文屋

文にまつわるお話。詩・小説・エッセイ・俳句・コピーライティングまで。そして音楽や映画のことも。京都から発信。

■吉本隆明の講演を聞いて、私の寂しい身体が詩を書くことの切実も擁護したくなった。

2009年01月05日 17時14分27秒 | 
吉本隆明の講演をテレビで見た。
ずっと以前に直に講演を聞いたことがあったが
御歳をとられたと実感した。
言葉を何度も繰り返しつつ確認をし、正しく伝えようとする
執拗な意欲に感嘆した。
録画をしたが、「言語芸術論」のところは
目を閉じてずっと聴いていた。
目を閉じて聴いたほうが、よく頭の中に言葉が入ってきた。
●『沈黙』という依拠すべき場所。
このような考え方は、初めて聞いたような印象。
これは『無』とは違う。
●『自己表出』という根幹に『指示表出』の枝葉を繁らせて
つまりは、物語という起伏をも意識し、それを成したのは
横光利一だけであるという言。
これは、肯定しているのだろうか。いや、
●日本的な美意識として、言葉は沈黙に近しく縮小される。
だから、肯定されるのは、できうる限り沈黙という根幹に
求心的に収斂されるものと言うのだろうか。
●散文よりも詩に対する、優位性。
これは、昔から変わらず強調されている。
●『自己表出』と『自己表出』が交差するという時間。
これも、初めて聞いたように思った。よくわかる。
●創造によって新たな自然が生まれる。
だったかな。そらっ『無』じゃないね。
●現代に生きる創作者は、複雑な方法を受肉化しているから
表現は、方法として成熟はしているが、それは当然のことで
だからこそ、プリミティヴなものへの信も倍加される。
吉本隆明の詩集『記号の森の伝説歌』を思う。
根幹や枝葉が繁るここは、『記号の森』で、そこでただ呼吸
しているだけでは、記号の混濁した空気に耽溺してしまう。
それは、無かもしれない。
しかし、指示表出の枝葉がたとえば『神話』や『伝説歌』で
あるなら、それはあってもいいが、物語もまたあらたな
「無のような自然」であり、物語にも耽溺という危惧がある。

この講演を聞いていてずっと石原吉郎のことを思っていた。
吉本隆明は、石原の詩集『足利』を高く評価していたが
確か、吉本自身、そこに「何が書かれているのかわからない」
と言っていた。『足利』には、指示表出という枝葉の脈が
不明のままだ。その不明にこそ、ざわざわする魅力があり
また、沈黙へと到ろうとする求心力にひっぱられる。

『沈黙』を『絶望』へ。無ではなく虚無へ。

詩の価値を朔太郎ならばこう言っていたようにも思う。
絶望や虚無という求心へ依拠しつつ、それを同心円で
拡大していった、新たな自然となって作品が偶発的に生じる。
それは、暫定的な定位ではあるが
この暫定的な定位を無限に繰り返せば、人は、繰り返す途上で
死ぬことができる。これが、詩の本望のような気がする。
この繰り返しにこそ、詩の後悔と救済がある。
『沈黙』という価値はかっこよすぎる。しかも政治的に依拠する
価値のような気がする。
石原吉郎や吉本隆明の時間軸でとらえればわかるが、
美意識は、もっとじめじめしていて、めそめそしているほど
実在に近い。『記号の森』で耽溺している私らには、まったく
そうなのだ。

そこで、ぼくは、宇野浩二、葛西善蔵や近松松江などの小説のことを思った。
『黒髪』や『蔵の中』や大好きな小説『一と踊り』などは
じめじめめそめそしていて、でも
書いてよかったと書かなければよかったの後悔と救済という価値に
帰結しているようにも思えてきた。
横光の『春は馬車に乗って』も同じだが
あれは、とてもクールでライトでアブストラクトだが
沈黙と同心円ではないだろう。
それは、偶発という親身と正直なのだ。
いまの若い人の詩を、私も含めて容認したいのは、このあたりの
感覚だ。

長くなったので、メモとしてアップしておきます。
講演を見たあと、私はしばらく眠ることができなかった。
吉本隆明の血がでるような切実にふれたからだ。










最新の画像もっと見る

4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (森川雅美)
2009-01-05 22:53:51
その講演はいつ放送されましたか。
見損ねました。

「日本語の行方」もただ上からいうのではなく、切実な現在への困惑と疑問があると思います。
とても真摯な態度です。
吉本さんはその態度は貫き通している。
それに答える意味で、同人誌で特集をやった。

『沈黙』を『絶望』へ。無ではなく虚無へ。

ここは難しいですね、うまく理解できません。いや、実感できません。

今年もよろしくお願いします。

返信する
吉本さんの講演 (孤穴の孤児)
2009-01-05 23:37:20
DVDにとってこれから見ます(聞きます)。
最後の「知識人」と呼ばれていますね。
「自己表出」と「自己表出」の交差するところ、というところが上記のメモの中で一番気になるところです。見ましたら、何か書く積もりです。
返信する
テレビで見られるとは、、 (bunyahagi)
2009-01-06 00:37:13
NHKのETV特集の特番でした。
よもや、テレビでこんなものが見られる日が来るとは
思ったこともありませんでした。
それだけでも衝撃で震えるほどでした。
最後に吉本さんの自宅が映って、
そして最後の最後に、白い飼い猫が
挨拶するように出てきて
番組が閉じられます。
その意味で、慄然とするドキュメント番組でもありました。
その昔「擬制の終焉」などを読んでいた頃を
思い出し、僕も歳をとったと実感もしました。
「自己表出と自己表出が」「出会う」だったか「交差する」だったか、強烈にひっかかった言葉でした。
単純に『試行』などにおける実践のことを言っている
のかとも思いましたが
ぼくも録画をもう一度、見てみます。

番組は、糸井重里のプロデュースによって実現されました。
番組で、もうひとつ驚いたのは
吉本の講演記録テープの音源を糸井が委託されて
管理していて、それをすべてネットで
無料提供するという知らせです。
糸井は、これらのテープをI-podに入れて
ずっと聴いているとも言っていました。

返信する
Unknown (森下大輔)
2009-01-06 01:54:21
興味深い言葉が多いです。

webに上げられるとのこと。楽しみです。
返信する

コメントを投稿