怒れる中年

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小沢一郎は、なぜ袋叩きにされるのか?  [そのⅡ]

2012年07月16日 | 国際・政治

疑問(2) 小沢一郎の25年間とは何だったのか ?

        第一幕:自民党離党・・・細川連立政権樹立     

            

〈1〉 自民党の長期一党支配が崩れた!  

 一見すると、小沢氏の「政党破壊と新党の繰り返し」は、自民党に始まり、新政党、新進党、自由党、民主党、そして今度の新党「国民の生活が第一」・・・と、マスコミの言うとおりでした。

 しかし、視点を少し変え、「政党破壊と新党」という “形態” だけでなく、その繰り返しを通して貫かれているもの、変わってきたものは何か・・・を見てみると、様相はまったく違ってきます。

 すなわち、この25年間に政治の世界で何が起こったか?

 自民党の長期一党支配が崩れたことではないでしょうか。

  「自民党は倒せない」、「日本の政治は変わらない」と諦めていた私たちに、自民党の内部から分裂が起こり、「2大政党」の政治をつくってみせたのが、この25年間だったのではないでしょうか。その大きな役割を担ってきたのが小沢一郎という政治家だったのではないでしょうか。

 しかし、後述しますが、自民党も倒れてばかりはいませんでした。

 凄まじいばかりの権力復活劇を見せつけてくれました。

      

〈2〉 第一幕: 細川連立政権の樹立と崩壊 (この節は敬称を略します)        

● 平成元年(1989年):小沢、竹下派から47歳の若さで自民党幹事長に。

● 平成4年(1992年):東京佐川急便事件により、小沢の後ろ盾であった金丸竹下派会長が派閥会長を辞任、議員も辞職。その後の竹下派内の抗争で、小渕恵三や梶山静六等に敗れ、羽田孜、渡部恒三等と「改革フォーラム21」を旗揚げ。

● 平成5年(1993年)5月:小沢一郎、著書『日本改造計画』を発表。「国際貢献」や「経済改革」と合わせて、「政権交代可能な二大政党制のための政治改革」を強調した。70万部を超えるベストセラーに。

● 平成5年(1993年)6月:小沢等の「改革フォーラム21」は野党から提出された宮沢内閣不信任案に賛成し、自民党を離党。衆院議員36人、参院議員8人の計44人の国会議員で新生党を結成。党首は羽田。小沢は党代表幹事に。

不信任案可決により宮沢内閣は解散、総選挙へ。

● 7月:第40回総選挙。自民党は前回の275から223議席に減少。与党の過半数割れに。社会党は136から70議席に激減。新生党55、公明党51、日本新党(代表:細川護煕)35、新党さきがけ(代表:武村正義)13など…新党が躍進。新生党は、自民、社会に次ぐ第3党となった。

● 8月:新生党、日本新党、新党さきがけ、社会党、公明党などの8党会派で「非自民・非共産」の細川連立政権を樹立し、「政治改革」を掲げた。。

38年間続いた自民党の一党支配が崩され、「わが世の春」を謳歌してきた自民党が権力の座から追い落とされた。「自民党の政治は変わらない」と諦めていた多くの国民にとって、これは画期的なことだった。

小沢はその中心的役割を担った。

だがしかし、自民党に対抗できる政党が育ち「二大政党制」になったということではなく、あくまでも一時的な8党派の寄せ集めという脆いものであった。自民党は、復権のために、そこに楔を打ち込んできた。

 連立政権樹立後、細川政権下で、連立与党の中心である小沢と、政府の要である官房長官の武村との対立が激化したことも大きい。

● 平成6年(1994年)1月:細川連立政権のもと自民党との合意によって、小選挙区比例代表並立制導入の「政治改革法案」が成立した。

● 4月:「国民福祉税」構想の混迷などもあり、細川首相辞任。

同年4月:羽田連立政権発足。

同年4月:社会党、連立政権から離脱。羽田政権は少数与党に。

● 6月:自民党によって羽田内閣不信任案が提出される。羽田内閣は解散・総選挙を断念し、総辞職に追い込まれた。64日間の短命だった。

 ・・・・・ 長い間の自民党長期政権を倒す試みとしての反自民連立政権は、細川、羽田内閣を経て、成立から1年足らずの327日で頓挫した。

 再び自民党が政権に返り咲くが、その手法はあっと驚くものだった。 

                            ・・・・・ [そのⅢ]に続く。

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