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文屋

文にまつわるお話。詩・小説・エッセイ・俳句・コピーライティングまで。そして音楽や映画のことも。京都から発信。

★詩誌のヒマラヤ2号に、スミレ論を掲載。はじめて自作詩を引用した。

2010年10月16日 11時28分19秒 | 
詩誌『ヒマラヤ』2号発刊

目次と後記より

★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
ヒマラヤ 2号 もくじ

 ●彼此                    広瀬大志   
 ●抜来手羅しる                広瀬大志    
 ●スミレ論                 萩原健次郎   
 ●Serie「夜警」 前夜          太田 潤    
 ●歌姫の年代記 第1幕(2)         太田 潤    
 ●「解体するVACANCE」より 絵葉書(戦場)  太田 潤    
 ●生きる壁の名前、つちうし君        海埜今日子   
 ●《こべつ坂》               海埜今日子   


【後記】より

いま降ったばかりの新雪(喩)の(蔵)。捨て場であり貯蔵庫であるヒマラヤ山脈を空からとらえた写真は、獣の皮膚のようになまめいている。けっして眼を慰安するととのった光景ではなく、蠢いている現在のように、ぐちゃぐちゃとしていながら静止している。たしかに、無音ではあるが呼吸している。息の持続や蠕動の繰り返しを見定めておこう。いつかふいに、美しいと官能するそのときまで。(編集・発行人 萩原健次郎)



このところずっと「スミレ論」の詩篇を
連作進行している。
ほとんど自動筆記の書法で
章立てして、つむいでいる。
春頃からはじめて
現在、40章くらいになってきた。

書きながら考え、悩み、
少し、感動もし
ずっと綴っていきたい。

■ヒマ=雪+アラヤ=蔵、詩誌『ヒマラヤ』を創刊しました。

2009年11月12日 18時32分16秒 | 







詩の雑誌、『ヒマラヤ』を創刊しました。
ヒマラヤ同人は、

海埜今日子
太田 潤
広瀬大志


私、萩原です。

ネットを通じて、比較的すんなりと事がはこんで
創刊しました。

なんだか、作る段階からいろいろと興奮しながら
雑誌を編集しました。
貴重な体験です。

目次と後記を掲載します。

4人の同人が、各10頁ずつという検討で
詩と散文を掲載しています。



ヒマラヤ創刊号 もくじ

珠玉                   萩原健次郎   ●
『現世紀』より三篇            広瀬大志    ●
抜来手羅しる               広瀬大志    ●
こはんのやどは、あたしをかれた…     海埜今日子   ●
Serie「夜警」 書誌         太田 潤    ●
北斎、ありえないかたちが創造により    海埜今日子   ●
  狭間で結びつき、たしかな現実を…。
歌姫の年代記(1) 第1幕(歌姫探偵団) 太田 潤    ●
透明な喩体     伊東静雄について     萩原健次郎   ●



後記

ヒマラヤとは、雪(ヒマ)と蔵(アーラヤ)の合成語であることを知った。それから、道元の「正法眼蔵」の文中に「雪山喩大涅槃」という言葉を見つけた。雪山(ルビせつせん)とは、ヒマラヤのこと。そして俄然、夢想が深まった。あの高峰は、喩の降り積もったパラダイス=喩の捨て場ではないかと。それで、おもむろに四名の登攀隊が集った。あとはどうなるかわからない。小誌が美しい雪景色であることを願う。



