文屋

文にまつわるお話。詩・小説・エッセイ・俳句・コピーライティングまで。そして音楽や映画のことも。京都から発信。

■26日は、気持ちのいい朗読会と合評会を楽しんだ。

2008年04月29日 15時24分15秒 | 

4月26日の土曜日、
京都市の有形文化財指定「駒井家住宅」であった朗読会に
参加した。駒井家住宅は、ヴォーリーズが建てた
昭和初期の建物で、黒澤明の映画「我が青春に悔いなし」の
ロケにも使われた貴重な空間。
詩誌「庭園」の執筆者たちと
ゆったりとした感じでリーディングすることができた。
定員25名という密接な空間が、心地よかった。
その「庭園」の執筆者で今回いっしょに朗読をした
数名が、「紙子」の同人でもあり
そのまま、イベントのあと打ち上げと「紙子の合評会」を開いた。
同人の作品を自分なりに精読をして
できる限り気づいたことを書きこんでのぞむ。
感じたことが、他の同人と同意見であったり
まったく自分だけのとらえ方だったり
合評で語られる内容は、とても面白い。
同人7名、同人外のゲスト2名。
この一夜のために、東京からT氏W氏も来た。
こうした批評会をちゃんとする。
せっかく同人費を払って参加しているのだから
参加しないのは、なんとももったいないと思う。
もやもやも、ちょっとしたストレスも得るわけだが
そうした感情を抱きながら次号に向かう。
たった数時間だが、10名ほどの人間が
ひたすら詩のこと詩作品のことだけを語り合う
濃密な時間。
昔からずっと、こうした時間が好きだ。

■平野神社の花見と、「天然コケッコー」という映画を観る。

2008年04月07日 17時33分55秒 | 日録雑感
土曜日は、平野神社へ花見へ行った。
境内は、花ざかり。いまこの時とばかりに
薄紅が光と風を通していた。
衣笠あたりを歩いて、町家風のレストランで
イタリアン。、軽い、優雅で、いい一日。
平野神社で、お正月、首に注連縄を巻かれる犬の名前が
わかった。「ハチ」というそう。忠犬と同じ名。
昨夜は、DVDで「天然コケッコー」を観た。
渡辺あやの脚本、なめらかで詩的で
言葉が、地のぬくもりにくるまれているよう。
映像がせいいっぱいで、このシナリオを補うかの印象。
まずまずのバランス。

脚本で、ふたつの言葉が効いていた。
ひとつは、「おおきに」という言。
頻繁に登場する。舞台は、島根なんだけど
この「おおきに」が、自然で優しい。

自者と他者の結節。そこに挨拶が普通に転がる。

もうひとつは、
「なんや、同じ音や」というセリフ。
田舎から修学旅行で東京へ出、人ごみに圧倒された後
主人公が呟く。
都会の騒音と、田舎の山が鳴る「ゴーッ」という音が
同じなんやと覚る。

自所と他所の結節。そこに共同社会の圧迫がある。

時間は、なめらかに流れるが
人を抱擁し、諦念を慰撫するのは、「場所」だと教える。
花、道、タバコ、通販カタログ、商店、ウインドブレーカー

物をして、語らせる映像は、
シナリオへ挑むようでもあった。
それとも「本」にそれらのマテリアルの役割を
書いてあったのだとしたら
この脚本家は、優れたディレクターかもしれない。
哀れを一切描こうとはしていないようだったが
どこかで、迫らせてもよかったかも。
「ロハス」、、、、、、、、、
まあちょっとマーケティング的には
そんなのもテーマとしてあったかも。

監督は、「ばかのハコ舟」という
ジャームッシュ的に、不協和音映像が秀逸だった
山下敦弘。


★『実録』酔夜のできごと、「春先の人ちがひ」。

2008年04月04日 12時12分09秒 | 詩作品
こんなこともあるんだなあ、という奇跡。
昨夜、ある集いがあって宴席に出た。
久しぶりに、寺町通りを二条から北へとぼとぼ。
「ずいぶんおしゃれになったなあ」というのが
寺町通りの印象。
20名ほどの集まりで、ぼくはほとんど一番のり。
靴を脱いであがるときに、玄関に靴を上げる板があった。
ぼくの靴は、マレルというブランドのバックスキン。
かかとの部分に、チェック柄のスリップがついている。
このマレルの靴は、とても気に入っていて
同じスタイルのものをもう一足もっている。
「ああ、この板に靴をあげるんだなあ」
「店の人があげてくれるんだろな」
ぐらいに思っていた。
いやあ、昨夜は、とてもニュアンスの似通った人たちばかりで
なんだか、なごんで、坩堝の底辺へ一気に至るほどに
皆が、濃厚にまとまった。
間接的に、知人の知人というような「うっすら友達ばかりの」
うち解けようだった。
偶然にも、ぼくの事務所のお向かいさんのFさんも来ていた。
いい気分で、未明手前で失礼した。
靴は案の定、というか、お店の方の行き届きのお陰で
板の上にあった。
タクシーに乗って、少しだけ違和感があった
座席で、なんどか、靴を脱いでは履き、また脱いでは履きと
やってみた。
「なんとなく小さいような、気のせいか」
で、朝、
「ちょっと違うような、いやあんな特長のある靴を履き違えないだろう」
と思いつつも、酔夜の明けの慣わしとして、地下鉄出勤。
念のために、一日履いて、違和感が納まらないようだと
お店に一応、この「違和感」を伝えておこうと、考えた。
そして、へんな違和感と喪失感と、ちょっとした幻覚のような
ニュアンスで、ボロディンの交響曲を聴きながら、悶々と。
「まあいいか、間違えたとしてもこれが世の中」
「そうそう、こんな感覚は」「内田百間的」と
やおら内田百間の「ノラや」をとりだしてきて
ちらちら。
はたして、そこでやおら郵便受けを見た。
そこには、綿密に描かれた、靴のイラスト入りの伝言があった。

「きのう靴が間違っていたということはないでしょうか」「?」と。

偶然に同席していた、お向かいのFさんと
0.5インチの齟齬であったのだ。

迂回して、もやもやとして、幻覚があり
まあ、きわめて文学的ですらある。一行、


きのう靴が
間違っていたということは
ないでしょうか


そうそう、靴が、履く人を間違えたということなんだ!