日本人に一番受けるのは「二六抜き短音階」、という結論は1983年、小泉文夫先生が最後の著作「歌謡曲の構造」の中で明らかにしている。
ドレミで言えば「レファソラド」、追分節やわらべ歌の音階、多分、誰でもこのレファソラドを行ったり来たりすれば、それらしい、日本風の旋律は簡単にできる。
問題はここからだ。
あまり考えずに旋律を作ると、2小節とか4小節の単位でまとまってしまう。
これは言ってみればドイツ的、日本的ではない。
日本の民謡を、便宜上2拍子でカウントすると、4小節とか8小節はまずない。6小節や7小節が多い。
これをドイツ的感覚で眺めれば、字余り、あるいは字足らず的に感じそうなのだが、もちろんそうは感じない。
ドイツ的と表現したが、例えばフランスはそのような均整感は弱く、何拍子だかわからない、ふわふわしたリズム感の民謡が目立つ。
イタリアも、あまり4とか8とかにあてはまらない感覚がある。民謡ではないけれど「フニクリフニクラ」は9小節単位、ヴィヴァルディの「春」の冒頭は3小節。
いずれの場合も不均整感は全くない。
しかし井財野はというと、プロポーションの良い6小節や7小節の旋律を、なかなか作りきらない。何故かドイツ的なものに染まってしまった我が身の腑甲斐無さを感じる今日この頃なのである。
ドレミで言えば「レファソラド」、追分節やわらべ歌の音階、多分、誰でもこのレファソラドを行ったり来たりすれば、それらしい、日本風の旋律は簡単にできる。
問題はここからだ。
あまり考えずに旋律を作ると、2小節とか4小節の単位でまとまってしまう。
これは言ってみればドイツ的、日本的ではない。
日本の民謡を、便宜上2拍子でカウントすると、4小節とか8小節はまずない。6小節や7小節が多い。
これをドイツ的感覚で眺めれば、字余り、あるいは字足らず的に感じそうなのだが、もちろんそうは感じない。
ドイツ的と表現したが、例えばフランスはそのような均整感は弱く、何拍子だかわからない、ふわふわしたリズム感の民謡が目立つ。
イタリアも、あまり4とか8とかにあてはまらない感覚がある。民謡ではないけれど「フニクリフニクラ」は9小節単位、ヴィヴァルディの「春」の冒頭は3小節。
いずれの場合も不均整感は全くない。
しかし井財野はというと、プロポーションの良い6小節や7小節の旋律を、なかなか作りきらない。何故かドイツ的なものに染まってしまった我が身の腑甲斐無さを感じる今日この頃なのである。
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