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文屋

文にまつわるお話。詩・小説・エッセイ・俳句・コピーライティングまで。そして音楽や映画のことも。京都から発信。

■グールドの「ゴルトベルク」の音源を聴きながら書いた詩

2012年10月20日 20時53分48秒 | 詩作品
フッサールは、「伝統とは起源の忘却」と言ったという。
グレン・グールドの「ゴルトベルク変奏曲」の最初の録音を聴いていて
その録音の逸話を思い起こした。
ゴルトベルクは、最初のアリアを30の変奏で連ねていく。
連ねていった後に、冒頭のアリアに戻る。
そして、余情は、ふたたび30の変奏に戻されて
この音楽は、限りもなく反復されそうにも思えてしまう。
それが子守唄として創られた曲の構造なのだろう。
グールドは、この55年の録音のときに、まず
30の変奏を収録してから、あらためて冒頭のアリアを
弾き始めた、そしてそれに納得がいかず
21回も試行を繰り返したという。
この21回の時間を思う。グールドはどんな想像力をめぐらせ
それを捨てていったのか。
捨てられた時間を、ぼくはむしろ愛おしく感じる。

ずっと愛聴してきたグールドの「ゴルトベルク」。
この55年の音源を聴きながら、かつて書いた詩を
掲載します。



ゴルトベルク、
朝顔の骨を見つめて
身を抱えながら
                        萩原健次郎



眠りから覚めた鶴を起こすように、草花の滴から天へ裏返す。朝顔の人を抱
えて世の階下へと降りていく。世の下から天上へと、子供たちを集めてい
っしょに天上へと昇っていく。

          草花の想念は、
早朝起床したときには、おはよと言っていつも天に向かっているのに、夏
の朝は、天上から揺り起こされることもない。だから固まって拘束される。
屈曲された球の子になって、ひょいと軽く抱えられて、球となり抱えられ
ても、もう大人である草花は、蔓を天へ天へと昇らせる以Oに生きていく
方法を知らなかった。

                 丸々と球状の生を、
どこまで転がして、それから地に印をとどめていくのか。地の印は、あな
たが生を享けた印でもあるのに、垂直に、垂直に眠っていたそのときのお
やつを欲して戻らなければよかったのにね。七月という、朝顔の生きた時
間まで、ぼくはゆっくり待って共有の印を恋う。

ひとすじ、球から天空への骨の線を束で、
まるごと抱えて生きた地点まで親子のように、夏時間の坂を越えてゆこう
ね。子守唄、瞬間の昼寝のための、肉の、骨の球を思い出の椅子まで両腕
に抱えて、椅子ごとひとつになって同志くん、ヨハン・セバスチャンくん、
骨は骨を好きになり、種はただ、中空ののぞみへと垂直に去っていュ。

         鶴ごとの、草ごとの、蔓ごとの、椅子ごとの子守唄、
グールドの言う怠惰のことであれば、地面から天上の窮みまで何マイルで
行けたことになるの?少年は、球を彼方まで投げて、責任も負わず、ただ
骨に傷つけたというだけなのかい。合奏していた夏時間のその濃い果汁の
住処で、蜜まみれになったあなたの妹の部分を、蔓性に見立てて涼んでい
る。
一丁、一丁、銃も包丁も豆腐も。
そしてカイザーリンク伯爵も。七月の朝顔はいまだ花をつけず、ただひた
すらに天の寝床へ向かって蔓を伸ばしている。ぼくはそれを固定して少し
天の側へ反り返して、平面にして空の寝床と平行にしてから抱いた。

     骨、飲る。骨、降る里では、
夏だから堅くなった骨がいつまでも覚醒している。その色って、む・ら・
さ・きっていうのかい?自分の色名も知らない朝顔と、幼くして不眠症の
伯爵は、球の愛を祝福するだろう。伸びよ、びろびろと。その朝には、ど
こにも居なかった天使が湧き出して、ぶるぶるとエンジンつきのプロペラ
回して舞い降りる。お互い、好きだった季節の挿話を告白しあっても、そ
の朝の天使たちの粗末な衣装については、ふたりして内緒にしておこうね。
缶々に詰めて。でもね、やってこないよ。朝顔の蔓にとまる天使という名
の虫なんか。だから、グールドよ、バッハよ、そのときに

