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井財野は今

昔、ベルギーにウジェーヌ・イザイというヴァイオリニスト作曲家がいました。(英語読みでユージン・イザイ)それが語源です。

爺放談

2017-11-14 00:22:00 | 音楽

以下、架空のテレビ番組のオーディションが行われた後の、爺さんたちのおしゃべり、いや重鎮達の審査会、というフィクションである。かたや細川隆元風の四角い顔、かたや小汀利得風の細面(50代以上の方々にしか通じない例え方で申し訳ない)、どちらもオーケストラ活動に長年携わる方々で、このところ事務局で働いているが、元々は弦楽器奏者である。

オーディションを受けたのは20代の音楽家達で、専門は様々。弦楽器、管楽器、打楽器、声楽、ピアノ・・・。その中から番組に出演してもらう5,6人を選ばなければならない。

最近のフルートはみんな上手いねぇ。

ああ本当。だから差がつかないよね。

もう、これ以上やりようがないって感じだよなぁ。

だけどね、この間パユを聴いたんだけどさぁ、すごいよぉ。最後のディミヌェンドなんかスーッと消え入る超絶技巧!

ああパユは俺も聴いた。だから、やりようあるんだよな。

でも管楽器誰か入れた方がいいでしょう?

だから、このクラリネット。

えっ、あのピッチ上ずりっぱなし、リードミスしまくりのクラかい?

でも、音楽としては表情豊かで面白かったよ。ピッチが下がっているのは気持ち悪いけど、元ヴァイオリン弾きとしてはピッチ高いのは気にならないのよ。あ、あんた低弦だったね。低弦は上ずると気持ち悪いわなぁ。

ちょっと待ってよ。フルートの方が正確だったじゃない?みんな上手くて、これ以上やりようがないとか言わなかったっけ。クラリネットはリードミス7回だよ。あんまり多いからメモしてたんだ。こんなのオケじゃ危なくて使えないよ。

でもフルートはやっぱりつまんなかったから、今回採るのはクラリネットね。

審査会はまだ続く。


東京五輪音頭2020

2017-10-13 07:42:00 | 音楽
1964年の東京オリンピックのために作られた曲が、リニューアルして再度使われるのだそうだ。

やはり日本人は「音頭」が好き、を確認してちょっと安心。

しかし、五輪音頭を超える新曲は生まれない、という現実にちょっとがっかり、である。

この約半世紀前の五輪音頭、私が知ったのは早くても大阪万博より後だ。「世界の国からこんにちは」の前に三波春夫はこんなものも歌っていたんだ、と思ったし、万博の歌より「冴えないな」と思ったものだ。
(そう考えると「世界の国から~」は大変な名曲だ。)

あの東京オリンピックの時、私は2才11カ月。この3才になっているかいないかで、オリンピックの記憶はかなり変わってくる。
私の記憶は、閉会式の時「ほら、聖火が消えるよ。(テレビを)見て見て!」と誰かに言われたくらいしかないのに対し、5月生まれの同級生は、重量挙げの三宅選手の「えいっ」を覚えている。閑話休題。

五輪音頭の少し後になるが、NHKで「ふるさとの歌まつり」という番組があった。そのテーマ曲の作曲者が五輪音頭と同じ古賀政男で、やはり音頭で作られている。ほぼ同工異曲なのだが、私としては「ふるさとの歌まつり」の方が良く出来ているように感じる。

時代は下って1984年のロサンジェルス・オリンピック、J.ウィリアムスのファンファーレには度肝を抜かれた。5分くらいの行進曲になっていた。

その頃のラジオ番組で誰かが「それにひきかえ、日本は音頭。」
こんな古ぼけた代物しか残っていない、みたいな評価もあったのだ。

一方当時の私は、アメリカ人が「ラプソディ・イン・ブルー」ならば日本人は「ラプソディ・イン・オンド」でしょう、と本気で考えていた。

なので、結局五輪はジャパニーズ・スピリッツあふれる「音頭」になったことは、嬉しいと言えば嬉しい。
しかし、世界の度肝を抜くことができないのは寂しい。
安倍マリオの方がすごかったな。

