文屋

文にまつわるお話。詩・小説・エッセイ・俳句・コピーライティングまで。そして音楽や映画のことも。京都から発信。

★「パッチギ」、エビちゃん、白夜行と栃東と、シュターツカペレ・ドレスデンな一日。

2006年01月22日 23時31分20秒 | 日録雑感




哲学書なんて読んでいて、早々にお手上げとなってしまって
それで、テレビドラマの「白夜行」を見て、
木目のこまやかな演出に感心して、それからストーリーが
気になって、原作を読みはじめる。
この作者、なんとなく大阪出身で、「出」が似ているようで
下町の空気をよく知っている。
それと、時代感覚もよく知っている、あるいは、沁みている。
時々挿入される野球などの風俗ネタやゲームの情報が
気分を増幅させている。
犯罪が風景になっているというような。



この前、四条の西大路、西院の交差点で
ほほ笑む女性にショックを受けた。
といっても実際の人間ではなくて、マクドナルドの
ディスプレイ。
等身大の女性モデルが、ずっと気になっていた。
知り合いにそのモデルの名を聞いても、知らないという。
あれだけ、メジャーでポピュラーな姿で、オーラぷんぷんなのに
その名が知られていない。

そんなもんかと思っていた。

いまテレビを見ていたらその人の特集をしていた。
名は、蝦原友里というそうな。

時代をつくる人だと思う。
強力なパワー。
商業的パワー。



きのう、「パッチギ」を見た。
まあ、京都の映画。
それにしても、京都、60年代からいまも
変わっていないロケーションがこんなにもあるなんて。
これは、絶句。
60年代後半の設定でロケしているんだろうけど
ほとんど、ふだん歩いている、よく知っている
今の京都。
「丸二食堂」の看板なんて、そのまま。

ああ、古都なんだとびっくり、なっとく。

映画「パッチギ」、
主役の役者、線があまりにも細い。

笹野高史(在日朝鮮人の長老役)、一世一代の名演だよ。
というよりも、あれぐらいは、おちゃのこさいさいかもしれない。

女番長役の真木よう子もいい。
彼女は、「無名塾」出身で、「ヴェロニカは死ぬことにした」
に主演している。

他に、役者名確認しなかったけど、看護婦役の役者、恐るべし。

それにしても、
あの時代の京都の
「墳」や「飢餓」といったヒップな店の名を
映画の中に入って布置したくなった。

ああ、ジャズの「カルコ20」なんかも。



チャーリー・パーカー聴いて
またまたジャズに戻りそうだけど

シュターツカペレ・ドレスデン

という楽団の音に惹かれっ放し。

たまたまずっと持ってたジェフリー・テイト指揮の
「ベートーベンの7番」を聴いてその音の波に酔う。

で、振り返ってみれば

ヘルベルト・ブロムシュテット
オイゲン・ヨッフム
オットマール・スイトナーなど

みな、シュターツカペレ・ドレスデンの音。




■チャーリー・パーカーを聴いていれば、それがほぼジャズや音楽のすべてかもしれないと思ってしまう。

2006年01月19日 20時15分54秒 | 音楽


チャーリー・パーカーの10枚組を買ってしまった。
多分、半分の5枚分以上はダブッてすでに持っていると思う。
10枚で、1460円なのだから、それもしょうがない。
ただ別テイクなどが入ってないので、180曲ぐらい
パーカーばかり聴きつづけることができる。

箱の中には、曲目以外のデータはなにも入っていない。

だいたい調べたら

●ダイアル盤
●サヴォイ盤
●ヴァーヴ盤
●JATP盤

みな元々は、正規に出ている盤のオムニバス。

ストリングス盤
マチート楽団との共演盤も入っている。

基本的に、めちゃくちゃなオムニバス(満員の乗り合いバスだが)。

でも、音は、素晴らしい。



サイドメンのうち、セロニアス・モンクのピアノの音がクリアで
もう、このころから、モンクそのものなんだけど、
ちょっと、バッド・パウエルのようなニュアンスがある。
意外だった。