            つるつるした球状の天使のかたちをしようよ。
夏の時間の無限を測りながらころりと。塊となって、死んでたなんて素敵
じゃないか。間違いなく地上のできごとで、蔓が伸びたとしても、腰のあ
たりに、ふたつやみっつの花を咲かすよ。それならば、骨さがすゲームの
人になろうよ。眠っている間にこの夏は終わってしまい、朝轤フ骨の結実
だけが地に降るだろう。

                                眠
りから覚めた鶴を起こすように、草花の滴から天へ裏返す。朝顔の人を抱
えて世の階下へと降りていく。世の下から天上へと、子供たちを集めてい
っしょに天上へと昇っていく。

■マイルスの「オンザコーナー」にある、民族性。

2012年02月16日 12時31分49秒 | 詩作品
40年代、プエルトリコのコルティーホ楽団から、ボ・ディドリーと来て、マイルスの「オンザコーナー」までは、もうすぐそこです。めくるめくリズムのリフ、ブギ。そこにブラスもからみ、そのリフがちょっとずついびつに歪む。歪みつつも走らせる。ボ・ディドリーの映像の最後の部分で、リードの手を止めてこのリフだけになったとき、要するに、そこではリードを待ち受ける器の側だけが顕在化し、からむものの自由度が一気に増す。
このミニマムな凝固を、たとえば凝固だけにスポットを当てて、微細に静謐に解体させていけば、ミニマル・ミュージックになる。それから、「側」だけに頼って、むしろそれを冷淡に様式 (ファッション) 化させれば、クラフトワークなどの電子音楽になる。それからさらに、都会的に洗練された、ペラペラの側、つまりはとても自由度が増したそこにただ発話を重ねていけば、それがラップになるといったん言ってみる。

ちょっと前に、「1969年頃のマイルス・デイヴィス」のことを書いていたけど、その10年前の「カインド・オブ・ブルー」では、この凝固し様式化したリズムの「側」=「へた」を一旦排除して、いわば室内楽の「管楽合奏曲」のようなことをやった。それは、この時期のジャズにとっては画期的で芸術的な価値を高めた成果とも言える。それがどれだけジャズにとって画期的だったかというと、その後のビル・エヴァンスやコルトレーンなどの成果や指向をたどればよくわかる。たとえば、ビル・エヴァンスのそれ以前の音は、たとえば伴奏者としてとてもブルージーであった。とくに、ミンガスの「イーストコースティング」(57年)でのサポートとソロは、とてもダークな陰りをみせている。

そのころのもうひとつの流れとして、オーネット・コールマンが「フリーミュージック」(60年)を発表する。これは、当時やっと本格化してきたステレオ再生というテクノロジーとも関連があるが、右のスピーカーからはひとつの即興合奏を、また左のスピーカーからは別の即興合奏を同時に再生させる、混沌音楽だった。マイルスがブルースという普遍的な価値を芸術的に抽出したように、オーネットもまたまったく逆方向に、混沌の中から普遍的な無意識層の根を抽出した。そして、この60年代初めのころに、ジャズは、「側」をすっかり捨ててしまった。

それから10年後のマイルスは、どうしたか。ふたたび、ミニマルなリズムの「側」を見直した。それが「オンザコーナー」ではないかと考えた。きっとマイルス、テリー・ライリーの「ザ・ギフト」(63年)を聴いていたのかなあ。ここでズタズタと再生成されたチェット・ベーカーの「側のない音」はとても哀れで歪んだ、それでいて鮮烈な空間的な違和をもたらしている。
そこで、今一度「側」の「混沌」に着目したのではないか。それは言いかえれば「アフロな混沌」だったのでないかと。
ぼくは、ずっとこの「オンザコーナー」の魅力のとりこになってきた。でもそれがどういう音楽なのか、わからなかった。いまでもわかっていない。でもこれは、決してロックやファンクとの融和ではない。それは、しいて言えば、自らのアイデンティティへの融和、あるいは直流的回帰であったように思われる。民族的な言語を獲得した音楽といってもいいように思っている。

◆この秋のセンチメントよいつまでも続いてほしい。

2008年09月28日 21時27分54秒 | 詩作品

えっちらおっちらと休日なのに
事務所のAVアンプとCDプレーヤーを自宅に持ち帰った。
どうしても事務所の音環境が不満だったから
ヤフーオークションで、マランツのアンプを購入。
それで余った、デノンのアンプを持ち帰った。
このアンプ、29キロ。重かった。
それで、昼間ブックオフで買った
ゴンサロ・ルバルカバのCDをかける。
快調である。
ドラムは、いまのところ最も好きな、デニチェンこと
デニス・チェンバース。
キャラバンを聴く。

