もう少し詳しい説明が必要かもしれない。
楽譜を全く読まないで歌うのは不可能。
推測であり感覚的だが、楽譜を8割くらい読むと、大まかなことはわかる。そこで「あとは歌いながら読めば良いだろう」と、歌う方に努力をかたむける。
確かにこれで9割程度楽譜を読めたところに達するだろう。
しかし、残りの1割に、見落としたニュアンス等々があって、それをコレペティトールから指摘され「凄い」と言っているのではなかろうか。
と、これは若手のお話。
ベテラン、つまり團先生の指揮で直接歌った方まで同じように「凄い」と言われると、ことはそれほど単純ではなくなる。
様々なことを考えたのだが、結論はこうだ。
作曲者が目の前にいれば、楽譜の細かいところなど読まなくとも、直接尋ねれば良いのである。作曲者だって、譜面に書ききれなかったこともあるだろうし、譜面と少し違っていても「それはそれでいいか」と作曲者が思えばそこまでだ。
となると、作曲者がお亡くなりになって尋ねようがなくなった時、初めて本格的に楽譜の「解釈」というものがスタートするのだろうか、と思ったのである。
ベテランの場合は、作曲者存命中のスタンスから抜けきれないゆえに、最終的に「コレペティ凄い」になってしまうのかな、と思った次第である。
楽譜を全く読まないで歌うのは不可能。
推測であり感覚的だが、楽譜を8割くらい読むと、大まかなことはわかる。そこで「あとは歌いながら読めば良いだろう」と、歌う方に努力をかたむける。
確かにこれで9割程度楽譜を読めたところに達するだろう。
しかし、残りの1割に、見落としたニュアンス等々があって、それをコレペティトールから指摘され「凄い」と言っているのではなかろうか。
と、これは若手のお話。
ベテラン、つまり團先生の指揮で直接歌った方まで同じように「凄い」と言われると、ことはそれほど単純ではなくなる。
様々なことを考えたのだが、結論はこうだ。
作曲者が目の前にいれば、楽譜の細かいところなど読まなくとも、直接尋ねれば良いのである。作曲者だって、譜面に書ききれなかったこともあるだろうし、譜面と少し違っていても「それはそれでいいか」と作曲者が思えばそこまでだ。
となると、作曲者がお亡くなりになって尋ねようがなくなった時、初めて本格的に楽譜の「解釈」というものがスタートするのだろうか、と思ったのである。
ベテランの場合は、作曲者存命中のスタンスから抜けきれないゆえに、最終的に「コレペティ凄い」になってしまうのかな、と思った次第である。