ぶらっとJAPAN

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堀 文子【一所不住・旅展】 ~ 兵庫県立美術館 ~

2015-06-08 21:51:32 | アート

 最近アートづいていますが、今見とかないと! というものが目白押しなのでご容赦ください。

 というわけで、兵庫県立美術館の『堀 文子展』に行ってまいりました。最終日の日曜日ということで混んでいましたが、多くの作品が展示されていたためか一カ所に人が固まることはなく、ゆっくりと鑑賞できました。

 今回初めて堀文子さん(画伯とお呼びすべきかもしれませんが、それだとあまりに色気がなく、ふさわしくない気がするので)の作品を拝見したのですが、とにかく色がキレイです。女性らしい華やかさとたおやかさを感じさせて、さぞかしお若い頃は色っぽかったのだろうなと拝察します。御年95歳の現在の肖像写真も飾られていましたが、上品さの中にほんのり甘やかな色気が滲みでていて羨ましい限りです。

 主催者の方も美しい色彩に目移りなさったのか、館内のあちこちに飾られた展覧会の展示物がすべて違う作品になってました。

 変転するスタイルのほぼすべてを網羅していると言っていい展覧会ですので、見ごたえあります。ルソーなどの影響を感じさせる初期の作品とかわいらしい絵本から純然たる日本画へ、それから南米の鮮やかな色彩への回帰、そしてミクロコスモスを追求した現在。その奔放さと、こうと決めたら動かずにはいられない、きかん気の強さを感じさせるダイナミックな変遷です。

 ずっと現役で好きなことに打ちこめる人生は憧れです。会場には50~60歳くらいの女性が多かった気がしますが、寿命が延びて「老い」を過ごす時間が長くなった昨今、人生のお手本にしたいと思う方は多かったのではないでしょうか。

 最終日だったとはいえ図録はすでに完売、帰りに予約申込しましたが、88番目でした(^^;)

 というわけで現在図録が手元にないので若干記憶が怪しいところがありますが、思いつくままに印象に残ったものをあげていきます。

 あちこちに下がっている幕は、さすが選ばれただけあってどれも好きな作品です。大磯や軽井沢に移ってからの日本画もよかったです。華やかな色味から一転、無駄をできる限りそぎ落とそうという厳しさを感じましたが、鋭角な線描でありながら、どうしようもなく顔をのぞかせる女性性と、自然や小さな生き物に対する深い愛情に満ちた視線が印象的でした。

 別の展覧会の時に、昔から好まれてきたモチーフを新鮮に描くのは難しい、みたいな感想を書きましたが、堀文子さんの桜はシンプルな構図にも関わらず、いつまで見ていても飽きません。きっとそれは、ご本人がおっしゃっているように、無心に集中することから生まれるリズムが画面に心地よい緊張感を生んでいるからだと思います。大磯や軽井沢に移住してからの作品は、わくら葉でさえ美しいです。自然と対話する画家と言う人種は、人間以外の創造物の存在をつねに意識していて、だから豊かになれるのかなと思います。

 高度な文明社会で生きる現代の人間は、世界をどんどん均質なものにしようとしていて、似通った価値観に馴れと安心を求めがちですが、(グローバルデザインとか確かに便利ですけれども)本当は、世界はもっと多様性に満ちていて、例えばトカゲとかカエル、あるいは深海魚なんかを見ていると、人間の姿からは想像できないほどユニークなフォルムで環境に適応しています。時にグロテスクに感じることもありますが、そういう異化があって初めて自然というか、地球が前に進む気がします。文子さんはそういうことをよくわかってらっしゃるんだと思います。

〈霧の野〉(1960年 東京国立近代美術館蔵)

まだ綿菓子のような甘さがあります。

 色は欲望だと言います。すべてを悟った人の世界はモノクロームで味気ない、と聞いたことがあります。味わいたい、手に入れたいという欲求が世の中を美しくしているのです。だから、これほどの色彩を持つ文子さんは、実になまなましく世界にコミットしようとしている方なのだと思います。

 そのきっかけの一つは、パートナーの早逝じゃないかと感じました。今回の展覧会でチラシに使われている絵、病床の夫を見舞いに通った道にかぶさるように、季節の花々とジョウビタキを描いたものがありました。一羽きりでとまっているジョウビタキは、声を限りに鳴いています。白ちゃけた無機質な道に比べ、花々や鳥は優しい色彩に満ちています。特に鳥の赤い胸元が鮮やかです。これって、家族の死を経験することによって得た末期の目だと思うのです。刻一刻と近づいてくる夫との別れの時。なすすべもなく大切なものを喪おうとしている、その絶望の淵からみつめる世界はどうしようもなく美しい。この世界をもっともっと彼と見たい! 口を精いっぱいにあけて鳴くジョウビタキの姿は、文子さんが慟哭する姿に重なります。そして私たちは、たとえ負の感情であっても、あるいはそれだからこそ、激情に突き動かされて描かれたであろうこの絵に心を揺さぶられるのです。生きることへの執着と決してかなわない悲しみ、それこそが美の原点なのかもしれません。

「『失う』という事実自体は、不幸ではない」と言った人がいます。後年、大病をなさって外に出ることが難しくなった文子さんの関心は、微生物に向かいます。ミジンコや甲骨文(こうこつもん)の美に魅せられていく文子さんの作品を見ていると、生のカタチは無限にあって、失ったからこそ見える世界もあるのだなと気づかされます。ミクロな世界は実は外向きの宇宙につながっていて、人間を超越していきます。一点に凝縮していくことによって、より深みが増していくのです。

 というわけで、最後に私のお気にいりの一枚。これ、本物のフィギュアも展示してありましたが、このギュッと凝縮された感じ、たまらないですね。まさに細部に神が宿る、です。

「サミット」(1997年)

この色の密度。たくましい生命力を感じます。

 

 ちなみに展覧会は終わってしまいましたが、図録は通信販売を受けつけているもよう(もちろん予約ですが)。興味のあるかたはぜひ(^^)/

 


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