枕もとと言うか、手元にこの重たいアンプがやってきた。
めでたい。

で、中日巨人戦をラジオで聴く。
荒木、ホームラン。
快勝と言える。
中日球場最終戦。
落合監督が挨拶している。

阪神にマジック再点灯。

そこで、
秋の憂い。

メンデルスゾーンの交響曲3番をかける。
コンヴィチュニー指揮、ライプチヒ・ゲヴァントハウスO

この曲の初演をメンデルスゾーンの指揮でやった
オケですね。

秋の夜長が長いことの幸せよ。

ブックオフで買った「メルロ・ポンティ入門」を読みながら。

船木亨 という人の本。

「人間の身体は、内臓と骨格と筋肉が、異臭のある粘液によって絡み
あわされて、のたうちまわっている物体である。それにまた、そこに
一枚の薄皮がかぶさって、動植物の干からびた屍骸を、皮膚が見える
ように、あるいは見えないようにと微妙に纏いつけ、くねくね動いて
いる肉である。そのようなものこそ、われわれが他の身体に感じとっ
ている人間の他者性、つまり身近なだれかの背後に隠されている「お
ぞましさ」と「いろっぽさ」とである」

ああ、自然の多元。
無限という刹那と無情=恋情をよくもたやすく言い当てるものだ。

この秋の野球がらみのセンチメントよ、
いつまでも続いてほしい。




★『実録』酔夜のできごと、「春先の人ちがひ」。

2008年04月04日 12時12分09秒 | 詩作品
こんなこともあるんだなあ、という奇跡。
昨夜、ある集いがあって宴席に出た。
久しぶりに、寺町通りを二条から北へとぼとぼ。
「ずいぶんおしゃれになったなあ」というのが
寺町通りの印象。
20名ほどの集まりで、ぼくはほとんど一番のり。
靴を脱いであがるときに、玄関に靴を上げる板があった。
ぼくの靴は、マレルというブランドのバックスキン。
かかとの部分に、チェック柄のスリップがついている。
このマレルの靴は、とても気に入っていて
同じスタイルのものをもう一足もっている。
「ああ、この板に靴をあげるんだなあ」
「店の人があげてくれるんだろな」
ぐらいに思っていた。
いやあ、昨夜は、とてもニュアンスの似通った人たちばかりで
なんだか、なごんで、坩堝の底辺へ一気に至るほどに
皆が、濃厚にまとまった。
間接的に、知人の知人というような「うっすら友達ばかりの」
うち解けようだった。
偶然にも、ぼくの事務所のお向かいさんのFさんも来ていた。
いい気分で、未明手前で失礼した。
靴は案の定、というか、お店の方の行き届きのお陰で
板の上にあった。
タクシーに乗って、少しだけ違和感があった
座席で、なんどか、靴を脱いでは履き、また脱いでは履きと
やってみた。
「なんとなく小さいような、気のせいか」
で、朝、
「ちょっと違うような、いやあんな特長のある靴を履き違えないだろう」
と思いつつも、酔夜の明けの慣わしとして、地下鉄出勤。
念のために、一日履いて、違和感が納まらないようだと
お店に一応、この「違和感」を伝えておこうと、考えた。
そして、へんな違和感と喪失感と、ちょっとした幻覚のような
ニュアンスで、ボロディンの交響曲を聴きながら、悶々と。
「まあいいか、間違えたとしてもこれが世の中」
「そうそう、こんな感覚は」「内田百間的」と
やおら内田百間の「ノラや」をとりだしてきて
ちらちら。
はたして、そこでやおら郵便受けを見た。
そこには、綿密に描かれた、靴のイラスト入りの伝言があった。

「きのう靴が間違っていたということはないでしょうか」「?」と。

偶然に同席していた、お向かいのFさんと
0.5インチの齟齬であったのだ。

迂回して、もやもやとして、幻覚があり
まあ、きわめて文学的ですらある。一行、


きのう靴が
間違っていたということは
ないでしょうか


そうそう、靴が、履く人を間違えたということなんだ!

