人生にはさまざまのことがある。当たり前のことだ。でも、つらいこと、悲しいこと、時間が経っても忘れられないこと・・・などに直面すれば、やっぱり、つらい。
多くの人が何度も経験し、通り抜けてきたことに違いないのだが…。
おととい、横浜の友人がメールで「Fさんが亡くなったそうだ」と、知らせてきてくれた。
えーっと驚き、すぐ、あちこちの友だちに問い合わせのメールを打った。山形に戻る前の東京時代、15年ほども前の仲間たちなので、詳しいことは分からなかった。
昨夜、失礼かと思いつつも、奥さんに電話をしてみた。「間違いかも…」との思い半分で。
もう20年ほども会ってないのに、奥さんは覚えていてくれた。
「間違いなら大変恐縮なのですが・・・」と言っただけで、「Fのことでしょ、間違いじゃないですよ」と言われた。
えーっ、やっぱり…、ショックだった。
癌との闘病を続け、最後は内臓全部に広がり、点滴だけの生活だったとのこと。
2009年7月31日、力尽きた、とのこと。
「自分でも、『こんなに痩せて…』と言いつつ、治療という治療は全部受け入れて…。私には、あそこまでの治療はできない…」(奥さんの話)
「子どもは中学2年と3年。最後まで、子どもが成人するまでは…と言っていた」
Fさんは、外見は、はっきり言って悪いが、茫洋としているようでいて、でも、本当に信頼できる骨太の人間だった。
彼との付き合いは、私の在京時代、かれこれ35年ほど前から。
彼は鹿児島出身の薩摩っぽ。口数少なく、根は頑固者。彼には嘘がない。彼が心にもないことを言ったのを、長い付き合いで一度も聞いたことがない。
初めて知り合った20代の頃、一緒に勉強会を始めたが、読めない漢字があると、次回からは調べて振り仮名を振ってきていた。30才くらいになって、「字がへただから」と習字の塾に通い出した。「小学生と肩を並べて勉強するんですよ」と言っていた。
そして、いつの間にか、私などよりずっときれいな字を書くようになっていた。
Fさん! まだ中学生の子どもさんたちと奥さんを残して、さぞ無念だったろう。
自分は、何にもできなくて悪かったねえ・・・。
来週、埼玉のあなたの家に行って、線香あげさせてもらうよ。
あなたが、私のところのホームページに書いた癌の手記も、奥さんに届けることにしているよ。奥さんは見たことないらしいから。
今、読み直したけど、いかにもFさんらしい原稿だぞ。
「・・・二度再発している私としては、治療方法が無くなってきていることもあり、食事療法(玄米菜食)でガンを克服できるのであればとの思いで玄米菜食を始めました。子どもたちが成人するまでは、何とか生きながらえたいとの思いです・・・」(Fさんの手記から)
? この全文は、私が代表をしている(有)保険相談所のホームページで、「お知らせ」の2008年4月22日のところに掲載してあります。アドレスは下記のとおりです。
http://www.tmn-agent.com/hokennsoudannsho/
この手記の直後、今から1年半ほど前、上野の西郷さんの銅像のところで、仲のよかったムーミン(S君の通称?)と3人で会ったけど、Fさん、あなたの変わりように言葉もなかった。
あなたは、本当に、最後まで頑張りぬいたんだね。それも、多分、自分のためというよりも、奥さんや子どもさんたちのために。
そのうち、あっちで、また会おうよ。
2009年09月12日
山田 吾作(私が東京にいたころのペンネームです)