文屋

文にまつわるお話。詩・小説・エッセイ・俳句・コピーライティングまで。そして音楽や映画のことも。京都から発信。

■ひきつづいて、詩の流通やら作品の強度について考える。

2008年03月30日 12時35分57秒 | 日録雑感
たとえば100人のうち、30人の読者に伝わる詩もあれば
500人読んでも、誰一人として伝わることのない詩もある。
その場合、メジャーやマイナーという尺度は、
マーケットが付するだけのことで、作品や作者にとっては
そんな尺度はない。
詩を書き、詩を読み始めると、あるいは詩の世界にふれ
その世界に入りだすと、さまざまな詩作品と出会う。
その場合、一読したときに嫌悪を感じ、退屈だなあと感じても
数年をへて、読みなおしたときに、その深さに驚くときがある。
逆に前衛だと感じていた詩が、のちに、後衛だと思うこともある。
長い歴史の中で、いろんなところで
いろんな詩が書かれている。
同人誌活動では、同人会などで、同人という他人の詩を読む。
語り合うわけだから、深く読む。
メジャーやマイナーなどという、誰が決めたのかわからないような
尺度に頼ることなく、自分の「作品の強度」を試す。
また、他人の「作品の強度」を知る。
詩誌を他人に送り、反響をいただくというのも、
「作品の強度」を試し、知ることだと思う。
詩を書くこと、詩を読むこと、はじめは自らの作品に向けられていたのが
しだいに、他人の詩にむけられる。
同人の作品に向けられていた視線が、さらに詩史上の著名な詩人の作品
詩史からははぐれているが、すぐれた無名の詩人の作品にも
向けられる。
「作品の強度」、それはあくまでも「自らの強度」という政治的なものではなく
純粋に彼方に架けられる望みなんだけど、
その強度のために、詩以外の思想書や小説や随筆や漫画や映画や音楽などにも
貪欲に食指をのばす。
そうして、他人と出会う。
実際にリアルに会って、酒をのみ、たまにはからんで敵対もする。
いとおしさで、愛情を感じることもある。
そうしたことが、すべて善ではないが、文学体験ということだと
思う。
詩学社という詩のメディアが昨年、廃業した。
「詩学」という詩の雑誌媒体は、こうした、文学体験を交差させるだけの
媒体性を一時はもっていたように思われる。
100人のうち、30人の読者に伝わる詩も、
500人読んでも、誰一人として伝わることのない詩も
「作品の強度」という視点をもって、問題作を掲載していた。
ぼくも、詩学という媒体に掲載された作品に
憧れを抱いていた頃がある。
詩は、消費されるものではない。閲覧されるものでもない。
詩は、その強度を体験するものであり
生きる上での、かけがえのない「いのちの強度」にも寄与するものなのだ
だからこそ、1000円も2000円も3000円もする本を買ってきた。
ふたたび言うが、それは善とは言わない。時には必要悪であるかもしれない。
同人誌で、ガムテープを貼り、郵便局へ大きな荷物をもっていき
印刷屋の人と金のことで、ねぎり、同人会の出欠をとり
まだ振り込まれない同人費の心配もする。
それは、ただ必要悪であるだけなのか。
すくなくとも、詩が「消費され」「閲覧される」だけのものではない
「試され」「示される」「強度」であることを確認するための
仕事であることを意識するためのなにかなのだろう。
「作品の強度」は、「声の強度」や「演技の強度」ではない。
声や演技の技術は、作品の強度のための付随する近接メディアの
助けであり、当該のファクターではない。
それなのに、たとえば朗読をして、私にかえってくる批評は
「迫力ありました」「いい声ですね」など、朗読の巧拙の批評だったりする。
朗読会もまた、自分の「作品の強度」を試す。
また、他人の「作品の強度」を知る。そのための機会でもあるのに。

