文屋

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●昨夜のテレビ、ブルックナーの感情の渦に振られたり揺さぶられたり

2009年06月20日 11時40分02秒 | 音楽

昨夜、NHKで放送された、ウェルザー・メスト指揮クリーブランド管の
ブルックナー交響曲、5番と7番を聴いた。
どっぷり。2時間半。少々疲れた。
5番と7番では、まったく曲の野心が異なる。
いや、野心の方向が異なる。7番は、聴衆の意識の自然な流れに
委ねているような感じがある。滔々として、破綻を避けて
ある意味で、世評を視野にいれている。
もちろん、であっても、ブルックナー特有のソリッドな
濃密は、十分に感じられる。
フルートやクラリネットといった、管の放逸を緩め許しつつ
それを、弦のアンサンブルで抱擁していく。
この放映の、圧巻は、5番だろうな。
聖フローリアン教会での収録。
先日も、NHKの紀行番組で、リンツの町を旅人の視線で
ただただ歩いて行く番組があった。そして
ブルックナーの棺がいまもある、この教会を紹介していた。
教会の地下に眠るブルックナーのまさに、その上で
演奏された、ブルックナー。
かつて、30年も前だろうか、朝比奈隆が大フィルと
7番を収録したときと同じだ。
朝比奈のこのCDでは、楽章の間にフローリアンの鐘の音が
突然鳴り出すハプニングでも有名。

今回は、クリーブランド管だからアメリカの楽団。
指揮者は、このリンツの町で生まれ育ったウェルザー・メスト。
ぼくは、この5番、冒頭の暴力的な咆哮にいつも緊張を強いられ
そこから、いきなり強制的にブルックナーワールドに
引き込まれる感覚が好きなのだが
天井の高い、直方の筒のようなフローリアンの空間に
さらに吠える吠える残響が強調されている。
第二楽章の主題、弦の合奏が、幼児的ですらある管の
恣意性をいだき、その様を空間に放つ感じが
秀逸なカメラワークで見事にとらえられている。

ぼくは、この5番、冒頭の部分よりももっと好きなのが
終楽章の最初の部分だ。
クラリネットが幼児の恣意をそのまま発露して
児戯の旋律を吹く。あくまで静かに、戸外から
つまり彼岸で鳴っているように配置され、それが合奏へと
徐々に収斂されていく。
この部分、はじめて戦いたのが、クレンペラーがウィーンフィルと
演奏したCD。

この部分、もう20世紀の音楽であり音だ。
室内楽的であり、ジャズがバンド音楽からコンボが主体となった
ビ・バップの趣向に似ていなくもない。
突然に、ブルックナーがシェーンベルクを香らせる時間なのだ。

で、この時間は、多分だが、9番まであるブルックナーの
交響曲で、5番のこの部分、この時間だけだと私は
思っている。

ブルックナー自身がこの教会でオルガンを奏していたという
事実。ウェルザーメストは、トッティではまさにオルガン様の
太く揺らぐ、「クダの息」を交響させる。
管は、この空間の外へめいっぱい放たれようと響いていくが
けっして、この祈りは此岸にとどまり
願望として外出し、彼岸=死は、安穏として教会内で抱擁される。

ブルックナーとは、堆積し放逸したい欲望にまみれた無意識層と
諦観だけが自覚的に確信される意識層を、カオスティックに混ぜる。
そして、この混ぜるという安穏が許容される唯一の場として
教会を、音楽と同次元でとらえていたのだろうと納得する。

この音楽をどのように演奏されれば理想なのだろうか。
管は、ここまで幼児的であっていいのだろうか。
いいのだろうなと思う。ヴァントやチェリビダッケではないような気も
するが、「ない交ぜの許容の時間」を立たせるのであれば
むしろ、なにもしないヴァントも、ただ滔々とさせる
チェリビダッケもいいのかもしれない。
でも、やはりあらゆる二層二項の対立を
対立事態を、ソリッドなユニットとして暫定宇宙を
限定された空間に聳えさせるには、
ロスバウトやギーレンのような、粗さと冷たさも求められると思う。

ブルックナー、恐るべし。
と深く感じたことは、確か。
ぼくは、まだまだ、ブルックナーのことは、わからないことだらけだ。