「Bird & Diz」なんか、30年ぶりぐらいで
聴き直したけれど、ジャズって、パーカーを聴くだけで
いいのかもしれない。

これを3、4時間聴いても、あきれるほど「モダン」。
刺すほどに洗練されていて、
まあ、クスリの力があったとしても、ガラスのナイフの感性。



マチート楽団がいい。

前に、マチート楽団の箱物も買ったけど
あの中で数曲共演している、ハリー・ベラフォンテは、ほんとに
凄い歌唱。ハリー・ベラフォンテこそ、史上一の歌い手なのではないかと
思ってしまう。



パーカーは、短期間の間にいろいろなことをやっている。

■マチートなどのキューバの楽団との共演
■小コンボでのソリストの尊重。
■10代のマイルス・デヴィスを起用。
■JATPのノーマン・グランツの仕込みによる商業公演。
■プラスチックサックスの使用
■ストリングスとの共演

それから

■飽くなき、麻薬との関係


この10枚には、すべて詰まっている。

・バラードの抑揚、歌い方(サックスの)
・大きな音量
・信頼するサイドメンのからませ方
・曲に対する尊敬
・批評家への無視線

さまざまな、ヒップさ加減が、漂っている。




●ちんぷんかんぷんの哲学書。「紙子」という詩誌があることの幸福を感じて叡山電鉄に乗る。

2006年01月15日 23時58分43秒 | 日録雑感


きのうは、飲んでしまったので
日曜日、車をとりにゆっくり街中へ。
好きな中華料理店で、時間をかけて昼ごはん。
多分、日本一高い運賃の叡山電鉄に乗って。
この電車に乗る感覚は好きだ。

電車がついてもホームでぼおーっとしている女のコに
運転手が
「乗るの?」と大声で聞いている。
それで発車するのを待っている。
市電のような感じ。

昨日は、「紙子」の合評会。
こじんまりしているが内容は、濃厚。
およそ3時間、みっちり一人一人の作品を
批評しあう。
黙っている人はいない。

誰もが発言することが普通になってきている。

つくづく思うんだけど、紙子が関西を拠点にしていることを
ぼくはうれしく幸いに思う。



スラヴォイ・ジジェクという人の書いた哲学書。
勇んで読むなどと言ってはみたものの
きょう、10%ほど読んではみたものの
さっぱりわからない。

カントやヘーゲルが言われても素養がないだけに
歯が立たない。

それでも、小見出しだけは、魅惑的で
ところどころで引用されている
いくつかの映画が、とくに多いのが「ブレードランナー」だが、
楽しげなので、もう少し読み挑んでみよう。


●アメリカン・ロックやジャズよりも、スロヴェニアの哲学者ジジェクの本が面白そう。

2006年01月13日 23時16分32秒 | 音楽




北白川の丸山書店のバーゲンで
なんとなく買ってしまったのは次の3枚のCD
●ジュニア・ウェルズの「テラーク」レーベルのベスト
これは、前々から興味のあった、スティールギターの
サニー・ランドレスが参加しているので買った。

ぼくは、ライ・クーダーやジョン・ハイアットなどが好きで
ロックでは、ジョンの「リップスティック・サンセット」が
大好きで、彼らの仲間、デヴィド・リンドレイやザ・バンドの流れから
くる、アメリカン・ロックが好き。
CCR、なんかの流れからのREM、リプレイスメンツ
テレビジョン、レッチリなんかも。
デヴォラ・ハリーも大好き。イギー・ポップやニコや
ローリーアンダーソンも。

もちろん、プレスリーがベストかもしれないし、
それ以前は、延々と、ジャイブやジャンプミュージックまで行って

もっとも好きなのは、ナットキングコールのジャイブの頃が最高。
ウィリー・ディクソンスリーや
エイモス・ミルバーンなどのブルースなども。

ジュニア・ウェルズ、老いてました。ノリどころではない。
でもいいなあ。ゲストにカルロス・サンタナ。

●二枚目、日野皓正の
「アローン、アローン・アンド・アローン」。タクト盤。彼のデビューアルバム。
新品430円だったから買ったけど。
いまさらながら、69年頃の日本のジャズの出来に
もう、頭抱える。へたもいいとこ。
ジャズの真似。まったく。でも67年の状況を知っているだけに、
ぼくは、逆に驚き感動する。もの凄いチャレンジ。
本格に近づきそうでもあるし、別に本格など目指さなくてもいい。
へたなり(要するに各人の演奏がバラバラ)に、
ブガルーみたいなテイストをやっている。
でもひどい、はずれている。トランペットもピアノ(大野雄二)も。

