井財野は今

昔、ベルギーにウジェーヌ・イザイというヴァイオリニスト作曲家がいました。(英語読みでユージン・イザイ)それが語源です。

ショスタコーヴィチ:交響曲第9番「第9ですが、何か」

2020-03-14 23:00:09 | オーケストラ
かなり好きな曲だからといって、演奏の機会がめぐってくる訳ではない。この曲もそのうちの一つ。

ショスタコーヴィチの戦争三部作という言い方がある。第7番から第9番を指す。
第7番は、ナチスドイツとのレニングラード攻防戦を、もろに描いたに近い作品。
そしてこの第9番は、戦争が終わって「さあ、何かおめでたいものを一つ書いてくれ」と言われて書いた曲。第9だから、当然ベートーベンのイメージをソ連政府も持っていたが、発表された曲は30分にも満たない軽妙洒脱な交響曲。
皆さん、肩すかしを食らった。

……くらいまでは、どの解説にも書いてある。

しかし、もっと多様な隠喩、引用、暗号等に満ちみちている曲のはずだ。これが、なかなか文章として表れてこない。
誰かがゲリラ的にどこかで書いて、でも論文扱いされないので、いつの間にか消えてしまい、みたいなことを繰り返すのが、ショスタコーヴィチの場合実に多い。

この曲を知って、かれこれ40年経つが、たった今、気づいたこともある。きっとどなたかも気づいていらっしゃるのだろうが、なかなか一般的な場で紹介されないから、私が今頃気づいてびっくりする、という状況になっている。

今頃気づいたのか、と言われるの覚悟で、私なりの見解を書いてみる。

第1楽章の第2主題の始まりのトロンボーン、これは共産党の会議でいつも同じことしか言わない委員を揶揄している、という説明はどこかで聞いていた。
なるほど、意見がとても的をえている時、場違いな時、本人も多少察して遠慮がちに言う時などが音楽化されていて、なかなか愉快な瞬間だ。

それから、第5楽章の伴奏音型はイエッセルの《鉛の兵隊の観兵式》のトリオの伴奏音型と同じだ、ということは高校生でも気づいた。
しかし、これが何を意味しているのかは、いまだにはっきりとはわからない。

40代の時、この曲を初めて指揮させてもらった。その時の勉強で、第4楽章のファゴットの不思議な旋律は、第1楽章から第3楽章を回想している、ということがやっとわかった。
ということは、ベートーベンの第9でやっていることの踏襲になる。

不惑の40では、ここまでだった。

さて、知命の50で、初めてこの曲の弦楽器トレーニングを頼まれた。
アマチュアオーケストラだが、喜び勇んで、久しぶりにスコアの勉強。

すると、何と!冒頭からベートーベンの第9が出てきているではないか。

冒頭の下行する分散和音は、第9第1楽章の下行する分散和音。続く順次進行(ファソラソファミレ)は例の《歓喜の歌》(ファーソララソファミレー)の変形だ。

大体、この交響曲の主題は、分散和音と音階でできている。これは古典派の特徴みたいなもので、ショスタコーヴィチの交響曲の中でもこれは異例である。他の交響曲の主題は、おおよそギクシャクした形をとっている。
だから、過去の名作から引用が多いに違いないのだ。

どうして、こんなに大事なことを評論家も音楽家も口に出さないのか。黛敏郎先生もおっしゃらなかった。お陰で、私はこれがわかるのに40年も経ってしまって、爺さんになってしまったよ。

まだ、あるのでは、と練習に向かう電車でスコアを見直すと、

あったよ。

第2楽章の第2主題は半音階でずり上がっていく。これはブラームスの交響曲第1番の冒頭と同じだ。
これに気づいたのは、木管の動きがブラームス的な6度3度の連なりだったからだ。

ブラームスの交響曲第1番は、批評家ハンスリックが「ベートーベンの第10交響曲」と持ち上げた作品だ。
ショスタコーヴィチが「皆さん、私にもそれをご期待ですか?」と言っているように思われてならない。

それに限らず、全作品を通して「これも第9ですが、何か(ご不満ありますか?)」というショスタコーヴィチの声が流れている、というのが、現在の私の見解である。

そして第3楽章だけ、何とつながっているか全くわからない。ブラームスの交響曲第4番の冒頭も考えたが、必然性がない。
特徴ある第2主題の伴奏音型等、確実に何かありそうなのだが。

まあ60になったらわかるかも、と思いながら、練習会場に向かったら、

人が10人くらいしかいない。

あれ?もしかして中止?

そこにいらっしゃったのは個人練習をしに集まった方々で、中止のメールは一昨日に届いていたようだ。

ショスタコーヴィチに夢中で、メールチェックを私が忘れていた、ということのようだ。あらら、オーラララ。

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