現代詩は歌にならないということは、自由詩が非定型だからだと思う。
リズムに合わない。旋律を意識しないということがある。
現代詩を書く者は、たとえばリフレインなどを嫌う。
そもそも歌になることで、大衆化をめざすわけだから
あまりに朧気なテーマならば、大衆の心情すらつかめない。
そもそもつかもうともしない。むしろ、マイナーをめざしたりする。
旋律をあまり意識しない、リズムだけで語る
リーディングのような音楽もある。
ルー・リードやジョニー・ロットン、ジム・モリソンなどは
ロックと詩の境界で、いくつかの作品を残している。
ボブ・ディランなども少しだけ近しい。
一時期の井上陽水の、たとえば
「氷の世界」「傘がない」などは、現代詩に近いような
言葉の屈折があった。その屈折自体は、マイナーなんだけど
内容は、大衆の心情にも親近感があった。
それは、心情というよりも身体的な感受の真実味みたいなもの。
「痛い」とか「惨め」とか、「うるさい」とか。
そういうものであれば、マイナーな屈折語法であっても
「わかるわかる」というレベルで大衆に浸透した。
リーディングといういまの詩の現象も、多くはこの
「わかるわかる」という身体的な親近感で、うけたりするけれど
本質的に詩がうけたわけでもなんでもない。
だからパフォーマティブな側面だけが浮き出される。
そこは、なんだか、書かれた詩と、演られた詩は違う。
しかしね、ジム・モリソンのリーディングは、いい。
そんなこんなをもう少し考えたい。
-----------つづかせようかな
リズムに合わない。旋律を意識しないということがある。
現代詩を書く者は、たとえばリフレインなどを嫌う。
そもそも歌になることで、大衆化をめざすわけだから
あまりに朧気なテーマならば、大衆の心情すらつかめない。
そもそもつかもうともしない。むしろ、マイナーをめざしたりする。
旋律をあまり意識しない、リズムだけで語る
リーディングのような音楽もある。
ルー・リードやジョニー・ロットン、ジム・モリソンなどは
ロックと詩の境界で、いくつかの作品を残している。
ボブ・ディランなども少しだけ近しい。
一時期の井上陽水の、たとえば
「氷の世界」「傘がない」などは、現代詩に近いような
言葉の屈折があった。その屈折自体は、マイナーなんだけど
内容は、大衆の心情にも親近感があった。
それは、心情というよりも身体的な感受の真実味みたいなもの。
「痛い」とか「惨め」とか、「うるさい」とか。
そういうものであれば、マイナーな屈折語法であっても
「わかるわかる」というレベルで大衆に浸透した。
リーディングといういまの詩の現象も、多くはこの
「わかるわかる」という身体的な親近感で、うけたりするけれど
本質的に詩がうけたわけでもなんでもない。
だからパフォーマティブな側面だけが浮き出される。
そこは、なんだか、書かれた詩と、演られた詩は違う。
しかしね、ジム・モリソンのリーディングは、いい。
そんなこんなをもう少し考えたい。
-----------つづかせようかな
私はそんなに詩を勉強してるわけじゃないので、あまり詳しくないんですが。
陽水の偉大さって、きわめて個人的な感覚を大衆文化にすりかえられるところかなあと
思っています。
また遊びに来てくださいね。