文屋

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■薄めの孤絶。アメリカンな詠嘆

2005年02月11日 18時00分38秒 | 
客が来ていて、詩の話になった。
客は、大学の先生もしている。
それで、最近の学生の書く論文というのは、論理の中にも
ごくごく個人的な詠嘆的なセンチメントが入り交じっているという。

孤絶。

孤絶を、根城にしているが、その孤絶は、いつか、他者に伝えようとする
性質の孤絶で、孤絶に詠嘆や嘆息が交じる。

「いつかだれかにわかってもらえる」というような。

ネットという性質にもこれはある。

甘い孤絶。

なぜかというと、ある世代にとっては、ほんとうの孤絶を知らないままに
大人になってしまうのですね。

寂しいのに、「寂しさ」を知らない。

孤絶していないにもかかわらず、ただディスコミュニケーションであることが
孤絶であると解釈してしまう。
「わがまま気まま」が、孤絶の正体だと、とりあえずは納得する。
その辺の感覚ならば、ちらちらと詩みたいなものを書けば
だれかには、共感が得られる。

いまのJ−POPの詞が近代詩みたい、という感じ方の背景には
そこんとこがあるんだけど
実は、この「はびこり」は、滅茶苦茶、頑固で重層的。

だれかにぶつかったり、だれかに絶望したり
どうしょうもない孤絶という体験がないまま

むしろいつも「コドクでひとりぼっち」だったことの
日常的居直りが、薄いセンチメンタルな感慨を生む。




          -----------ときどきつづく