slow debate 救いに関して 2013-02-17 22:45:53 | 日記 そもそも贖いによって救われた感覚が エホバの証人にあるでしょうか? それともハルマゲドンのあとまで 救われた感覚は、無理なのか 正統派キリスト教会は、エホバの証人にここをツッコミを入れます。 milestoneさん動機をお願いします。 « SLOW debate 聖書の成立と確立 | トップ | slow debate それでも一般教... »
7 コメント コメント日が 古い順 | 新しい順 話に加わります (ぴゅう) 2013-02-17 23:15:02 興味深いテーマです。milestoneさんが、動機を書いたら、僕も話しに加わらせてください。 返信する 救いについて (milestone) 2013-02-18 00:07:38 今晩 夕食時に家内と話してまして 神に奉仕することについてとか 人が許されることについて話してたんです。時間の奉仕を評価するって神ではなくて人間でしょう?とか ヒトラーは許されるのとか話たのです。僕はヒトラーにも贖いは当てはめられると言ったら 家内は否定的な事を言いました。いつもここに来ると感情論になるのでやめるのですが。僕は贖いの教えを突き詰めるならばどんな悪人でも許されていると思うのですただ それに気づかない人が多いとおもうのです贖いによって 自分は救われているんだという思いがあれば 今この時を実感をもって生きることができると思うのです。ハルマゲドン後の実感てわかりませんぴゅうさんありがとう!007さんの真剣勝負がうれしい! 返信する 救いと贖い (義之) 2013-02-19 16:27:24 今日、レビ記を読みました。律法契約だけ読むと、人間の罪深さや神との絶対的な壁を感じて気持ちがどんよりするのですが、その神との壁を取り払ってくれたイエスの贖いは、人間の絶望からの救いだと、レビ記を読んで改めて考えさせられました。 救いを実感するにはまず自分が罪人だと認めることから始まるんだなとも思いました。今日、レビ記を読んで自分は罪人なんだと思い知らされました。(あまりいい気持ちではない)でもその後に贖いについて考察したところ、神からの愛を感じて、神のご意志であるキリストの説いたアガペーを実践しようという前向きな気持ちになりました。これが贖いの救いだと思います。 この救いを考えずに、楽園の救いを第一に考えてしまうと、ハルマゲドンで滅ぼされるか・滅ぼされないかに目がいってしまうと思うのです。そしてどうすればハルマゲドンで滅ぼされないか・神の是認を得られるかと考えるようになり、恐怖心から規則を守ったり業を行ったりするのではないかと思います。非常に後ろ向きな気持ちです。以前の私がそうでした。 いずれにしても業を行いますが動機が全然違います。私は2世として育ちましたが、聖書を真面目に読んで考えるまでは、後者の考え方でした。前者の考え方になったのは神の愛を知りたいと何回も祈って、自分で聖書を調べた結果です。もとより神の助けのおかげです。 楽園は真に救われる時ですが、その前にイエスの贖いの救いを実感することが必要なんじゃないかと私も思います。 長々とすみません。 返信する 救いに関して (ぴゅう) 2013-02-20 21:28:16 返事が遅くなりました。 milestoneさんは、今救われているという実感を持って生きているんですね。僕も似たような感覚を持っています。 命の救いというのは、将来に起こることなのだけれど、その希望そのものが、今という時間の中でも、救いを与えているような感じを持っています。 贖いによって、罪を許されたという実感、救いの中にいるという実感は、今という時間の中でも感じることができると思います。 聖書では、信仰というのは「保証された期待」と書かれていますが、これは不思議な表現だなぁと思いました。 期待というのは、将来に実現されるものなのに、今の時点で保証されていると書かれているからです。 だから、将来起こる救いが、今実感できているような感じを僕は持っています。 返信する 記念式を終えて (半熟) 2013-03-31 11:40:48 まるで仮想大会のような方たちが何人かいらしてて、お決まりの撮影会で幕を閉じた記念式でした。イエスの贖いは等しく全人類のためのものなので、贖いが支払われた時点で救われているということなのでしょうけど、やはりJW的には救いは将来のハルマゲドン以後のことという感覚を持っている人が多いように思います。