定価1000円です。

希望をいただきましたら、お送りいたします。
部数、ぎりぎりしか刷ってなくてあまり残っていません。

●明日、8月21日「紙子」の合評会やります。

2009年08月20日 21時21分25秒 | 


明日ですが、「紙子」の合評会というか
飲み会ですが、開催します。
オープンですので、どなたでも参加してください。

今回は、ほとんどの同人が参加します。
東京から、渡辺めぐみさん、たなかあきみつさんも来られます。

掲載された作品を綿密に読み込み、批評します。

場所は、花遊小路(新京極と裏寺の間)の「静」です。
夜、7時から。

「静」は、富永太郎と中也ゆかりの地。
かつての京都詩壇の拠点だった飲み屋です。

のぞいてみようと、お思いの方は
この下にコメントください。

たぶん面白いですよ。

■吉本隆明の講演を聞いて、私の寂しい身体が詩を書くことの切実も擁護したくなった。

2009年01月05日 17時14分27秒 | 
吉本隆明の講演をテレビで見た。
ずっと以前に直に講演を聞いたことがあったが
御歳をとられたと実感した。
言葉を何度も繰り返しつつ確認をし、正しく伝えようとする
執拗な意欲に感嘆した。
録画をしたが、「言語芸術論」のところは
目を閉じてずっと聴いていた。
目を閉じて聴いたほうが、よく頭の中に言葉が入ってきた。
●『沈黙』という依拠すべき場所。
このような考え方は、初めて聞いたような印象。
これは『無』とは違う。
●『自己表出』という根幹に『指示表出』の枝葉を繁らせて
つまりは、物語という起伏をも意識し、それを成したのは
横光利一だけであるという言。
これは、肯定しているのだろうか。いや、
●日本的な美意識として、言葉は沈黙に近しく縮小される。
だから、肯定されるのは、できうる限り沈黙という根幹に
求心的に収斂されるものと言うのだろうか。
●散文よりも詩に対する、優位性。
これは、昔から変わらず強調されている。
●『自己表出』と『自己表出』が交差するという時間。
これも、初めて聞いたように思った。よくわかる。
●創造によって新たな自然が生まれる。
だったかな。そらっ『無』じゃないね。
●現代に生きる創作者は、複雑な方法を受肉化しているから
表現は、方法として成熟はしているが、それは当然のことで
だからこそ、プリミティヴなものへの信も倍加される。
吉本隆明の詩集『記号の森の伝説歌』を思う。
根幹や枝葉が繁るここは、『記号の森』で、そこでただ呼吸
しているだけでは、記号の混濁した空気に耽溺してしまう。
それは、無かもしれない。
しかし、指示表出の枝葉がたとえば『神話』や『伝説歌』で
あるなら、それはあってもいいが、物語もまたあらたな
「無のような自然」であり、物語にも耽溺という危惧がある。

この講演を聞いていてずっと石原吉郎のことを思っていた。
吉本隆明は、石原の詩集『足利』を高く評価していたが
確か、吉本自身、そこに「何が書かれているのかわからない」
と言っていた。『足利』には、指示表出という枝葉の脈が
不明のままだ。その不明にこそ、ざわざわする魅力があり
また、沈黙へと到ろうとする求心力にひっぱられる。

『沈黙』を『絶望』へ。無ではなく虚無へ。

詩の価値を朔太郎ならばこう言っていたようにも思う。
絶望や虚無という求心へ依拠しつつ、それを同心円で
拡大していった、新たな自然となって作品が偶発的に生じる。
それは、暫定的な定位ではあるが
この暫定的な定位を無限に繰り返せば、人は、繰り返す途上で
死ぬことができる。これが、詩の本望のような気がする。
この繰り返しにこそ、詩の後悔と救済がある。
『沈黙』という価値はかっこよすぎる。しかも政治的に依拠する
価値のような気がする。
石原吉郎や吉本隆明の時間軸でとらえればわかるが、
美意識は、もっとじめじめしていて、めそめそしているほど
実在に近い。『記号の森』で耽溺している私らには、まったく
そうなのだ。

そこで、ぼくは、宇野浩二、葛西善蔵や近松松江などの小説のことを思った。
『黒髪』や『蔵の中』や大好きな小説『一と踊り』などは
じめじめめそめそしていて、でも
書いてよかったと書かなければよかったの後悔と救済という価値に
帰結しているようにも思えてきた。
横光の『春は馬車に乗って』も同じだが
あれは、とてもクールでライトでアブストラクトだが
沈黙と同心円ではないだろう。
それは、偶発という親身と正直なのだ。
いまの若い人の詩を、私も含めて容認したいのは、このあたりの
感覚だ。