●平野神社は、なんだか不思議なところです。

2008年01月01日 17時26分46秒 | 詩作品


衣笠の平野神社にいってきました。
去年と、二年連続。
ここは、いくつかの特長があります。

1 駐車場が、並ばずに停められます。
 → 別に広いわけではない。10台ぐらい。

2 首にぶといしめ縄を巻いた、柴犬がいる。
 → あんなことされて、犬君は、まったく嫌がってもいない。

3 お札を売っているところで「平野神社のぎんなん」を売っている。
 → 商魂たくましい、というより、ほのぼの。40個程200円

で、これが一番の驚き。

4 普通に賽銭を投げて、手を合わせるだけだが、全員並んで順番に
  参拝する。   一人ずつ、あるいは二人ずつ。

→ これが不思議といらいらしない。30組ぐらい待ったけど。

■西本智美指揮の京響コンサートへ行った。

2007年04月25日 16時55分34秒 | 詩作品

きのうは、西本智美指揮、京響のコンサートへ行った。
クラシックのライブは久しぶり。
コンサートのチケットは、京都市美術館の「エルミタージュ展」を
兼ねていて、絵も観た。

ヴラマンク

ベルナルド・ベロット

アヘンバッハという人の「ナポリ湾の花火」

この三点がよかった。

音楽の出し物も連動していて、ムソルグスキーの「展覧会の絵」。
チャイコフスキーの「ヴァイオリン協奏曲」「1812」、
アンコールに「花のワルツ」。

アンコールがとてもよかった。


★久しぶりにリーディングをやります。

2007年04月17日 10時25分13秒 | 詩作品


ひさしぶりに、詩のリーディングをします。



2007年04月21日(土) 時間 17:30(270分間)

会場 古書と茶房 ことばのはおと

京都府京都市上京区油小路通下長者町下ル大黒屋町34(map)
市営地下鉄・丸太町駅/今出川駅下車徒歩約20分/市バス・(JR京都駅より9号または50号系統で約25分)堀川下長者町バス停下車約3分

地下鉄丸太町駅から丸太町通りを西へ。油小路通りで北へ上がって
下長者町通りの手前です。


料金 (1ドリンクオーダー+チップ制)

問い合わせ 言鳴-ことなり-(代表・窪ワタル) (robo_wataru@yahoo.co.jp)

詳細 京町家朗読会・言鳴-ことなり-もお蔭様をもちまして、めでたく一周年を迎えさせて頂くことができました。
そこで、皆様方への感謝を込めて、記念ライブを開催させて頂きます。

普段のオープンマイク形式の朗読会とはまた一味違った詩の宴をお楽しみ下さい。

なお、今回は、初の試みとして、定額の入場料は頂戴致しません。
御代は観てのおかえりとさせて頂きます。
1ドリンクオーダーでお楽しみ頂き、お帰りの際、お客様お一人、お一人がお楽しみ頂けた分だけ、御代として頂戴致したく存じます。

【開場】17:00
【開演】17:30
【終演】22:00

【出演】

第一部

杏さだ子
池上宣久
岡室美千代


第二部

小笠原淳
鈴川夕伽莉
chori

第三部

萩原健次郎


ぼくの持ち時間は、なんと、40分。
ながーい。

久しぶりに、一冊朗読するかも。

●伊藤若沖(にすい)の「蓮池図」を以前に見て、いくつかの詩作品を書いた。

2006年08月29日 20時53分47秒 | 詩作品


空池
             

艶書を残して
空に描いて、
固まる沼の、
蓮の穴、
穴の空、
空の扉、
亀裂の鮮明なブリキの玩具
さらに底へ、底へと。

息苦しさへ帰っていける
まだ、帰っていける。

空池、
満水の、冬の池。
地上、地下、地中へと、
池のあることの
存する意を散らしている。
四方へと、円周に裂けて
もっとたくさんの穴を生かして
水を地に降らしている。

青物が生きていた、それを青、、、と書きかけて、

秘めたる草いろを想え
なお、想え
死して想え

蔭から密に群れる青物の蔭
なお、想え
キャベツ、ピーマン、キューリ
紫蘇の蔭。

   ここでいい葬るときは冬の池



おののきながら過ぎ去るのは、未来である。来者である。ぱらぱらと、次の時間から米粒を投げるな、投げるな、顔に当たるから。
咲いた方向から香る花の蜜は、蜜の粒子は、尖って顔に当たるから。
繁茂する次の時間の濃さが攻めて考えていたから、後方へ逃げる道をつくっておいて、詩吟する。