今は救いを確実に自分のものとするために精力的に励む時なので、現時点では救われているわけではないというところでしょうか。知り合いに熱心なプロテスタントの方がいるのですが、その方の純粋な神への愛と信仰に常々感銘を受けています。ネット界をのぞくようになる前からの知り合いですが、信じる対象こそ違ってもこの人の信仰は本物だろうとずっと思っていました。特に年末からこの時期にかけては、その方も忙しくされていて、聖歌隊に所属されていることもあり、クリスマスの特別礼拝や年始の徹夜礼拝、復活祭などにも必ず参加して神に感謝する時を過ごしているようです。そして明らかにその方は<救われているという実感を強く持っていたように思います。楽園ではどんなことをしたいですか?という質問が時々ありますが、完全な健康とか動物と遊ぶとか復活してきた人に会うとかいう答えが多くて、この人たちにとって、そしてまだJWに在籍している私にとっての救いとはいったいなんなのだろうとたびたび疑問に思います。究極的には、神の子供の栄光ある自由をもつということだと思うのですが。それを願っている人はどれくらいいるのでしょうね。 返信する (投稿失敗、続きです) (半熟) 2013-03-31 11:45:46 そして明らかにその方は、救われているという実感を強く持っていたように思います。楽園では何をしたいですか?という質問が時々ありますが、動物と遊ぶとか完全な健康とか復活してきた人に会うとかいう答えが多くて、この人たちにとって、そしてまだJWに在籍している私にとって、そもそも救いとは一体何なのだろうかとたびたび疑問に思います。究極的には、神の子供の栄光ある自由をもつというところなのでしょうけど、それを願っている人はどれくらいいるのでしょうね。 返信する Unknown (スナフキン) 2013-04-04 23:17:47 このトピックも実はとても興味があって,注目していたのですが,あまり,皆さん関心がないのでしょうか?私はJW2世ですが,今現在救われているという実感ははっきり言ってないです。半熟さんが言っておられる感覚です。救いはハルマゲドンの通過後楽園で,ということになると思います。この点は,論じるの「救い」の説明を見ても,ほぼ,そういう書き方ですので,一般的なJWはそうなんじゃないでしょうか?ただ,私の場合は自分が救いをどうしても必要としている,という感覚も薄いと言えば薄いです。時が来れば人は死んでしまうものだし,じたばたしてもはじまらない。神が愛の神であるならきっと,なんとかしてくださるだろう。という感覚です。私はもともと,信仰心が薄いのでしょうか? 返信する 規約違反等の連絡 コメントを投稿 ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。 goo blogにログインしてコメントを投稿すると、コメントに対する返信があった場合に通知が届きます。 ※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます 名前 タイトル URL ※名前とURLを記憶する コメント ※絵文字はJavaScriptが有効な環境でのみご利用いただけます。 ▼ 絵文字を表示 携帯絵文字 リスト1 リスト2 リスト3 リスト4 リスト5 ユーザー作品 ▲ 閉じる コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。 コメント利用規約に同意する 数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。 コメントを投稿する
時間の奉仕を評価するって神ではなくて人間でしょう?とか ヒトラーは許されるのとか話たのです。僕はヒトラーにも贖いは当てはめられると言ったら 家内は否定的な事を言いました。いつもここに来ると感情論になるのでやめるのですが。僕は贖いの教えを突き詰めるならば
どんな悪人でも許されていると思うのです
ただ それに気づかない人が多いとおもうのです
贖いによって 自分は救われているんだという思いが
あれば 今この時を実感をもって生きることができると思うのです。ハルマゲドン後の実感てわかりません
ぴゅうさんありがとう!
007さんの真剣勝負がうれしい!
