去年の12月、もう3ヶ月以上前のことだが、渋谷のBunkamuraザ・ミュージアムで開催されていた 『ロートレック・コネクション』 のことを振り返ってみようと思う。
ロートレックに関する展覧会は、何らかの形で毎年と言っていいくらい日本で開催されている。去年、サントリー美術館で開催された 『ロートレック展』 にも行った。
今回は、ロートレックの作品はもちろん、36年という彼の短い生涯の中で交流のあった画家たちの作品が一緒に展示された。
3つの時代がテーマになっていて、まず最初のテーマは “画学生時代 -出会いと影響-”。
最初の絵は、ロートレックが美術の道に進もうとしたきっかけとなった最初の師、ルネ・プランストーの作品。ルネ・プランストーは馬の絵を専門に描いた画家で、師匠と似た題材の馬の絵を、ロートレックも描いている。
ロートレックがコルモンの画塾に入って出会った、ルイ・アンクタンやエミール・ベルナールらの絵がたくさん紹介され、後に画塾に入ってきてロートレックと親しくなるゴッホのステキな絵が、このセクションの最後を飾っていた。
フィンセント・ファン・ゴッホ 『モンマルトルの丘』(1886)
次のテーマは、“モンマルトル -芸術の坩堝(るつぼ)-”。恐らく、ロートレックがいちばん輝いていた時代であろう。
ここで最初に目を惹いたのは、お馴染みスタンランのキャバレー 「黒猫」 のポスター。モンマルトル美術館でも見たが、作品リストの所蔵先が川崎市市民ミュージアムだったのには驚いた。
テオフィル=アレクサンドル・スタンラン 『シャ・ノワール巡業公演』(1896)
その後は、続々とお馴染みのロートレックのリトグラフが続いた。大好きな作品がたくさん展示されていたので、ワクワクした。
キャバレー 「ムーラン・ルージュ」 のポスターは、第一作目はジュール・シュレが制作して大好評を得たが、第二作目を手がけたロートレックも大成功を収めた。
彼のリトグラフには、彼が浮世絵に巡り会い、虜になり、熱心に研究したという影響が現れている。
ジュール・シュレ 『ムーラン・ルージュの舞踏会』(1889)
アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック 『ムーラン・ルージュのラ・グーリュ』(1891)
実はこの 「ムーラン・ルージュ」 のポスターが、ロートレックが描いた最初のポスター。真ん中で踊っているのは、人気ダンサー、ラ・グーリュで、手前のシルエットは、彼女とコンビを組んでいたダンスの名手 “骨なしヴァランタン”。ポスターには、「ムーラン・ルージュ」 の判が押されていた。
「カフェ・コンセール」 の開店用のポスターは、数ある好きな作品の中でも特に好きな作品。タイトルの 『ディヴァン・ジャポネ』 を訳すると、“日本の長椅子”。モデルはダンサーのジャヌ・アヴリルで、彼女を描いている他の作品も展示されていた。
このふたつは構成が似ていて、斜めの線とコントラバスの上部が共通している。
『ディヴァン・ジャポネ』(1893)と、『ジャヌ・アヴリル』(1893)
とても興味深くて良かったのが、その 「カフェ・コンセール」 に寄せたリトグラフの連作。
『アリスティッド・ブリュアン』 『ポランの歌を聞く婦人』 『奇妙なイギリスのコメディアン』(1893)
最後のテーマは、“前衛集団の中で”。ロートレックをリトグラフの道に導いたと言われている、ピエール・ボナールの作品から始まった。
ロートレックやゴッホ同様、浮世絵に多大な影響を受けたというドガやドニ、アール・ヌーヴォーを代表するムハ(ミュシャ)の作品はとても綺麗で妖艶で、惹きつけられた。
モーリス・ドニ 『ランソン夫人と猫』(1892) アルフォンス・ムハ 『ジスモンダ』(1894)
この頃のロートレックの作品は油彩画が多く、特に肖像画が印象に残った。モデルの婦人の個性が表現されている 『マルセル』 や、横向きでの立ち姿の肖像画 『アンリ・ディオー氏』、そしてポスターを手がけることで親しくなったという英国の自転車製造メーカー、シンプソン社のフランス支社総代理人の肖像画 『ルイ・プグレ氏』 は、英国紳士の気品さが滲み出ていた。これら3作は、色合いも似ている。
『マルセル』(1894)、『アンリ・ディオー氏』(1891)
『ルイ・プグレ氏』(1898) 『シンプソンのチェーン』(1896)
とってもステキだったのが、「ルヴュ・ブランシュ」 という雑誌のために描いたポスター。モデルは、雑誌の創設者タデ・ナタンソンの妻で、人々のあこがれのミューズ、ミシア。
「ルヴュ・ブランシュ」 誌のためのポスター(1895)
ロートレックは、とても由緒ある大貴族の嫡男として生まれ育ったが、幼年期に両足を二度骨折し、それが原因で上半身は成長するも、下半身は発育不良のままという異常な容姿だった。しかしそれは骨折だけが原因ではなく、両親が従兄妹同士という家系内での血族結婚がもたらした悲劇とも言えよう。
世間から差別的視線で見られていた彼は、極めて背の高い人を好み、自分を冗談の種にしていたという。そして、ダンスホールや酒場などに出入りするようになり、娼婦や踊り子ら夜の世界の女たちに共感し、彼女らを描くことに情熱を費やしたのだった。