長くなったので、メモとしてアップしておきます。
講演を見たあと、私はしばらく眠ることができなかった。
吉本隆明の血がでるような切実にふれたからだ。










■26日は、気持ちのいい朗読会と合評会を楽しんだ。

2008年04月29日 15時24分15秒 | 

4月26日の土曜日、
京都市の有形文化財指定「駒井家住宅」であった朗読会に
参加した。駒井家住宅は、ヴォーリーズが建てた
昭和初期の建物で、黒澤明の映画「我が青春に悔いなし」の
ロケにも使われた貴重な空間。
詩誌「庭園」の執筆者たちと
ゆったりとした感じでリーディングすることができた。
定員25名という密接な空間が、心地よかった。
その「庭園」の執筆者で今回いっしょに朗読をした
数名が、「紙子」の同人でもあり
そのまま、イベントのあと打ち上げと「紙子の合評会」を開いた。
同人の作品を自分なりに精読をして
できる限り気づいたことを書きこんでのぞむ。
感じたことが、他の同人と同意見であったり
まったく自分だけのとらえ方だったり
合評で語られる内容は、とても面白い。
同人7名、同人外のゲスト2名。
この一夜のために、東京からT氏W氏も来た。
こうした批評会をちゃんとする。
せっかく同人費を払って参加しているのだから
参加しないのは、なんとももったいないと思う。
もやもやも、ちょっとしたストレスも得るわけだが
そうした感情を抱きながら次号に向かう。
たった数時間だが、10名ほどの人間が
ひたすら詩のこと詩作品のことだけを語り合う
濃密な時間。
昔からずっと、こうした時間が好きだ。

◆今年、出会った言葉で、ずっと何度も読んでまた読んだ言葉。

2007年12月30日 18時45分31秒 | 


あんまり、こういうのは読まないのだけれど
今年の夏に出会った、言葉。


詩とは、言語活動における異邦のものとの出会い、分離の絶対的な
隔たりにおいて異邦のものを保持し維持する出会いだ。詩の断言と
は、この出会いのことだ。詩は、断言されることの意味に先行する
断言として、イメージである(詩が断言されることはイメージとし
て断言される)。イメージという言葉は、人を欺くものだ。それは
不在の対象や先行する現実を参照させるかに見える。そのようにし
て、詩はそれに先行するような何かあるものを参照させるかに見え
るが、詩は先行性そのものであり、自身が断言することの意味から
逃れ去るために、常に自分自身に先行する断言である。



詩は今日しばしば、断言の意味に先行するというよりも、その意味
を却下するか拒絶する断言である。そうなると、詩は、意味の拒否
により一層なるべく、断言の拒否に------そして、断言の純粋な力
としての詩そのものの拒否に------なる傾向がある。しかしながら
それは最後には断言することの純粋な拒否として断言され、そして
断言されるこの拒否において、絶対的に他なるものの経験、奇異な
ことと奇異さが、常に新たに完全に実現されようとする。
詩は、絶対的に見えるやり方で断言するが、何か個別のものを絶対
的に肯定するためにこの絶対的な性質を使用すれば、その品位を落
とす。それは預言的、権威的になり、言葉なき断言たる暴力を許可
する。


  モーリス・ブランショ「奇異なことと異邦のもの」上田和彦訳
  岩波書店 思想2007年7月号


いまから、半世紀も前に書かれた論考だが、詩を書くものは、
あるいは私は、いまこのときに、反芻したい言葉だ。

内と外を対峙させて、
内の根源として、有限なる身体(生命)的時間を見極め
逆に
外の根源として、無限遠点の言葉をとらえようと試みる。

「品位」というような言葉で表わされているが
この高潔や清潔も、見逃せない。
詩の言葉にふれたときの「かっこいい」か「かっこわるいか」
これも大事だよなあ。
もったいぶった、前衛も怪しい。
前衛なんて、滑稽であるべきで、つねに
断言する尻から拒否される「なんちゃって」なのだ。