ただひとり、水準をいっているのは、ベースの
稲葉国光だけ。これを聴けただけでもよかった。

●クインシー・ジョーンズ「ゴー・ウエスト・マン」

素晴らしい。声が出ない。ルー・レビィのピアノがこんなにいいとは。
アート・ペッパーさすが快調。
これならば、「コーティス・カウンス」(ショーティー・ロジャース)
にも負けないぞ。




でもね、きょう、事務所ではひたすら
ベートーベンのピアノソナタ32番(0p111)をとくに、
第二楽章を中心に聴く。

とてつもない、ベートーベンのインプロビゼーション
(もちろん演奏ではなく、それを記したこと)

●ウゴルスキー
●ポリーニ
●ポゴレルチ

念押しに、なぜか

●シュナーベル

まったく違う次元の念押しに

●ウゴルスキーの「メシアンの鳥のカタログ」

このメシアンを聴いて、ベートーベンのアブストラクトを追憶。


土日は、ちくま文庫で買った、

スラヴォイ・ジジェクの「否定的なもののもとへの滞留」を読む。



吉野秀雄の「ゆわらかな心」をきょう読んだが
彼の、八木重吉への視点に失望した。
吉野は、八木を宗教詩人として強く見ていた。
そうした見方以外のところを知りたかった。

八木のことは、いつか、なにかに書こうと思うが
とにかくこの月末までに伊東静雄論の続きが締め切りなので
伊東静雄に戻る。彼の卒論である
正岡子規の「写生論」に戻らないといけない。



明日は、発刊された、紙子10号の合評会を事務所でやる。

言いたいことを、弾けて言うぞ。

★「まぐわい」という身の真実から、身を落とす話まで、八木重吉をもう少し。

2006年01月12日 15時12分00秒 | 



山口瞳の「小説 吉野秀雄先生」を読了。
冒頭の八木重吉の詩篇の引用から、終始、八木の存在を
傍らに置きながら、師への愛情がつづられていた。
本筋は、山口との師であり友としての吉野秀雄像が語られているのだが
山口が、吉野に教わったのは

「恋をしなさい、人を好きになりなさい、交合をしなさい」

に尽きているようなのだ。これが全編にわたって交響している。

交合、これに「まぐわい」とルビがふってある。

真命(まいのち)の極みに堪えてししむらを敢てゆだねしわぎも子あはれ

これやこの一期のいのち炎立ち(ほむらだち)せよと迫りし吾妹(わぎも)よ吾妹

この二首も、まぐわいの歌である。

とみ子の前妻であるはつ子の死の前日、命果つる間際に求められ
交合をしたときの歌である。

肉体と精神を分かつことなかれ、とも説く。

さて、八木重吉と吉野秀雄のことであるが

次にアマゾンで

吉野秀雄「やわらかな心」と吉野登美子「琴はしずかに 八木重吉の妻として」
を注文した。

「やわらかな心」の冒頭の章は「前の妻・今の妻」続いて「宗教詩人八木重吉のこと」
である。

八木重吉の詩作品



 冬の野

 死ぬことばかり考えているせいだろうか
 枯れた芽のかげに
 赤いようなものを見たとおもった


 風が鳴る

 とうもろこしに風が鳴る
 死ねよと 鳴る
 死ねよとなる
 死んでゆこうとおもう


二篇の作品の末尾「おもった」「おもう」の不自然さという自然。
あえて、詩にしたくはない、発語の意思が清い。
身を落として記している。

◆八木重吉、八木とみ子、吉野秀雄、文で結ばれた愛情。そして山口瞳も。

2006年01月10日 20時06分40秒 | 





先日宴会の前に立ち寄った北白川の「ガケ書房」で
吉野秀雄のエッセイ集を、飲みに行ってどこかで無くした。
それでアマゾンで調べたら、講談社文芸文庫に「やわらかい心」という
本があるので注文した。

