文屋

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◆詩は、世の中に必要か

2005年02月16日 14時56分24秒 | 
現代詩のことを書く。現代詩のことは時々考える。
「詩」のこととは、まったく違った次元で。
先日、聞いた話。新しく詩集を出した人が、京都の書店に自分の詩集を持ち込んだら
即座に、納品を断られた。「現代詩ねえ」「売れないでしょ」「そもそもいまの世の中『現代詩』
必要ないでしょ」と言われたそうだ。京都でも全国的にも、詩歌の分野をしっかりおいている
この書店ですらこうなのだ。しかもその詩集は、詩書出版では日本を代表するような版元なのに。
彼女は、賞もとっている詩人。
いろいろ複雑な状況だろうけども、ぼくは、仕方がないとしか思えない。
店主の言うことは、どれも否定することはできない。
たとえば、韓国などでは、詩集は小説なんかよりもメジャーだ。
売り上げベスト10なんかやってると、先端の詩集が幾冊か入っている。
教保書店などソウルの大きな書店へ行けば、詩集コーナーには若い人がいっぱいいて、
書棚の詩集から気に入った詩句を書き写している光景にお目にかかる。
それはどうしてかというと、韓国では、手紙を書くときに
詩の一節をよく引用するからだとか。
それから、韓国では、詩の朗読が普通の文化として浸透している。前にソウルへ行ったとき、
「この人は、正月の朗読コンクールで優勝した人です」などと、紹介する。
すると、その店で、普通に朗読を始める。
もっと詳しく事情を聞けば、昔から韓国では、「時調」
という風習があって、各家々では、「詩ぐらい朗々と詠めないでどうすんだ」というような
ならわしがあったという。一種の生活文化の中のスタンダードだったのです。
もうひとつ、政治的に不安定で、教養の吸収や怒りや不安の平準的な感覚を「詩」という世評的な
テキストに求めざるを得なかったのでしょう。
民族の怒りや悲しみも、詩が吸収していたりしていたのだと
思う。やりきれなさの鏡として。
さて、日本では、「そもそもいまの世の中『現代詩』必要ないでしょ」ですから。
ぼくは、まったくそう思う。少なくとも本屋の嘆きとしては、十分理解できる。
たとえば自分が「悲惨」だとしよう。悲惨を書いた詩集ができあがる。それが、状況的な悲惨
なのか、詩集を書いた人だけの悲惨なのか考えてみよう。書いた人だけの悲惨ならば
この世の中、悲惨だらけである。悲惨の度合いなんて別だけど。ところが、国情の違いなどに
よっては、世情を象徴するような悲惨が詩集としてしるされて出版されることがある。
悲惨な国の悲惨な人の悲惨な言葉。悲惨な国のベストセラーになるだろう。
ところが、いまに日本で、それでも詩が
「その国の時代の気分」みたいなものの象徴だとしたら、もちろん詩集にとっては、とても
暢気なスタンスなのだが、それでも詩集が日々出版されるのだから暢気な詩集もある。
そう考えると、悲惨というテーマは、いまの日本では個的にならざるをえない。世情の象徴などと
言い出すと、その創作の回路は、どうしても散文的か小説的にならざるをえない。
それでも詩がなりたつのは、たとえば、かわいさやクールさや、慰められるとか、癒されるとか
ちょっとだけポジティブな空気がありさえすればことたりる。
本屋に並んでいる詩集を思い起こしてみよう。そんなのばっかりでしょ。
相田みつおや銀色夏生や谷川俊太郎なども含めて。それから
近代詩人たちは、ただ近代の空気の象徴だったりもするわけで。
しかし、この日本でも、とっても不条理で理不尽で、さっぱりわけのわからい不安や
死んでしまいたいほどの嫌なことや狂うほどのおかしな空気だってある。個的ではなくね。公的に。
「まったくひとつも面白くない日本」とか。
そうしたときに、詩が言葉の前衛、あるいは言葉の冒険としてとらえられなくもない。
だからほんとうは、いまの現代詩は、もっともっと、素っ頓狂な前衛が実は求められている
ような気がする。言葉の冒険家が。
もちろん、そのときに、流通も含めた、関与者すべてに素っ頓狂な前衛が求められる。
旧態の方法ならば、くだんの書店の店主の嘆きにただ同調してしまうだけ。
自分がこんなに前衛で、孤絶の先端で瀕死なのに、流通は、いまだに
「売れる本」しか「売れない」と考えている。
ちょっと待ってよ。「売れないもの」を「売るようにする」。それも書店の勤めだろ。
文化の前衛なんて、はなから「売れている」わけがない。
「売れる」ようにするためには、血汗にじむプロデュースやプロモートがあってはじめて
真っ当なんだろと叫びたい。
そんな状況なのに、書き手が「売れる詩」を「売りたい本屋」のニーズに添ってたらおじゃんである。
「売れない前衛」だけど「前衛の意気」を「売れ!」と説く以外に方法はない。





-------------------たぶんつづく

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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
俳句だって詩じゃないか (永田隆史)
2006-12-10 12:09:54
詩と言ったって、俳句だって詩だろう。今、日本の俳句人口はどんどん増えているようだ。もっとも、お年寄りが多いのだが。だから、日本人だって、詩心がないわけじゃないと思う。ただ、いわゆる現代詩のような詩の形式がなぜか人気がないだけなのではないだろうか。日本にだって、いい詩人がいっぱいいたし、ただ、現代日本では、才能のある人は、音楽や映画などの、文字から離れた聴覚や視覚をメインとする分野に
に走ってしまっているのではないだろうか。しかも、日本は社会は猛烈に忙しいし、騒がしいしね。
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詩という形式の中にある「詩」 (褄黄)
2006-12-11 10:52:31


本質は、詩という文芸の形姿の中にある
「詩=ポエジー」なのですね。
このポエジーは、もちろん、あらゆる
芸術の中にあります。

絵画にも写真にも、冒険にも。
あるいは、演芸にも、あるいは、夕焼けにも。

ただ、どんな芸術にも
そのカテゴライズされた典型に堕して
ポエジーが枯れたものもある。

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