ふと図書館で目に入ってしまった本がある。
〈「分衆」の誕生〉
「今や大衆は存在しない。」という考えから生まれた造語。
何かそんなのがあったな、と思い手に取ってみた。
博報堂の研究所が出した1985年の本だった。思ったより古い。私の認識では堺屋太一の〈知価革命〉(89年頃)以降かと思っていた。コンピュータ社会によって大衆が消えたかと思っていたが、実際はそれより前に「分衆化」が進んでいた訳だ。
それから30年、これを書いているワープロに「分衆」という言葉はなく、大衆なら簡単に打てる、というのが現在の状況。
コンピュータ社会(=インターネット社会)以前は、このように広告代理店がその時その時の状況を調査して、分析して本にし、心ある人々はそれを読んで現状把握をしていた訳だ。
私のように、時代の移り変わりに興味のある人間にはありがたいことだ。
それは良いのだが、ショッキングな内容も含まれていた。
「ニューリッチ、ニュープアの誕生」とある。
当時のほとんどの家庭が「家計が苦しい」と訴えているのである。
現在、とある分析では「日本の貧富の差が一番少なかったのは1985年」という説もあるのである。当時、億単位の年収を得ていた人はほとんどいない代わりに、現在ほどの貧困層もない、という説である。
この数年後に日本にはバブル景気が訪れるのだが、あれも一部が大騒ぎしていたような印象がある。もちろん、お金の回り方は良かったから、今よりはマシなのだが。
そうすると、日本が幸せだった時代は、非常に短かった、あるいはほとんどなかった?という分析に唖然としてしまった。
このままで良い訳がない。
突破口は、諸外国との交流ではないかと考える今日この頃である。
箏奏者、いわゆるお琴を弾く方と話していたら「是非、この左手を体感してほしい」と言われた。
箏の場合、柱の左側の弦を押して、音の高さを半音から全音上げる。これにとてつもない力が必要なのだ。
まあ素人がやると、とても痛い。
では専門家は、と言うと、計画的に「たこ」を作るのだそうだ。「マメ」ができてしまうと、しばらく弾けなくなるから、マメができる直前までの練習を繰り返し「たこ」にするのだとか。
そうか、計画的にねぇ~
と、私の頭に浮かんだ2曲。
ブリテン《シンプル・シンフォニー》第2楽章とラヴェル《ヴァイオリン・ソナタ》第2楽章。
どちらもピチカートが連続していて、1日でマメが右人差し指にできてしまう。なので翌日は中指を使い、またマメができてしまう。
ここからが塗炭の苦しみなのだ。みんなどうしているのだろうか。
これも箏を見習って計画的に「たこ」を作る練習をすべきか……。
毎日新聞発のヤフーニュースに、そのように載っていた。
気になったのは「九州交響楽団に次ぐ九州で2番目のプロオケ」というくだり。
かつて何回か同じフレーズを聞いたことがある。新聞に載ったのも見たことがある。
それが存続したのかどうかは寡聞にして知らない。今回の記事から考えると、少なくとも、世間が認知はしてくれなかった、ということになるだろう。お気の毒に。
北九州には「響ホール室内合奏団」というNPO法人がある。これは、プロの弦楽合奏団だが、弦楽合奏はストリング・オーケストラと呼ぶこともできるから、すでにプロオケと言えるのでは、と思ったが、管楽器関係者がそれを許さなかったのだろう。おかわいそうに。
長崎には「長崎OMURA室内合奏団」というプロの団体がある。ここは管楽器奏者もいらっしゃるので、私はプロオケと認識しているのだが、一般的には合奏団はオケではないらしい。レ・ミゼラブル。
熊本や鹿児島にもプロオケの萌芽のようなグループがあるらしいと聞いたことがある。しかし、いずれも認知されていない。ああ無情。
という、今までのいろいろを聞き知っている身としては、まずは「大変だろうなあ」としか思わない。
その一方で、うまくいってくれないかなぁ、という期待もある。
北九州という土地が、ひょっとしたらプラスに作用するかもしれないからだ。
推測だが、北九州は中小企業が九州一多いと思われる。なので、そこの社長さん方から支援が得られれば、かなり良い方向に進む可能性がある。
それが出来るかどうかで明暗が分かれるのでは、と思う。今後の成り行きに注目したい。
気になったのは「九州交響楽団に次ぐ九州で2番目のプロオケ」というくだり。
かつて何回か同じフレーズを聞いたことがある。新聞に載ったのも見たことがある。
それが存続したのかどうかは寡聞にして知らない。今回の記事から考えると、少なくとも、世間が認知はしてくれなかった、ということになるだろう。お気の毒に。
北九州には「響ホール室内合奏団」というNPO法人がある。これは、プロの弦楽合奏団だが、弦楽合奏はストリング・オーケストラと呼ぶこともできるから、すでにプロオケと言えるのでは、と思ったが、管楽器関係者がそれを許さなかったのだろう。おかわいそうに。
長崎には「長崎OMURA室内合奏団」というプロの団体がある。ここは管楽器奏者もいらっしゃるので、私はプロオケと認識しているのだが、一般的には合奏団はオケではないらしい。レ・ミゼラブル。
熊本や鹿児島にもプロオケの萌芽のようなグループがあるらしいと聞いたことがある。しかし、いずれも認知されていない。ああ無情。
という、今までのいろいろを聞き知っている身としては、まずは「大変だろうなあ」としか思わない。
その一方で、うまくいってくれないかなぁ、という期待もある。
北九州という土地が、ひょっとしたらプラスに作用するかもしれないからだ。
推測だが、北九州は中小企業が九州一多いと思われる。なので、そこの社長さん方から支援が得られれば、かなり良い方向に進む可能性がある。
それが出来るかどうかで明暗が分かれるのでは、と思う。今後の成り行きに注目したい。
「ドレミを選んだ日本人」という本に以下のような記述がある。
戦国時代、ヴァリニャーノという宣教師が書いた「日本諸事要録」の一部として……
「西洋人は異なった風習の中で育っているから、日本人の礼法を知らないことを日本人は考慮すべきだ。」と宣教師が言うと、キリシタン大名が以下のように答えた。
「このことについては、あなた方に同情するし、一年や二年なら我慢するが、幾年も経っているのだから我慢できない。
なぜなら、あなた方が日本の風習や礼儀を覚えないのは、それを覚えようともしないし、それがあなた方の気に入らないからである。
それは私たちに対する侮辱であり、道理にも反する。
なぜなら、あなた方が日本に来て、その数も少ない以上は、日本の風習に従うべきであり、あるいはまた、あなた方が日本の風習を覚えないのが、あなた方にその知力と能力が欠けているためであれば、日本人はそれほど無能なあなた方の教えを受けたりあなた方を師とすべきではない。」
いやはや、しっかり上から目線なだけでなく、よく観察しているし、理屈は通っているし、ご立派!さすが!