ガケ書房は、一乗寺の恵文社みたいなコンセプトの書店で、
店の外壁が、文字通りガケのような石にかこまれている。
なぜ、「ガケ」かというと、コンセプトが「ロック」であるという。
その心に、ロックがあるならば、
本でもCDでも雑貨でも置いている。

そんな店になぜ、吉野秀雄の本があったのかというと、ショップインショップで
どこかの古本屋の委託でたまたま置いていたのである。

買う前に立ち読みをして、そこに八木重吉にふれた文があったから
購入した。

前々からずっと、詩人八木重吉とともに
それにもまして、その妻八木とみ子のことが気になっていて
重吉が夭折した後に、その子も次々に亡くなり
独りになったとみ子が、数年を経て
歌人吉野秀雄宅の家政婦となり、やがて結婚する。

そして二人は、並々ならぬ情熱をもって
八木の命日に、編纂した「八木重吉詩集」を出版する。

ぼくは、八木重吉の詩は、随分前から好んで読んでいる。
十代の頃よりずっと読んできている数少ない詩人のひとりだ。

でも、十年くらい前だろうか、たまたま見た彼ととみ子、そして娘の
三人が映っている写真を見、巻末の年譜を見てショックをうけた。

それ以後ずっと気になっていたのが、八木の死後の行く末だった。

アマゾンで調べたら、山口瞳が書いた「小説吉野秀雄先生」というのが
見つかった。山口は、鎌倉アカデミアという私塾で吉野の教え子だったのだ。

いままで、「年譜」だけでしかわからなかったことが書かれている。

この山口瞳の小説、冒頭からいきなり八木重吉の詩が引用されている。

その中の詩



 悔    八木重吉

 うなだれて
 明るくなりきつた秋のなかに悔いてゐると
 その悔いさへも明るんでしまふ

 

●あたたかな休日に北野天満宮へ。春待つ梅林を拝む。

2006年01月09日 16時11分49秒 | 日録雑感

娘が大学受験まじかなので
北野天満宮へ行く。

かつて天神さんに参って合格した長男と
同じ、白いいれもののお守りを買う。

「しっかり拝んだから、合格する」

と娘。

久しぶりの西陣。
あらためて軒の低さと、家屋の古さに気づく。

梅は、芽吹いていたがまったく開花は見られず。

ただ、万全の体勢で開花を待っている梅林の姿は拝んだ。


★風邪に歯痛なのに詩についてややこしいことばかり考えている。

2006年01月08日 17時07分44秒 | 文学全部

6日から風邪がひどくなって、昨日、今日とほとんど自宅で
寝たり起きたりしている。歯痛も治っていない。
ウェーベルンのパッサカリアなどを聴いていると陰鬱も深まる。
本屋とTSUTAYAへ。
なぜだかわからないけど、古いビデオが50円という価格で売っていたので
買う。

岩井俊二の「リリイ・シュシュのすべて」
寺山修二の「書を捨てて街へ出よう」
フリッツ・ラング「M」
それとマルクス兄弟の「我輩はカモである」

それからこちらも訳のわからない安さだけど
インパルスの新品が420円。

TERRY GIBBS 「take it from me」
KAI WINDING 「the incredible TB」

両版ともに、伴奏者のケニー・バレルとビル・エバンスがいい。

風邪の身には、いいクスリ。




それから

保坂和志の「小説の自由」を読み続ける。

それを読みながらいろいろ考える。



絵は、全体を俯瞰して見ることができるが
音楽は、俯瞰できない。しかも聴いたという経験をリバースして
辿ることはできない。だからすべては、瞬間における感受の連続が
続いていく。