そう言えば、その後で小池都知事が旗を振っていたなあ。

2020年、このお二方の行く末も、ちょっと気になるオリンピックである。

作品の解釈は作曲者の死後始まる?か②

2017-10-09 19:32:00 | 音楽
もう少し詳しい説明が必要かもしれない。

楽譜を全く読まないで歌うのは不可能。
推測であり感覚的だが、楽譜を8割くらい読むと、大まかなことはわかる。そこで「あとは歌いながら読めば良いだろう」と、歌う方に努力をかたむける。

確かにこれで9割程度楽譜を読めたところに達するだろう。

しかし、残りの1割に、見落としたニュアンス等々があって、それをコレペティトールから指摘され「凄い」と言っているのではなかろうか。

と、これは若手のお話。

ベテラン、つまり團先生の指揮で直接歌った方まで同じように「凄い」と言われると、ことはそれほど単純ではなくなる。

様々なことを考えたのだが、結論はこうだ。

作曲者が目の前にいれば、楽譜の細かいところなど読まなくとも、直接尋ねれば良いのである。作曲者だって、譜面に書ききれなかったこともあるだろうし、譜面と少し違っていても「それはそれでいいか」と作曲者が思えばそこまでだ。

となると、作曲者がお亡くなりになって尋ねようがなくなった時、初めて本格的に楽譜の「解釈」というものがスタートするのだろうか、と思ったのである。

ベテランの場合は、作曲者存命中のスタンスから抜けきれないゆえに、最終的に「コレペティ凄い」になってしまうのかな、と思った次第である。

作品の解釈は作曲者の死後始まる?か①

2017-10-07 15:46:00 | 音楽

團伊玖磨のオペラ「夕鶴」に出演していた男声歌手3人の話を聞く機会があった。一人は大ベテラン(運づ)、二人は比較的若手(与ひょう、惣ど)。

稽古の時に、コレペティトール(コーチを兼ねたピアノ伴奏者のようなもの)に毎回ダメだしされるのだそうだ。

曰く「台本はこうです、楽譜はこうです、だから今のはそれに合っていません・・・」

ということのようだ。

大ベテランも、年を重ねてようやく楽譜をすみずみまで読むようになったと告白された。

その3人が口々に、そのコレペティトールはすごい凄い、と言うのだが・・・。

私としては少々違和感があった。

何が凄いのかよく聞いてみると、要約すれば「楽譜を正確に読み取っている」ということだ。 こちらとすれば「楽譜読まないで歌っているんですか?」と問いたいところだ。

クラシック音楽としてのラプソディー・イン・ブルー

2017-09-22 07:16:00 | 音楽
クラシック音楽を演奏する場合、どういうことをまず考えるか。

それは「様式」だろう。

現代の考え方の主流は「作曲家がどう考えたか」をまず演奏に反映させる、というやり方である。

ガーシュインのラプソディー・イン・ブルーの場合、死後半世紀近く経ってから、本人が演奏したSP盤やピアノロール(自動演奏装置の一種)が公開され始めた。

それが衝撃的だったのは、テンポが異様に速かったこと。
その頃の一般的な演奏はカットして20分くらいだったのだが、ガーシュインのピアノロールはカットしないで15分を切っていた。

もちろん、ピアノロールに記録できる時間の長さの関係もあるだろう。
しかしSP盤も16分くらいだったと記憶している。

これが、ガーシュインの想定していた音楽だ。

だから、このくらい速いテンポで演奏すべきだ、というと、それはそれで早計だと思う。

もっと味わい深い音楽のはずだ、とレナード・バーンスタインは考えたに違いない。特にホ長調の部分(5番目のテーマとでも言えるだろうか)、冒頭の2小節をガーシュインの想定より倍ほどゆっくり演奏して録音している。
これが高い評価を得て、1960年代以降は絶対的なスタンダードになってしまった。ほとんどの人は、楽譜を見ると驚く。なぜここからテンポが倍速くなるのだろうと。

ただし「テンポを倍速く(あるいはゆっくり)したのはバーンスタイン」これは推測である。バーンスタイン以前で、自作自演以外の録音を聞いたことがないので。

私が言いたいのは、そのくらい研究して演奏に臨んでほしいということである。これが即ち、クラシック音楽に接する態度であり、それを要求するこの曲はクラシック音楽であるという論拠の一つにもなっている。