「子どもを犯罪から守る」
犯罪被害当事者による、子どもを被害者にも加害者にもさせない方法
内野真著 明石書店 2006年5月18日発行 1800円
まえがき
犯罪の被害に適わない子どもは「いない」
午後一時二〇分。
家から小一時間も離れた職場にいる私の携帯に、息子たちの通う小学校からメールが入る。
「追いかけ事案の発生について。西警察署からの情報提供。昨日一二日、午後四時五五分頃、八子中学校付近で自転車で帰宅していた小学生(他校の児童)が、ヘッドライトを消した黒のステーションワゴン(運転手一名、黒サングラスを着用)に追跡されているのに気付き、駐車場に逃げ込み、車が通り過ぎたのを確認後、道路に出たところその車が後退、転回して追いかけてきた。被害はなし。八子公園周辺での不審な車にご注意くださるようお願いいたします」
昨日の夕方?
ええと、今はまだ学校は授業中で、私は息子らの帰りに間に合うように帰宅できるかどうか、まったくわからない。八子中学校って、うちから五〇メートルくらいしか離れてないじゃん。
― 会社にいる私に、一体どうしろって言うんだろう……。
メールを配信してもらったって、カギを持って一人で帰る八歳の子どもに一体どうやってそれを知らせろっていうのよ?
不審者情報はこうして週に何度かメールされてくるが、そこで私たち母親ができることといえば、せいぜい子どもの帰宅時間に家の外へ出迎えて「友だちと別れて独りになる、最後の数分間の空自」をなくす努力をしてやることくらいである。ただ、私のように家から遠く離れて働いている母親にとっては、配信を希望したものの、一体どうすりやいいの? という状況が少なくないのであった。
警察から不審者情報が入った翌日くらいは、せめて一年生から六年生までいっしょの集団下校にしてほしい、と思うのだがそういう配慮はなく、あくまでも「各家庭で」ご注意ください、なのである。
小学校からの防犯メール配信という試みは、近隣でも画期的、とは言われているらしい。しかし、情報が配信されるのは「防犯パトロール」に応募した、防犯に比較的関心の高い母親に対してだけである。学年に一〇人程度であろうか。
― 子どもの防犯に関心の高い、母親。
この本を手に取ってくださったあなたは、おそらく子どものための防犯に「関心の高い」人なのだろう。
昨今の凶悪事件の低年齢化や幼い子どもへの残虐な事件の連続に、否が応でも「子どもを守ろう」という気運は高まっているが、はたと立ち止まり周囲を見回してみると、熱心に防犯に取り組んでいるのは「一部の関心の高い」主に「小さい子どもを持つ母親」か、教育者や警察・市民団体など、子どもたちを取り巻くいわば関係者ばかりである。
例えば、私の子どもが通う学校の生徒は五〇〇人以上いる。しかし、防犯メールの配信を希望している父母は一〇〇人に満たない。
これは、社会全体の縮図でもあろのだろう。関心の高い大人と、関心が無いか低い大人の割合は、おそらくいまだにそんなものだ。
防犯に対する熱意の温度差には、地域によってもかなりの開きがある。町ぐるみでなんらかの活動に活発に取り組んでいる場所があるかと思えば、ようやく人々が腰を上げたばかりの場所もある。もちろん数年前よりも「対岸の火事」という感覚は薄れてきてはいるが、身近に重大事件が起きないと本腰を入れて動かないのが普通なのだ。
だが、重大事件が起きなくても、軽微な犯罪の予兆はそこかしこに見られる。小さな犯罪なら子どもが巻き込まれてもいいか、といえばそんなことはないはずだ。防犯に対する熱意の温度差は、幼い被害者を減らす活動にとって大きなハードルとなっている。なぜなら、当然だが「守ろうとしない地域の子ども、守ろうとしない親の子ども」は、被害に遭う確率がとても高いからだ。
現実問題として自分自身が精神的にも経済的にも精一杯の毎日を過ごしているために、子どもの身の安全まで考える余裕のない親は多い。それは仕方のないことではあるが、そういう家庭の子どもは、実質的に「安全で安心な生活」を保証されないまま成長するしかなくなっていく。
しかし本来、防犯に対する親の関心が高かろうと低かろうと、どんな家庭の子どもでも犯罪から守られなくてはならないはずである。自分の子どもや顔見知りの子どもが犯罪被害に遭うのはたまらないが、子どもを守る気のない親が育てている、見ず知らずの子だったら怖い目に遭っても仕方ないなんて、微塵も思ってはいけない。
私たちは、どうも子どもが犯罪の被害者にならないようにすることばかりを考えがちだが、その犯罪の「加害者」は、どのように作られるのだろう?
そもそも、生まれついての犯罪者なんかいない。どうやって人が犯罪者になるのかは知る由もないが、一つわかっていることは、犯罪者の多くは「元は被害者だった」ということである。
子ども時代を幸せに過ごすことができた人は、その安心の記憶を土台に、幸せな人生を作り上げていく力を得る。しかし、つらい子ども時代を過ごさねばならなかった人は、その力を得損ねる。そういう人が増えることは、社会全体がつらく困難なところになっていくということだ。
一人ひとりの子ども時代を守ることが、ひいては社会全体を守ることにつながるのである。だとしたら、どのような家庭環境の子どもも取り漏らさずに(親の関心が高いか低いかなどに関係なく)、安全で安心な生活ができるように取り計らわなくては、どんな防犯対策もしょせん「対症療法」に過ぎないのではないだろうか。
― 子ども時代に「被害者」となる子を一人も作らない
これが、犯罪からすべての子どもを守るための第一歩だと私は思う。
(以上、まえがき前半部分)
夜回り先生からの流れで読んだ。
アメリカのテレビ番組での実験。
「ぼくの子犬が迷子になちゃったんだ。いっしょに探してくれないかい?」と親しげに近づいてきた青年に、何秒で子どもたちについていってしまうか。
怪しい人にはしっかり「ノー」と言うようにしっかり教育していると親が自信を持つ子のみ集めた。しかし、なんと平均35秒で、ほとんどの子どもがこの手に引っかかって、青年について行ってしまった、というのである。「怪しい人にはついて行かない」と教えられているはずなのになぜついていってしまったのか。子どもたちは「あの人はいい人」と判断してしまった。犬を一緒に探してほしいと頼んできた困っている人、「悪いことをしようとする人」ではない。と35秒で子どもたちは決めてしまった。
不審者ってどんな人のことを言うのだろうか。「人を見たら泥棒と思え」と子どもに人間不信になるようなことを教えなければならないのか。「困っている大人がいてもかかわるな」ということか。知らない人には「あいさつするな、親切にするな」ということなのだろうか。信頼できる大人が近くにいればその人に任せるように指導することが最善か。
犯罪が起きやすいといわれるポイントは、次の通りだそうである。
見通しの悪い公園、住宅街から離れた河原や雑木林、神社・お寺の境内。
空き家や空きアパート、工事中の建物や工事現場、資材置き場。
建物の陰になるビルの谷間のような駐車場、管理人のいない駐輪場や線路脇の歩道・高架橋の下、地下道。
マンションの階段や屋上、エレベーターの中。
落書きの多い場所やゴミが散乱しているところ、路上駐車の多い竹やぶ沿いの道、歩道にガードレールがない道。
公衆トイレ、繁華街。
六歳の子どもに判断させるには次のように話す。
そこは、誰でも「入りやすい」場所ですか?
そこは、地域の大人から「見えにくい」場所ですか?
………では、そこは「危険」でしょうか、「安全」でしょうか。
マニュアルどおりにいかないから困ったものです。