文屋

文にまつわるお話。詩・小説・エッセイ・俳句・コピーライティングまで。そして音楽や映画のことも。京都から発信。

●春の手前、ちょっと濃厚な日々だつたなあと痛感。

2006年03月29日 18時17分57秒 | 日録雑感



結局、伊東静雄論の連載6回目は、1万字にもなった。
原稿用紙25枚ぐらい。
伊東の卒論が50枚だから、ほぼその半分。

「正岡子規の写生論」が卒論のテーマだったが
その写生論は、実は彼なりの「社会主義リアリズム論」だったのではないか
と推論をすすめた。
論が乱暴になって、頭が捻挫のような状態。

編集工房ノアの無料PR誌「海鳴り」に掲載される。
大きな書店で頼めば、わけてくれると思う。

「紙子」の編集なども重なって
いったいいつ仕事しているのやら、、、、、。

「紙子」は、校了。デザインの段階。

おまけに、京都のNPOFM放送局「ラジオカフェ」で
月1回の番組をもつことになり、その打ち合わせも。

どんなときも、伊東の卒論のことばかり
だいたい、10日ぐらい考え詰めだった。

聴いている音楽は
ブルックナーばかり。
いまは、6番が大好き。
ブルックナーは、だいたいモノクロの世界なのに
この6盤は、色がある。
サヴァリッシュ指揮のバイエルン国立管。
たまに、マイルス・デヴィスの10枚組。

10枚組で、1480円だったが
プレステッジの56年のマラソンセッションなどが
ほとんど網羅されている。

この前、車で
ギュンター・ヴァント指揮の
「シューベルトの交響曲5番」を聴いていたとき、
マイルスもかっこいいけど
ヴァントって、なんてかっこいいのだろうと
心底思った。

たまに、プーランク。
昔から、プーランクの粋さが好き。
ファブリエのピアノ、いいなあ。

寺町姉小路を東に入ったところに
木蓮の大きな木に、花が満開。
ひょっとしたら、コブシかなあ。
こぼれるような白。
錯乱している、白いでかい花弁。

ああ、春の手前だなあとつくづく思う。





■伊東静雄論のつづきで、正岡子規から小林秀雄まで、頭がパンクだ。

2006年03月24日 16時37分14秒 | 文学全部


ここ一週間ばかり、伊東静雄が23歳のときに書いた
卒業論文「子規の俳論」の世界にどっぷり漬かっていた。
正岡子規の「写生論」を主軸に伊東は、論を進めているわけだが