場合によっては、音楽を楽譜によって視覚化するという発想もある。
ある種の曲は、たとえばバッハのカノンなどは楽譜上でも視覚的な美が
見えるという。



詩は、言葉で媒体化された時点で均しくそれは仮想になる。
その仮想は、経験に根差した個別の仮想であろうが
個別ではない仮想であろうが、実はどうでもよい。
人の記憶や経験も、すべてが仮想体となって脳のどこかに刻まれる。
脳のどこかに刻まれるそれを「現実」といったとしても
それは仮想や幻想である。
人は、それをつねに更新している。
書くということは、この個別の仮想を、普遍化しようと試みること
だろう。ただ、書かれたものは、一様に均された仮想でもあるから
個別と普遍の仮想が混合している。
個別の仮想は、「わかりにくい」「難解」と言われ易い。
ところがある読者にとっては、それが偶発的に「普遍化」される。
それが「わかる」ということなのかもしれない。
ただ、何度も言うが、個別か普遍かということは、書かれた言葉の
価値にとってどちらでもいいことなのだ。

コカコーラのキャッチフレーズ
「スカッとさわやかコカコーラ」という言葉は、個別の仮想に
根差した言葉ではなく、はじめから普遍化をめざした仮想なのだ。
メディアでこれが流布されると、偶発的に商品のイメージが
脳内で更新されて、ペプシよりもコークが美味い、本格であると
錯覚される。

個別の仮想が普遍化された時点で、言葉は、深度や強度を薄める。



音楽においては、仮想は個別か普遍かの境はつねになく、混濁している。
瞬時そのつど感じられて、個別の脳に痕跡が刹那的に記される。
音楽において「わかる・わからない」という価値はない。
絵画は、音楽と違って俯瞰し、幾度も幾度も全体を反復してともに
確認できるのに、これもまた、個別と普遍の仮想が混在し
「わかる・わからない」の価値も希薄で軽視される。
それぞれそれを観るものの個別の仮想との偶発的な合致に委ねられる
からだろう。



詩は、言葉で書かれていることが上の芸術とは異なる。

言葉とは、本来「わかるもの」。人と人の間にあって「わかってこそ」
価値のある媒体だと、信じ込んでしまっているからだろうか。

あいさつも、口上も、日常会話も、CMも
日記もアニメも映画のセリフもなにもかも、詩の媒体である
同じ言葉から成り立っている。



しかしある人にとっての「個別の仮想」は、音楽や絵画のように
混濁した領野に記される。個別性が言葉という媒体性(普遍・国語)を超えたり、
はみ出たりする。「言葉で表現できないものを表現する言葉」とは
随分以前から言われてきている詩の定義ではあるが
こういうことかもしれない。



普遍化とは、数量の問題ではない。
個別の仮想が、偶発的に普遍化するのは、
まず、作者のうちに起こる。
作者とは、第一読者であるわけで、書いたものが
読んで、自分の脳の中で痕跡が記されて、普遍化されて更新される。
詩のリーディングという行為は、こういうことかもしれない。



もう少し考えていきます。
思い出したけど、今日はめでたくもないバースデーだった。




●感じることの偶発について中野重治の詩とともに考えた。

2006年01月03日 21時22分54秒 | 文学全部

中野重治の詩「真夜中の蝉」は、わかりやすい詩ではない。
僕には、とても難解だ。

 真夜中の蝉

 真夜中になつて
 風も落ちたし
 みんな寝てしまうし
 何時ごろやら見当もつかぬのに
 杉の木あたりにいて
 じいつというて鳴く
 じつに馬鹿だ

メタファーも単純なレトリックも示されてないように読める。

ただ、それを「真夜中の蝉」という仮託されたものに
代替すれば、わかりやすい詩かもしれない。

「真夜中の蝉」を提示し、「じつに馬鹿だ」と
つぶやく、そのことは、わかりやすい。

しかし、それがわかって、一体なにになるであろうか。

単純なメタファーやレトリック
そして単純な直喩によるたとえは、
だいたい、言葉を映像に喚起させることが多い。

映像に喚起されたほうが、言葉はわかりやすくなる。

「波の去ったような砂浜に取り残された、砂の文字跡」

と哀しみを映像に仮託したほうが、わかりやすい。

ところが、現在は、この映像に喚起されるメタファーが
まるで地獄のように充満してる。

だから、映像に喚起はさせまいとする、複雑なメタファーが
詩作の技術として多用される。
言葉は、もはや映像に喚起されない
唸りや叫びとなって現れる。



中野の詩においては、

最終行の

「じつに馬鹿だ」という言葉が
映像化、いや甘い映像化への還元を拒否している。

上の詩作品を

1 蝉のことを書いた詩
2 蝉に仮託した自己を書いた詩
3 蝉に仮託した世の人について書いた詩

と解釈や理解の自由が許されている。

ただ、この詩を「わかりやすい」と感受する読者は、ただ
作品を映像化して、ことたりている。

真夜中の蝉を馬鹿だと表現して、何が詩か!