旧い歌をうたう人と
新しい歌をうたう人が争う
争う声が消えていく。
消えてまた、ともる。
点滅する声
新旧の郷へと遠い視線をのばす。

青物が生きていた、それを青春と大書しながら
長々とつづった恋文でぐるぐる巻きにして
それから池の芯に投げ入れる。
水鳥がついばむ

蓮根のすみずみに空がしみて
穴は、まだ無数に増殖していく。



苦吟、こげな。
丘の上から見えた湾、
近世の、こげな。

全身が凍てる。かたまりの身の
熱を終って、蔵って
身の倉へ。

来世から渡ってきた
身の鳥の、
嘴が合口の、
尖から裂ける

凍てる池も、身も
こなごなに割れる。



機械じかけの午後からは
時計の鳴る音が波のように押し寄せてくる。

消音のスイッチは、赤。
前進のスイッチは、白。
後退のスイッチは、黄。

デジタルの明滅する
脳力が試される。
子供たちはみな、包丁を持って立っている。



絶対静止画像を夢想したり
永久動画を画策したり
MDウォークマンを、器官の中、耳の奥に
埋め込んで
機械じかけの悲哀製造機は、
パチパチとショートしながら
数句の俳句を生み出している。



犬を青物の生きた記憶の沼で溺れさせる。

猫を焼いた、唐辛子の池で固める。

空はまだ、穴だらけで
まばたきが、等しく無数の穴を抜けて

獣たちの鳴き声だけが
生きた池で泳いでいる。






冬の池  若沖に。 
           


こんなに寒いのに、どうしていつ
まで、池の中にいてるの。
見えない明日が、見えてきたら怖
いでしょ。だから?
凍える人と凍える人が抱きあって
も温かくならない。
水面を渡って、その先まで、覗い
てきてみてよ。そして教えて。
水語をやめて、古代の象形文字を
指でなぞる勇気をもって。

憂いを食す、魚みたいに。

あなたに温かな、身体が戻ってき
たら、肘も膝も腰も首も折って、
ぼくは、抱きしめる。







液晶画



雨がつづいて
闇に朽ちていく

直線が
急に曲がる。
暴れている、空気。

水のない日がつづいたり
水ばかりの日がつづいたり

堅い木なら、折れる。
乾いた音で。

花実、
上等の熟れた。
それを抱えて持ってきたのは
絵の中の、烈しい線の中を
走っている、女だった。

縮緬のやわな裾が折れ、
貼り絵にされる魂魄も。
雨宿りできないでいる。

雨に流されるのなら、
それも佳境であろうと
朽ちた、僧が謳う。

これも明滅する、絵で
釦で死ぬ。

無意味に織られる
遠いところから伝えられた
電信の墨文字

幼児の半身が斬られる
人など、簡単に分離する
そこに重ねられた
ルンバも掠れる。

墨を擦る音
墨を練る音



墨を、掻く音。

人が人を舐める音。

果物の破裂。

三輪車の横転。

寂しい芝居は、観客の泣き声によって
消される。
遠足、
鸚鵡に餌を与える。

明日からは、水の日。
腰まで、泥に浸ってそれで
走っていく。
明日からは、晴れの日。
石粒の風に向かって
走っていく。
喉が涸れて、喉から崩れていく。

あなたもきのう、
グラビアのアイドルを食べていました。

●阿部薫の痛いサックス。ジャズや世界などという地誌を超えた唄かもしれない。71年だったんだ。

2006年07月13日 19時10分08秒 | 詩作品



久しぶりに阿部薫のアルトサックスで
「アカシアの雨が止むとき」を聴く。
時代。真っ暗。
1971年のアルバム。
世に出たのは、ユリイカやカイエ誌のエディターだった
小野好恵の力があってか。
まあ、世に出るつもりも彼にはなかっただろう。

3年前に、雑誌「詩学」に寄稿した僕の詩、
『極端な時代の建物について』は、この阿部のアルバムを
聴きながら、音が鳴っている時間内に一気に
自動筆記で書いた。まだ未刊行の作品。



極端な時代の建物について。    萩原健次郎



極端な時代に組み立てられた小屋の材について頭を抱えながら身を
ちぎって考えている。中にこごまって、わたしは、ただ角ばった地
と壁と、天井と、そのあらゆる隙間から漏れ見える外界をのぞみな
がらも、極端な青空にうんざりしている。

わたしの木の鋳型は、速度を落としている。ゆるやかにわたしの悲
器が、眼とともに隙間から飛び出して、ちいさく呻吟している。喉
を切る、木の節からうなり声を挙げる幼女をかかえてその声と、極
端な青空の色彩を混ぜている。

穴に向かうという、小動物の尻尾をつかみ、白濁の岸を拝む。隙間
からは、極端な世界が、細部にわたってくっきり見える。自分は、
何物かから、あるいは何者かから救い出されたいと願っているよう
ではあるが、この完璧な立方の中に身を縛ってただただ凝っとして
いることを好んでいるのでもあった。