つづきはまた。

■旧態の詩の流通というもので守られることなど

2008年03月30日 01時41分12秒 | 日録雑感

結局、とても固有の限られた時間と空間の中で
ひそかに、かすかに書かれそれが
同じく、ひそかに、かすかに流通していくような
旧態とした、詩の流通形態も
ぼくは、確固として守られてほしいという
願望があるのかもしれない。
WEB環境と、リーディングイベントの
流通の正義に似た、何かの波に
とても、嫌な違和を感じてしまう。
そういうことをつぶやいているかもしれない。


■詩を書くことは、とても刹那で迂遠な袋小路のけなげさかもな。

2008年03月30日 00時16分39秒 | 日録雑感

なんでこんなこと書いているんだろう。
ぼくは、紙に詩の行が
一行一行あらわれて
それが、ちいさな薄い本になって

その間にいろんな煩雑な雑務をやって
郵便で送って、
いろんな、「けなげさ」が大好きだ。
そうやって、そんなこと好きになつているんだろうな。
詩のリーディングって
ぼくも、よくやっているほうだと思うけど
いつもいつもずっと違和感を感じていて
これは、「けなげ」やないねえ。
と思っている。

紙の媒体で、あんなにもしんどくはかない作業を
へて、読者や読者の反応は
当然のごとく、はかなくて
弱弱しく、薄くて
その当然のごとくが、よく自分に沁みていて
言葉を書いて、それを伝え、感応を得ることは
そこに大事なかけがえなさがあると
思っている。

けなげさ、あやふやさ、薄さ、弱弱しさというのは、
かすかな読者への距離感だろうな。
距離感があるからこそ
書かれたものは、どこかで、中空を迂回して
袋小路を行ったり来たりするわけで
この行ったり来たり、迷ったり
消えかかったりということを
信じているのだろうな。

この中空に投げ出された
迂回のほのかな点滅のような時間を
リーディングの空間でも
いっぱいみんな感応できたらいいなとも思う。
でも、肝心の距離感をあらかじめ閉じて
とってもふつうの出し物みたいな現実にしてしまったら
「けなげさ」までも
ぼくらは、捨ててしまいそうで嫌だ。

この世の中、潔くけなげなことって
まだあると信じたいし、そうしていたいね。

詩の同人誌って、まだ
なにかいっぱい、ぼくは感じなくてはいけないことが
あるような気がする。
リーディングでも、朗読は聴いてくれてはいるけれど
もちろん、けなげさもはかなさも
伝わらないと思うし、
ほんとうに、「読み」の共有が生まれるのかなあと
疑問を抱く。

だれかの詩に感応することって
すごく刹那でもあるし、とほうもなく
長い時を要すると思うし、
嫌悪感を抱くことのほうが多い。
リーディングの空間でも
なぜだか、理屈で理解できないけど
読む側も、すごく嫌悪感を抱くときがあるし
聴いている側も当然そんなときがあるだろう。

それが詩の、ほんとうのことだと思う。

そのことに自然なスタンスをとっていたい。


■詩のリーディングについてのちょっとした思いと自白。

2008年03月29日 21時23分46秒 | 日録雑感

ぼくは、詩を執拗に推敲したりはしない。
冒頭の1、2行の言葉が浮かんだら
パソコンを使って一気に80行ほどを書く。
ぼくは、詩をほとんど、キーボードでしか書いたことがない。
もちろん、道を歩いていて詩行が浮かんだときなどは、
喫茶店に入って、店の人にボールペンなどを借りて
なにかの紙に一気に書くこともある。
仕事上だが、ワープロを買ったのは、まだ70年代だったかもしれない。
コピー機のレンタルとだきあわせかなにかで
280万円ぐらいの価格だったように記憶している。
5インチぐらいの紙みたいなディスクを使っていた。
ぼくは、詩を書く姿を、あまり他人に見られたくない。
ぞっとする。
詩を書いている自分の姿を他人に見られることを。
ただ、まったく知らない人になら、見られても
いいかもしれない。
自分の詩を他人に、披歴することは、とても
寂しい、悲しいことだと思っている。
自分の詩は、他人とはなんら関係のない
かかわりのまったくないことだから。
だから、リーディングをすることは、ちょっと異常な
恥ずかしさにつつまれる。
その気持ちをぼくは、誤魔化したりしたくない。
恥ずかしいことにきまっている。
極地だし、果てだし
辺境だし、追い詰められてぎりぎりだし。
自分だけの固有の時間と場所だし。
そんなもの「共有できるわけがない」と思う。
細さを信じたい。
あやかさ、あやうさ、異様さを忘れたくない。
ぼくは、リーディングでの読み方の技術など
蔑みたい。それこそ、希釈であり
それこそ欺瞞の正体だから。
また、それをいやがおうにも求められ強制されるような
リーディングのシチュエーションは嫌いだ。
純粋な「恥」が誤魔化されて、
堂々たる、声に替えられてしまうから。
たまに、詩のリーディングのときに
テキストを持たずに、暗記で読む人がいるが
どうなんだろう。
あんなことしたら、恥が失われる。
暗記という技術が介在するし、演技の披歴に
すりかわる。ぞっとするほど、
それを見る自分が、恥ずかしい。