そこで、この詩は、一気に難解になる。

詩を解するのに、詩人が詩を書いた背景を知ることは
実は、方法として正しいとは、僕は思わない。
でもこれほどに難解であれば、知ろうとする。



詩は、身という無意識のいれものと頭という意識のいれもので
書かれ、ということは、それらの代替物として言葉に還元される。
頭という意識のいれものも身の内だとすれば、すべてが身に
補完されると言ってもいい。

それが代替されと、身の外に定着されることを
詩作だとするならば、とてもこの身は、
必然的に、代替物に還元されるなどとは決して思えない。
ましてや、そこで表現されたものが
読者の身に「同じ強度と熱」で伝播され痕跡が記されることなど
この人生の時間において、偶然の最たるものだ。

ある人は、代替の契機を求めて、「わかりやすく」
結びやすい像に還元する。そこにメタファやレトリックが生じる。



ところが、現在、言葉による像へと代替されるメタファの陳腐さ
あるいは、この情報化社会の中で、代価がどれほどに
暴落して、つまらないものになってしまっているか、
表現者も読者も熟知してしまっている。

だから、そこをもっと重層にしようと企てる。
しかし、それですら、代価は安っぽい。



映画作家や写真家は、逆に「像」の安価を嘆く。

もはや、代価や代替物はない、
「メタファをメタファではない」と主張しだす。

現実もそうだ、9/11を私たちは映像で見た。
でもそれが、メタファのように感じられる。
いや、メタファであると認識してしまったほうが事が了解できるのかもしれないのだ。



あのテロ行為を、ある知らない世界からの「言葉」である。
と認識しなければ、もはや私たちは、事を心のどこかに
記すことはできない。



中野重治が「じつに馬鹿だ」と言っているのは、
多分、自己に対してであろう。

この詩が書かれた当時、中野重治は、24歳。
まだ、学生である。

学生でありながら

「社会文芸会員が中心になり、マルクス主義芸術研究会をつくる。
四月、窪川鶴次郎、堀辰雄らと同人雑誌「騾馬」を創刊、詩、評論
等を発表。十一月、日本プロレタリア芸術同盟に参加し、その中央
委員に選ばれる」

と年譜には記されている。



夜を徹して議論の限りを尽くす、
論争相手を罵倒しあい、
芸術と政治と世界と主体と、あらゆる観念を
吐露して大声で語り合う

それを
作者は、「じつに馬鹿だ」と言った。

ぼくは、この一行の偶発的な、身を切る行に
偶発的に、傷をうける。

なんの比喩でもない。

詩が難解であるとか、わかりやすいなどという
とんでもない、刺し違いの価値論など、ここには
存在しない。





★故意に文体を崩したり整えたりしているのだなあ。「雪のはて」を続いて読む。

2006年01月02日 23時26分09秒 | 文学全部

続いて、
ヴァレリー・アファナシエフの弾く
シューマンの「クライレスリアーナ」と「森の情景」を聴きながら

石川淳の小説
「雪のはて」を読了。

昭和17年の作品。

「マルスの歌」とは違って、速度のある美しい文章。
主題やトーンなどの主調を醸すために文体を
わざと崩したり、整えたりしているのだろう。

「私」は、かつて思慕した女性に会いに行く。
友人もまたほのかに思慕している。
彼女の夫が戦死した。
そして、二人は、その思慕を絶つ。

そのふたりが帰路の途上の温泉宿の湯船で出会う。

はたして、思慕は、淡いが故に永遠でもあり
淡いがゆえに「濃い」という反転された気配が
初春のひなびた村の空気とともに、流麗に浮き出される。

宿を出ると淡い粉雪が舞っている。

「これが最後の雪でしょうな」と村人が語る。

なかなか滋味があり、シブイ。