■■

来年は、もっともっとブログ更新します。

みなさん、よいお年を。





■八丈島の若い詩人、清水あすかの詩に、孤絶の虚を同感する。

2007年10月18日 16時51分11秒 | 


1981年生まれだから、26歳。
清水あすかという、若い詩人の詩集を読んだ。
『頭を残して放られる。』南海タイムス社刊。
新鮮な驚きを感じた。
書かれている、身体的な空間。
身体的な空間なんて、いい加減な言い方だけど、
身を切る、その所作が、自らの現実として最も近しい身体
と、詩人がいま住んでいる郷土である、八丈島の土地が
作品の中で、溶解して、情と怨が、いまこのときに
切実として一つになっている。
私たちのこの身体も、生まれ育った土地でさえ、
虚であり、虚身や虚地であるのに、それを
この詩人は、引き受けて、書いている。
詩は、突き動かされて書かれるものだ。
あらかじめ何かのテーマがあって、つまりは、
詩形という、虚中の虚を、作品に昇華して
「詩を書こう」「詩をつくろう」などと意図しても
その虚は、単一回路から生じた、嘘だけに留まってしまう。
そんな詩は、読むもののどこにも届かない。

引用してみる。

おじが日と日を生きる日は。(全編)

 目をなぐさめるために山を映すことができない。
 たとえば何年先でなくても
 入道雲や、上にとぶアキアカネ
 そういうものは、どれほど体を通り過ぎるだろう。

 それはどうしたって、
 赤子でさえ、おじでさえ、
 そんなものはどれ程の差もありはしない。
 ただひたすらあつめてもこぼれるのは、
 指の間から溜まり落ちてしまうのは、
 なでることもできない。それは夏の日だ。

 送る決まりが思い出せずに、
 しばらくの間、心持ちは口を寄らせて、奥まってしまうのは仕方がない。
 ああ、もしかしたら、
 おじだって、わたしにだって
 次の夏がなくたって、時間がまるめ投げられることがあっても
 ああ、それは放さなくては。
 ことばを責めることはできないし、
 誰ぞをいじくっていいものじゃないし、
 わかりもしないことを唾まじりにつぶしていけば、
 ただ声は声として鳴りはしないばかりだ。

 排泄物、少々の血、かわいたよだれ、めくれた皮ふ、時々膿が出て
 誰もいない左足は、何も言わない左手は
 つぶれない。
 あまいみぞれを、口に入れた時は。
 飛んでゆく麦わらをひろって、
 またベンチに戻ってゆく時に見るものは。
 空の下。熱い山。ひかりの海を、黒いアスファルトを
 持っている。動く右手でおじは知っている。

 「ばぁ、赤け氷めはおめぇがかめ」

 麦わらをなぞり
 山の線をおじに渡す。

身体的な空間と、私は言ったが、この詩人の作品は、
部分引用では、その凄さが伝わらない。
身体が享受した、あるいは、身体が被ったり傷ついた意識は
時間を褶曲させて、作中で、自然に呼応しているからか。
それが空間的ということだろうか。

「排泄物、少々の血、かわいたよだれ、めくれた皮ふ、時々膿が出て」
の詩行は、「黒いアスファルトを持っている。動く右手でおじは知っている。」
と、呼応しているように、私には読める。
これは、詩人の身体に染みついた、詩的修辞が
単体の、つまり孤独体の中で、褶曲してひとつになっているということだ。
これこそが、詩の力学であるはずだ。
ときに、記憶の中にある肉声が、手際を労せずして自己引用される。
この肉声ですら、その意味では、修辞のひとつなのかもしれない。
もちろん、詩人にその自覚はない。策や技を弄していないからだ。