子規は、松尾芭蕉を痛烈に批判している。
もう「見るべき物もない」というほどに。

これを、リアリズム論としてとらえると、

伊東のリアリスムや創作に対する姿勢が見えてくるだろうという
推測のもとに読み進めた。

また、作品における
現実と主体の反映という意味でも重要。

この卒論が書かれたのが、1929年。
その翌年に書かれた、小林秀雄の論考なども
引用してしまったものだから

うなされていました。

ほんとうにうなされていました。

寝ていて、文章があらわれて、
この文章が、はっきり読めて
悩むという、夢。

で、やっと、この「伊東静雄論6」のめどが
たった。

いま、イノダコーヒーでうなりながら、ほぼ下書きが完了。

だいたい、20枚ぐらいの分量。

でもなあ、こういうことって、国文学者がやれよなあ
とつくづく思う。

伊東静雄についてまとまって、書いた人、ほんとにいない。

橋川文三、桶谷秀昭なんかをいまだに読んでいるんだから。





■ぼくの詩、及川恒平さんが唄って、CDにもなりました。驚き。

2006年03月16日 20時27分14秒 | 音楽


とってもうれしいことなのですが
ぼくのような、複雑でマイナーな詩を歌にして
唄ってくれている方がおられます。

及川恒平さん。

ずっと以前にぼくは、小室等さんなんかと一緒に
六文銭で唄っておられたころから
歌もそうですが、及川さんの詩も好きでした。

抒情が一筋、確かに屹立した言葉。

「面影橋から」の中で、ぼくの育った、大阪の橋の名が
でてくるあたり。ぞくぞくしたものです。

吉田拓郎が唄った「ガラスの言葉」や
木枯紋次郎の主題歌だった「出発のうた」など
若い頃に憧れたものです。

及川さんの唄う歌では「雨が空から降れば」が
一番好き。
「しょうがないしょうがない」というリフをいつかの雨の日に
口ずさんだ記憶が鮮明にあります。



そんな方が、ぼくの詩を唄ってくれています。

ライブでも唄ってくれていますし、テレビでも唄われたそうです。

そして、なんと、こんど、CDになりました。

ぼくの詩は、

「小舟行」と「冬の池」です。

「小舟行」は、こんな詩です。


小舟行   萩原健次郎



小舟にのる
揺すられて
とおい岸に、まずきみの
身体が漂着している。

ぼくを漂わせれば
震えるでしょ

 「海をかんがえていた」
なんて嘘で

 どこかの市街地の、細い川を
すごいスピードで流されていただけで。

 「でもすぐに海にたどりつくでしょ」

小鳥のさえずりのような
舌を湿らせた言い訳は好きだよ。

ともに裏返る
というのも、互いの嘘で

きのうは、きみ
舟にはのらず
スクランブル交差点でただうつむいて
じっと立ち止まっていただろ

 「デパートの7階あたりにある時計を見ていた」

ひっぱって
紐でくくって
      小舟にごろり
転がしても
      微笑んでる
不思議に
溺れた

時計をはずして

誰にも
見られずに

真昼の水で
身体を膨らませて




心中の詩。こんな複雑な詩によく曲がついたと思う。


このCD「ほしのはだ」希望の方におわけします。
少しのカンパは頂戴します。
メールいただければ。








●「中の碑」の一部を抄録してみます。

2006年03月16日 10時38分41秒 | 詩作品

昨日書いた詩を、一部、抄録します。




フラトレス  (部分)



とおい縁があって永くしゃがんでいたから、もう四脚は
退嬰していって獣に戻っている。
遠吠えしている、大きな影の塊。
わたしの胎と誰かの胎の繋がりが、
抜けていく音(ね)。
旋律、光線の音が、月と堕ちる。
やみの夜(よ)の音(ね)の、不具。
片割れの、語彙のつながられかたの
小山のいただきに吹かれていた。

音(ね)は、糸(シ)にしばられ、括られ。
もげるだけにまかせて
水の泡、どこまで鉄道にのったの。

指は、兄妹ではないのか。




アルボス  (部分)


   背地へつねに背地へ、蔓の春寒
   人悔いて、しゃがみつつ脚、垂直に
      火を放たれた樹は、思いのほか低木で、
這うひとがたで

   まなこの朱、閉じ
燃え、さかる、さなかの森を水平に抜けていく

鎮火した地は、冷えて
ただ一本の樹が、緑葉に陽を照らしている。
さかしまの水平に、平行に

断続の、
断続の、


★エストニアの作曲家、アルヴォ・ペルトの音を織った詩を120行書いたら、無惨に。

2006年03月15日 20時57分00秒 | 


一ヶ月ぐらい、風邪をひいたり仕事がハードだったりで
さぼっていました。

その間、ずっとずっと、ブルックナーの音楽ばかり聴く。

ブルックナーの交響曲を
7番
8番
9番

そして
4番

いろんな演奏で。

それから、
3番
5番
6番

自宅、事務所、車
それからCDウォークマンまで買って
こればかり。

魔、まったく魔。

たまに、マーラー。
これは、普通の音楽。

そして、

1番
2番
0番
00番

まで、ブルックナーばかり。
脳が、平坦になって、逃げまどっている。



最近になって、

エストニアの現代音楽

アルヴォ・ペルト。

これは、音楽ではない。

詩集であり、死臭でもあり、おののく音楽。



きょう、紙子のために

120行の詩を書き上げる。

全編、ペルトの音楽、音を引用した。

いま、ひとりの事務所で読み上げて。

あっと、泣きました。
寂しくなった。



ギーゼキングの
ラベル「逝ける王女のためのパヴァーヌ」を聴く。
ついでに
サンソン・フランソワも。



ペルトの曲の題名

「フラトレス」兄妹
「アルボス」樹
「スンマ」総合

それと、「アルボス」でペルトが引用している

芭蕉の句、

「鐘消えて花の香は撞く夕べかな」

これらの言葉を120行の中に織り込む。

ぼくの詩の題は、『中の碑』。

ほんとに無惨で、寂しい詩になった。