青空と交換するなけなしの銅貨を、ひたすら布袋の中に手を入れて
磨いている。それを責める鳥たちが集まってきては、枠の隙間に嘴
を刺してくる。わたしの内臓や器官もまた、極端に肌理をこまやか
にし、艶を帯びている。
観葉種の、薬剤を採る葉の脈をながめていたり、さすってみたり、
外の通りの路面との感触の違いを確かめている。

身体の内から何かを取り出して売るとしたら、さて何を路面に出す
か、精神のかけらも塵ももはや枯れていることに気づき、ただ大量
の水を出して商いをする。
極端な時代の建物とは、身体の木の鎧のような枠かもしれない。内
と外の、極端さに飽きて、吊り物の鐘をぶらりぶらりと揺らして内
と外の境のない錯乱に耐えている。

乾燥しきった、ひとがたの木造建築物を見て通る人々もたくさんい
る。極端な眼で、極端な言葉で、ただ飽きもせずに笑っている。穴
や隙間の、優しい音楽も、彼らの口からは、乾いて凝固する。

              ●

わたしを縛る紐は、布でもなく樹脂でもなく、それもまた、木であ
った。極端すぎる枷の、わたしは知っている、その紐のことを。わ
たしは知っている紐のことを、わたしは誰にも言わない。

              ●

内の熱帯や外の干ばつや霊歌の旋律を膝をかかえているときに生唾
を飲むように懐かしむ。母のゆるやかな思考。妹の失策もまた、坂
をゆるやかに滑っていく。どこかの極端を嫌い、空を飛ぶように、
炭酸飲料を飲む。
枠の中でも、枷の中でもわたしは、生きている。乾ききった、極端
の果てでも、木に棲む、寄生種、ハナカミキリの細い脚を心配して
いる。

人の矩形の、極端な感性を祝い、乾杯する大きな歓声にも同調して、
甘い乳を枠の隙間から絞り出す。凝っとしている最速のかなしみの
ことなど、他人に拝まれてはじめて、報われる。

青空が割れていく。隙間の乳色の、ゆるやかなこと。ゆっくりと溶
け出す恋のゆるやかなこと。極端な時代の極端ではない想いの伝達。
電流のながれていく無限などを、地上の海の宙に、這わせている。
祈らないこと。外の刺などに。外套の糸屑などにからまれて、ゆる
やかにまっとうに熱を下げる。

極端に人を想うことを避けて、たとえば、野の平準へ帰る。伝道の
穂先にたたずむ、同じ木の枷の人たち。乳を持っていってそれから
みんなで恵みを授かるだろう。不確かな、水も捨てて平準な眠りま
で。路面の平らな眠りまで。

               ●

極端な時代の建物は、鈍重に階数を下げる。湿潤を嫌い、人を傷つ
ける人になり、完全なひとがたの塔となり、低空に座してそれから、
青空とも対比せず、青空を透かしている。乳や水を窓とという窓か
ら垂らし、流している。
なにもできあがらない、組むことのない地面に斑な身のかけらを残
して砂を盛っていく。不確かな結果の歓びに震えて、それから黙っ
て歓声を挙げて、極端ではないちいさな説話を持ち寄って、みなで
縛られよう。






●「中の碑」の一部を抄録してみます。

2006年03月16日 10時38分41秒 | 詩作品

昨日書いた詩を、一部、抄録します。




フラトレス  (部分)



とおい縁があって永くしゃがんでいたから、もう四脚は
退嬰していって獣に戻っている。
遠吠えしている、大きな影の塊。
わたしの胎と誰かの胎の繋がりが、
抜けていく音(ね)。
旋律、光線の音が、月と堕ちる。
やみの夜(よ)の音(ね)の、不具。
片割れの、語彙のつながられかたの
小山のいただきに吹かれていた。

音(ね)は、糸(シ)にしばられ、括られ。
もげるだけにまかせて
水の泡、どこまで鉄道にのったの。

指は、兄妹ではないのか。




アルボス  (部分)


   背地へつねに背地へ、蔓の春寒
   人悔いて、しゃがみつつ脚、垂直に
      火を放たれた樹は、思いのほか低木で、
這うひとがたで

   まなこの朱、閉じ
燃え、さかる、さなかの森を水平に抜けていく

鎮火した地は、冷えて
ただ一本の樹が、緑葉に陽を照らしている。
さかしまの水平に、平行に

断続の、
断続の、