一部の詩行や連だけを引用できないといったが
一編の作品だけでも、この詩人の魅力は語れない。
この詩集『頭を残して放られる。』をぜひ、多くの人たちに
読んでいただきたい。

そんなことを強く思う詩人の詩業に出会うのは久しぶりだ。
ややもすると、最近の詩で目立つ
修辞、あるいは修辞的な空間を
「映像」や「音像」にたやすく褶曲させて還元しようとする
作品が多いが、本作では、
自らの孤独体の体内だけで、虚を虚として飲み込み
それだけで、詩が書かれているように思える。
詩が、詩に褶曲して、詩になっている。
あたりまえのことだが、
書かれている、すべての言葉が、
突き動かされて染み出ているからこそ
読むものも突き動かされる。
つまりは、読むものを、褶曲して、どこか
虚地へと、抛擲するのである。

●わかりやすい詩の有限と、逡巡・迂回の無限、不死。

2007年05月01日 18時34分35秒 | 

コメントのレスですが、ここにも掲載します。




「わかる」も「わかった」も、事後ですね。
書く前から「わかるも、わかった」もない。
書いてから、第一読者である作者が、はじめて諒解する。
この最初の諒解は、自由であっていいけれど
そこからは、はぐれていきます。
意味が、自分からはぐれていきます。
それから再度読んでも、はぐれたままであっても
新しく更新された、「自分のようなα」に出会うことができます。これは、作者以外の他人=読者と共有できますね。
最初から

>狙ってわかりたい人達に向けて書くことができたら、
 「詩らしきもの」で商売できてしまうんだろうか

それならば、商売人が詩らしきものを書いている

ということになります。

詩人というのも、事後的です。詩を書く以前から
詩人なんて者は、どこにもいない。
上の、逡巡する諒解上だけにいる。
詩人と称しているから、詩を書いているとも限らない。

商売人が詩らしきものを書く、これはこれで否定しよう
とも思いません。

「スカッとさわやかコカコーラ」

という、惹句。

武者小路実篤の

「仲よきことはよきことかな」や
相田みつおなどと、そんなに違いません。

わかりやすくて、商売にもなっています。

でも、この主格は、コカコーラ、
あるいは、コカコーラの会社
あるいは、コカコーラの社長
かもしれません。

わかりやすくて、嘘でもないかもしれません。

どこにも、逡巡がないし、発見もありません。
うまいものは、うまいだろうし。
炭酸は、スカッとします。

★自分の

自分ではないものたとえば、「棕櫚の木」

★思ったこと、感じたこと

思いも、感じもしえないことを

★自由にのびのび

逡巡、迂回、屈折、呻吟、停止しながら

★書く

沈思する。

★は、教科書的で、★の下の文をつなげると



「棕櫚の木」が「思いも、感じもしえないこと」を
「逡巡、迂回、屈折、呻吟、停止」しながら
「沈思」する。

これが詩かもしれません。

萩原朔太郎に「死なない蛸」という世にも変な作品があります

「棕櫚の木」を「死なない蛸」にしてもいいでしょう。



昨日、中沢新一の「ミクロコスモス」という本をちらちら見ていて

「音楽の不死性」という言葉に目がとまりました。

「スカッとさわやか」なんかは、コカコーラが死んだら
言葉も死んでしまいます。というより、その言葉は、
大衆に浸透し、諒解された時点で、指示性が成就されて
死んでしまいます。

