシアンの
「幼児イエススに注ぐ20のまなざし」→たまたま聴いていた

などのことを考えてみましょう。

彼らは、

「棕櫚の木」が「思いも、感じもしえないこと」を
「逡巡、迂回、屈折、呻吟、停止」しながら
「沈思」する。

ことを、生きた、まったき詩人です。