律法契約だけ読むと、人間の罪深さや神との絶対的な壁を感じて気持ちがどんよりするのですが、
その神との壁を取り払ってくれたイエスの贖いは、人間の絶望からの救いだと、レビ記を読んで改めて考えさせられました。
救いを実感するにはまず自分が罪人だと認めることから始まるんだなとも思いました。
今日、レビ記を読んで自分は罪人なんだと思い知らされました。(あまりいい気持ちではない)
でもその後に贖いについて考察したところ、神からの愛を感じて、神のご意志であるキリストの説いたアガペーを実践しようという前向きな気持ちになりました。
これが贖いの救いだと思います。
この救いを考えずに、楽園の救いを第一に考えてしまうと、ハルマゲドンで滅ぼされるか・滅ぼされないかに目がいってしまうと思うのです。
そしてどうすればハルマゲドンで滅ぼされないか・神の是認を得られるかと考えるようになり、恐怖心から規則を守ったり業を行ったりするのではないかと思います。
非常に後ろ向きな気持ちです。以前の私がそうでした。
いずれにしても業を行いますが動機が全然違います。
私は2世として育ちましたが、聖書を真面目に読んで考えるまでは、後者の考え方でした。
前者の考え方になったのは神の愛を知りたいと何回も祈って、自分で聖書を調べた結果です。もとより神の助けのおかげです。
楽園は真に救われる時ですが、その前にイエスの贖いの救いを実感することが必要なんじゃないかと私も思います。
長々とすみません。
milestoneさんは、今救われているという実感を持って生きているんですね。僕も似たような感覚を持っています。
命の救いというのは、将来に起こることなのだけれど、その希望そのものが、今という時間の中でも、救いを与えているような感じを持っています。
贖いによって、罪を許されたという実感、救いの中にいるという実感は、今という時間の中でも感じることができると思います。
聖書では、信仰というのは「保証された期待」と書かれていますが、これは不思議な表現だなぁと思いました。
期待というのは、将来に実現されるものなのに、今の時点で保証されていると書かれているからです。
だから、将来起こる救いが、今実感できているような感じを僕は持っています。
イエスの贖いは等しく全人類のためのものなので、贖いが支払われた時点で救われているということなのでしょうけど、やはりJW的には救いは将来のハルマゲドン以後のことという感覚を持っている人が多いように思います。今は救いを確実に自分のものとするために精力的に励む時なので、現時点では救われているわけではないというところでしょうか。
知り合いに熱心なプロテスタントの方がいるのですが、その方の純粋な神への愛と信仰に常々感銘を受けています。ネット界をのぞくようになる前からの知り合いですが、信じる対象こそ違ってもこの人の信仰は本物だろうとずっと思っていました。特に年末からこの時期にかけては、その方も忙しくされていて、聖歌隊に所属されていることもあり、クリスマスの特別礼拝や年始の徹夜礼拝、復活祭などにも必ず参加して神に感謝する時を過ごしているようです。そして明らかにその方は<救われているという実感を強く持っていたように思います。
楽園ではどんなことをしたいですか?という質問が時々ありますが、完全な健康とか動物と遊ぶとか復活してきた人に会うとかいう答えが多くて、この人たちにとって、そしてまだJWに在籍している私にとっての救いとはいったいなんなのだろうとたびたび疑問に思います。
究極的には、神の子供の栄光ある自由をもつということだと思うのですが。それを願っている人はどれくらいいるのでしょうね。
楽園では何をしたいですか?という質問が時々ありますが、動物と遊ぶとか完全な健康とか復活してきた人に会うとかいう答えが多くて、この人たちにとって、そしてまだJWに在籍している私にとって、そもそも救いとは一体何なのだろうかとたびたび疑問に思います。
究極的には、神の子供の栄光ある自由をもつというところなのでしょうけど、それを願っている人はどれくらいいるのでしょうね。
私はJW2世ですが,今現在救われているという実感ははっきり言ってないです。半熟さんが言っておられる感覚です。
救いはハルマゲドンの通過後楽園で,ということになると思います。
この点は,論じるの「救い」の説明を見ても,ほぼ,そういう書き方ですので,一般的なJWはそうなんじゃないでしょうか?
ただ,私の場合は自分が救いをどうしても必要としている,という感覚も薄いと言えば薄いです。
時が来れば人は死んでしまうものだし,じたばたしてもはじまらない。
神が愛の神であるならきっと,なんとかしてくださるだろう。という感覚です。
私はもともと,信仰心が薄いのでしょうか?