音楽は、すぐに記憶から消え、なんの諒解も得られないまま
生き残りつづけます。

無理矢理に、難解な言葉を書くのではなく
その故意のなかで、諒解が成就されて、その難解な詩も
即死です。


ではなく、しようがなく、事後どうしても
言葉で諒解できないけれども、身体か身体外のなにかか
どこかに留保されつづける、事後の難解は
不死かもしれません。



円空
芭蕉
レヴィ・ストロース
エリック・ドルフィ
ジョン・オグドンの弾く、メシアンの
「幼児イエススに注ぐ20のまなざし」→たまたま聴いていた

などのことを考えてみましょう。

彼らは、

「棕櫚の木」が「思いも、感じもしえないこと」を
「逡巡、迂回、屈折、呻吟、停止」しながら
「沈思」する。

ことを、生きた、まったき詩人です。

●自分の感じたことを自由にのびのび書き表現することなんてできない。

2007年04月15日 20時44分17秒 | 

このごろよくある詩。

ちっとも刺激のない陳腐この上ない詩。

それは、勘違いしている詩。

昔、学校で習ったままに、

詩とは、

「自分の感じたことを自由にのびのび書く」

といった代物。

学校教育の弊害。
詩を殺してしまいそうで、ちょっと言っておきたい。
詩をなめるなと。

そんなことできるわけがない。

それが絶対に不可能だから、詩を書いているのに。

●自分の

って、自分って、わかるわけがない。わからないから生きている。
ぼくは、なぜ豆腐が嫌いなのか、それすらわからない。

●感じる

って、感じても、それは言葉にすれば、ちんぷんかんぷんで
言語で再生、再生成、リプレゼンテーションなんて
できない。できるんだったら文学はとっくに絶滅している。

●自由にのびのび

言語は、言語表現の方法は、もはや枯渇していて
枯渇しているが故に、自由にと言ったとたんに人は、
既存の言語法の規範に緊縛される。

●書く

という方法も、どこにも保証はない。書かなくても、
あるいは、書かず、音楽にしたほうが、感情や感覚は、
より正しく、リプレゼンテーションできる。


いちがいには言えないけれど、
「わかりやすい詩」などと言う人たちにかぎって
こんのなことを言う。

それが不可能だから、詩を書いているのに。

「自分の感じたことを自由にのびのび書」いた詩など
読んだことがない。

だから書いている。

このわかりやすい命題を飲み込んで
それから詩を書いてくれ。

いや、書かなくても、音楽にしてくれ。








●ジャズをバックに詩をリーディングするイシュマエル・リードのジャズな詩

2006年07月10日 11時27分15秒 | 



CDをひっくりかえしていたら、イシュマエル・リードの
リーディングを収録したアルバムがでてきた。

リーディングといっても、歌もうまい。

詩人なのか、歌手なのか。

バックが凄い。

デヴィド・マレー
レスター・ボウイ
スティーブ・スワロー
タジ・マハール
カーラ・ブレイ
ジェマラディーン・タクマ
アラン・トゥーサン

など。

ジャズのセッションだけでもなかなか集まらないメンツ。




アルバム最後の、イシュマエルの詩


●リズム・イン・フィロソフィー  訳・内山靖子


ボジョレーの70年ものをなめながら
クレッセント通りのAM周波の中で
僕はKCバードと話をしていた
会話の中味はリズムについて
全てのものを動かすのがリズム
四季の移り変わりの、さまざまな表情を
まるでポール・チェンバースの指のように
軽やかに動かすのもリズムだと

博学なバードは、こう言った
宇宙は螺旋状に広がり続ける大爆発だと
水玉模様にペイントされた、やみ酒場の中で
あふれんばかりの新たな光を生み出しながら
一夜、一夜が存在しているのだと

リズムなしでは、この世は動かない
でも、この世なしでもリズムは存在する
このリズムが春を呼び
そして労働者たちを動かしている
デニムの労働着を身にまとい
プールのような形をした、低音だけが異様に響く
入場無料のジューク・ボックス・ホールに
日曜の午後は、いつも出かける
ベニー・モートンの曲をかけたかったけど
はみ出し者に、その権利はなく
店の者に断られた

なりゆきさ、そんなものさ

バードの声が消えた、そのあとに
ハード・ロックが鳴り響くように




アメリカやなあ、ジャズやなあと思う。

なるほど、こんな詩に
音をつける
デヴィッド・マレイは
気持ちよかっただろうなあ。