ちょっと思いついたので、メモのつもりで。





■紙子15号、伊東静雄論の8回目、そして外は、雨、雨、雨ダス。

2008年03月14日 18時42分46秒 | 日録雑感

詩誌「紙子」15号は、いま校正段階。
4月の初め頃には、できあがってきます。

ぼくは、作品『外地』を書いた。

連作「双児の艸」シリーズ。

ぼくが書いている一照の地にある双児の艸。
それをぼくは写真に撮ったのだが
それは、私の「生の外地」のことなのかなあ
といった詩。

それから編集工房ノアのPR誌「海鳴り」に
連載中の『伊東静雄論』の8回目分を書き上げて
原稿を送付。

今回は、伊東の「朝顔」の詩3篇を引用しながら
伊東における
「擬我」「喩的身体」など
造語をからめて
彼の詩の両地平としての、彼岸と此岸についてなど
頭、ぎゅんぎゅん抱え悩みつつ書く。

この間、

杉本秀太郎や長野隆の著作とともに
なぜか
上田閑照「実存と虚存」ちくま学芸文庫
    「言葉」岩波現代文庫
山口昌男「文化と両義性」岩波

なども読む。

詩は、身体的、時間的には「錯誤」や「無」であり
唯一、空間的には、「虚無や錯誤」の結路として成る。

錯綜した、多次元の現/実存と
混沌錯乱した、詩作品の虚/存のはざまには
場所しかない。
身体や時間は、滅するが、場所(空間)は滅びない
のではないかと

思いながら昨夜、睡眠していたら
その理屈が「夢」にでてきて
夜中の3時に、目が覚める。

メモをとろうかと考えたが、
そうしたら眠れなくなりそうなので

とにかくテレビをつけた。

どのチャンネルも、天気予報ばかりで

雨、雨、雨、、、、、だと。






聴いている音楽、

一時は、ブルックナー、脱出を試みて
シューマン、シューベルト、マーラーとたどるが
またまた、ブルックナー。

とくに、3番と6番。
最近よく聴くのは、ウィリアム・スタインバーグという
マイナーな指揮者。

それからいまかけているのが

「レディオヘッド」のトム・ヨークが好んで聴いている
という、

ペンデレツキの「チェロ協奏曲」。
まったくもって、頭、ぐちゃぐちゃにびしょびしょに
なる音。

ああ、ロック聴きたい(聴けばいいのにね)
それから、トム・ヨークって、マガジンやREM
好きなんだよね。

ぼくも、一時期、
バズコックスやマガジン
それからマイケル・スタイプ
トム・ヴァーレーンなんかばっかり聴いていた。

ああ、ロックなジャズの世界に戻りたい。

この前、バーゲンで

チャーリー・シェイバースとレイ・ブライアントのコンボ盤が
NO1から3まであって、すべて購入。
60年代の音源なのに、まんま中間派の音で
癒されます。



で、トム・ヨークって
ほんまにペンデレツキ、聴いてるんかいな。

それにしても、このチェロコン
美しい悪夢です。