戦国時代、ヴァリニャーノという宣教師が書いた「日本諸事要録」の一部として……
「西洋人は異なった風習の中で育っているから、日本人の礼法を知らないことを日本人は考慮すべきだ。」と宣教師が言うと、キリシタン大名が以下のように答えた。
「このことについては、あなた方に同情するし、一年や二年なら我慢するが、幾年も経っているのだから我慢できない。
なぜなら、あなた方が日本の風習や礼儀を覚えないのは、それを覚えようともしないし、それがあなた方の気に入らないからである。
それは私たちに対する侮辱であり、道理にも反する。
なぜなら、あなた方が日本に来て、その数も少ない以上は、日本の風習に従うべきであり、あるいはまた、あなた方が日本の風習を覚えないのが、あなた方にその知力と能力が欠けているためであれば、日本人はそれほど無能なあなた方の教えを受けたりあなた方を師とすべきではない。」
いやはや、しっかり上から目線なだけでなく、よく観察しているし、理屈は通っているし、ご立派!さすが!
次の思い出は、ずっと後の1990年頃、ヴァイオリン仲間が誘ってくれて、ザハール・ブロンの公開レッスンを見に行ったこと。
現在某オケのコンマスで活躍中のI氏が、ラヴェルのツィガーヌでレッスンを受けていた。
この事は以前も書いたが、一応繰り返すと、冒頭のソロは、きちんと4拍子を数えて弾かなければならない、と注意していたことをよく覚えている。かつて田中千香士先生がおっしゃったことと、全く同じだったからだ。
その後、招待演奏でまだ20歳前後のワジム・レーピンが登場。小品を披露したが、背の高さが非常に印象的だった。
さらに興味深いのは、これから数十年後、レーピンのツィガーヌを聞いた時である。ブロンの言うことをかなり無視した、いわゆる日本人が得意とする「一音入魂」型の演奏をしていたからだ。
ここからは私の勝手な推測だが、レーピンはブロンだけが全てのはずはない、何か他の方法もあるはずだ、と思っていたところで出会った日本人の演奏。I氏の演奏を面白いと思って、取り入れたのではなかろうか。
と、延々と思い出話を書いたのは、現在ピティナの活動に関わっているからだ。
ずっと後発のピアノ指導者協会、しかも一匹狼の多いピアノ指導者が、そう簡単にはまとまらないと思いきや、かつてからは考えられない盛況ぶり。もちろんそれなりに大変な事は多々あるにしても、弦楽器奏者の我々も巻き込むのだから大したものだ。
一方、協力し合うのは本来得意なはずのヴァイオリン業界は、それからするとちょっと寂しい。日弦協の活動も関西、中京は活発だが、あとはかつての勢いから遠ざかっている感を否めない。
かつての社会主義者ではないが「団結せよ、日本の弦楽器指導者」と叫びたい今日この頃である。
現在某オケのコンマスで活躍中のI氏が、ラヴェルのツィガーヌでレッスンを受けていた。
この事は以前も書いたが、一応繰り返すと、冒頭のソロは、きちんと4拍子を数えて弾かなければならない、と注意していたことをよく覚えている。かつて田中千香士先生がおっしゃったことと、全く同じだったからだ。
その後、招待演奏でまだ20歳前後のワジム・レーピンが登場。小品を披露したが、背の高さが非常に印象的だった。
さらに興味深いのは、これから数十年後、レーピンのツィガーヌを聞いた時である。ブロンの言うことをかなり無視した、いわゆる日本人が得意とする「一音入魂」型の演奏をしていたからだ。
ここからは私の勝手な推測だが、レーピンはブロンだけが全てのはずはない、何か他の方法もあるはずだ、と思っていたところで出会った日本人の演奏。I氏の演奏を面白いと思って、取り入れたのではなかろうか。
と、延々と思い出話を書いたのは、現在ピティナの活動に関わっているからだ。
ずっと後発のピアノ指導者協会、しかも一匹狼の多いピアノ指導者が、そう簡単にはまとまらないと思いきや、かつてからは考えられない盛況ぶり。もちろんそれなりに大変な事は多々あるにしても、弦楽器奏者の我々も巻き込むのだから大したものだ。
一方、協力し合うのは本来得意なはずのヴァイオリン業界は、それからするとちょっと寂しい。日弦協の活動も関西、中京は活発だが、あとはかつての勢いから遠ざかっている感を否めない。
かつての社会主義者ではないが「団結せよ、日本の弦楽器指導者」と叫びたい今日この頃である。