文屋

文にまつわるお話。詩・小説・エッセイ・俳句・コピーライティングまで。そして音楽や映画のことも。京都から発信。

●自分の感じたことを自由にのびのび書き表現することなんてできない。

2007年04月15日 20時44分17秒 | 

このごろよくある詩。

ちっとも刺激のない陳腐この上ない詩。

それは、勘違いしている詩。

昔、学校で習ったままに、

詩とは、

「自分の感じたことを自由にのびのび書く」

といった代物。

学校教育の弊害。
詩を殺してしまいそうで、ちょっと言っておきたい。
詩をなめるなと。

そんなことできるわけがない。

それが絶対に不可能だから、詩を書いているのに。

●自分の

って、自分って、わかるわけがない。わからないから生きている。
ぼくは、なぜ豆腐が嫌いなのか、それすらわからない。

●感じる

って、感じても、それは言葉にすれば、ちんぷんかんぷんで
言語で再生、再生成、リプレゼンテーションなんて
できない。できるんだったら文学はとっくに絶滅している。

●自由にのびのび

言語は、言語表現の方法は、もはや枯渇していて
枯渇しているが故に、自由にと言ったとたんに人は、
既存の言語法の規範に緊縛される。

●書く

という方法も、どこにも保証はない。書かなくても、
あるいは、書かず、音楽にしたほうが、感情や感覚は、
より正しく、リプレゼンテーションできる。


いちがいには言えないけれど、
「わかりやすい詩」などと言う人たちにかぎって
こんのなことを言う。

それが不可能だから、詩を書いているのに。

「自分の感じたことを自由にのびのび書」いた詩など
読んだことがない。

だから書いている。

このわかりやすい命題を飲み込んで
それから詩を書いてくれ。

いや、書かなくても、音楽にしてくれ。








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3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
激しく (Largo Pantano)
2007-04-17 23:14:31
同感です!
返信する
そのわかりやすい命題に (窪ワタル)
2007-05-01 17:14:41
辿りついたつもりで、薄志弱行にも“わかる”に逃避してしまいそうな自分がいます。

狙ってわかりたい人達に向けて書くことができたら、
「詩らしきもの」で商売できてしまうんだろうかとおもったりもします。
返信する
Unknown (bunyahagi)
2007-05-01 18:24:59

「わかる」も「わかった」も、事後ですね。
書く前から「わかるも、わかった」もない。
書いてから、第一読者である作者が、はじめて諒解する。
この最初の諒解は、自由であっていいけれど
そこからは、はぐれていきます。
意味が、自分からはぐれていきます。
それから再度読んでも、はぐれたままであっても
新しく更新された、「自分のようなα」に出会うことができます。これは、作者以外の他人=読者と共有できますね。
最初から

>狙ってわかりたい人達に向けて書くことができたら、
 「詩らしきもの」で商売できてしまうんだろうか

それならば、商売人が詩らしきものを書いている

ということになります。

詩人というのも、事後的です。詩を書く以前から
詩人なんて者は、どこにもいない。
上の、逡巡する諒解上だけにいる。
詩人と称しているから、詩を書いているとも限らない。

商売人が詩らしきものを書く、これはこれで否定しよう
とも思いません。

「スカッとさわやかコカコーラ」

という、惹句。

武者小路実篤の

「仲よきことはよきことかな」や
相田みつおなどと、そんなに違いません。

わかりやすくて、商売にもなっています。

でも、この主格は、コカコーラ、
あるいは、コカコーラの会社
あるいは、コカコーラの社長
かもしれません。

わかりやすくて、嘘でもないかもしれません。

どこにも、逡巡がないし、発見もありません。
うまいものは、うまいだろうし。
炭酸は、スカッとします。

★自分の

自分ではないものたとえば、「棕櫚の木」

★思ったこと、感じたこと

思いも、感じもしえないことを

★自由にのびのび

逡巡、迂回、屈折、呻吟、停止しながら

★書く

沈思する。

★は、教科書的で、★の下の文をつなげると



「棕櫚の木」が「思いも、感じもしえないこと」を
「逡巡、迂回、屈折、呻吟、停止」しながら
「沈思」する。

これが詩かもしれませんに。

萩原朔太郎に「死なない蛸」という世にも変な作品があります

「棕櫚の木」を「死なない蛸」にしてもいいでしょう。



昨日、中沢新一の「ミクロコスモス」という本をちらちら見ていて

「音楽の不死性」という言葉に目がとまりました。

「スカッとさわやか」なんかは、コカコーラが死んだら
言葉も死んでしまいます。というより、その言葉は、
大衆に浸透し、諒解された時点で、指示性が成就されて
死んでしまいます。

音楽は、すぐに記憶から消え、なんの諒解も得られないまま
生き残りつづけます。

無理矢理に、難解な言葉を書くのではなく
その故意のなかで、諒解が成就されて、その難解な詩も
即死です。

ではなく、しようがなく、事後どうしても
言葉で諒解できないけれども、身体か身体外のなにかか
どこかに留保されつづける、事後の難解は
不死かもしれません。



円空
芭蕉
レヴィ・ストロース
エリック・ドルフィ
ジョン・オグドンの弾く、メシアンの
「幼児イエススに注ぐ20のまなざし」→たまたま聴いていた

などのことを考えてみましょう。

彼らは、

「棕櫚の木」が「思いも、感じもしえないこと」を
「逡巡、迂回、屈折、呻吟、停止」しながら
「沈思」する。

ことを、生きたまったき詩人です。
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