特集上映「ヴィスコンティと美しき男たち ~アラン・ドロンとヘルムート・バーガー~」予告編
上記の2つの映画はイタリアの没落貴族の物語で音楽はオペラ作曲家であったニーノ・ロータが大作曲家ヴェルディの音楽を編曲したもの、そして動画後半の映画はヴァーグナーのパトロンで国家予算のほとんどをヴァーグナーのオペラ作曲に寄付した国王ルートヴィヒ二世を描いたもの、奥山篤信氏は「ヴィスコンティは貴族の出身ですが思想は共産主義者です。まさに赤い貴族です」・・・そして青年タンクレディにはアラン・ドロンが出演、これが「品の悪さ」で適役だったと・・・そういえばアラン・ドロンの美しさはその種類だったように思える。
では映画評論家の奥山篤信氏に頂いたコメントをどうぞ。
ヴィスコンティのような映画監督は今の時代には殆ど出てこないほど名匠です。ヴィスコンティは貴族の出身ですが思想は共産主義者です。まさに赤い貴族です。
時代と共に滅びゆくかってシシリアで権勢をふるい落ちぶれて行く貴族にバートランカスターが名演技でしたね。タンクレディという若者はまさに成り上がりでそれに扮したのがアランドロン、その演技は正に地で行く演技でした。
慣習を無視した品の悪さが極めて役にはまっていた。
こいつがガリバルディに憧れそれと合流するなどイタリア史を描いていたものだ。
歴史的に最高の映画のひとつ。
<変わるためには変わらなければならない>という循環論法で誰かさんを連想しますが小沢一郎が全盛期に自由党のスローガンで掲げていました。
実はこれは間違いなのだ。
小沢が代表選挙で言うたのはこうだ:
〜 最後に、私はいま、青年時代に見た映画『山猫』のクライマックスの台詞を思い出しております。イタリア統一革命に身を投じた甥を支援している名門の公爵に、ある人が「あなたのような方がなぜ革命軍を支援するのですか」とたずねました。バート・ランカスターの演じる老貴族は静かに答えます。
「変わらずに生き残るためには、自ら変わらなければならない(We must change to remain the same.)」
確かに、人類の歴史上、長期にわたって生き残った国は、例外なく自己改革の努力を続けました。
そうなのだと思います。よりよい明日のために、かけがえのない子供たちのために、私自身を、そして民主党を改革しなければならないのです。〜
全く意味はことなり、老侯爵の言うたのは:
タンンクレディに対して<そんな変化が今の潮流としても、私は変わらずにいる>と言う意見もある。あの公爵の生き方からしてこの解釈の方が正しいのではないだろうかね?小沢さんよ!(以上、奥山篤信氏のコメント)
奥山篤信さま、ありがとうございます。
これはあのヴェルディのオペラ「シチリアの晩鐘」とつながりを感じさせます。
疲弊しきった中で何とか立ち上がろうとする「シチリア島民」のすべてをかけた戦いとは内容は違えどもどちらもまさに「イタリア」なのだ。
そして今、イタリアに出現したあのジョルジャ・メローニ首相の出現・・・誇りをかけてイタリアの存在を高め、おそれをしらない言動は「イタリアの炎」そのもの。
これらは「一対」なのだ、とイタリアの歴史の中での特筆すべき縦の流れを、過去と現在とのつながりをうかがい知ることができるのではないか、とブログ主は思った。
イタリアのローマ時代への誇り、そして他国の侵略を受け、ずっと誇りをもって抵抗してきたリッソルジメント(祖国統一運動)、これをこの映画の中の老貴族と若くて美しいが退廃の匂いのする青年タンクレディ(それにうってつけのアラン・ドロン)
確かにアラン・ドロンの美しさはそういう魅力、これはウイーンのオペレッタでも感じたが前に進む英雄の美しさではない・・・。
では映画のストーリーについて(WIKI)
19世紀半ば、イタリア統一戦争のさなかのシチリア島。
13世紀から続くシチリアの名家の当主でサリーナ公爵であるファブリツィオは、家族とともにパレルモの近郊の屋敷で貴族としての伝統を守りながら暮らしていた。ガリバルディの赤シャツ隊がシチリアに上陸すると、ファブリツィオが目をかけていた甥のタンクレーディは新しい時代の波に乗るべくガリバルディの軍に合流する。シチリアからブルボン王朝が撤退し、その機を見て資産をたくわえ、勢力を身につけた市長セダーラの姿を、ファブリツィオは冷ややかに見つめていた。そんななか、セダーラの美貌の娘・アンジェリカにタンクレーディが恋をする。タンクレーディに思いを寄せる娘コンチェッタをよそに、ファブリツィオは2人の結婚の仲人を引き受ける。
やがて、ガリバルディの軍も解散し、新しい国王の政権が始まる。タンクレーディははやばやとガリバルディの軍を離れ、政府軍に合流していた。中央から役人が訪れ、爵位も科学的な業績もあり人格者であるファブリツィオを新しい政府の貴族院議員に推したいと申し出る。ファブリツィオは、古いしがらみの中でしか生きられない自分にはできないと断る。悲惨なシチリアの現状を変えなくても良いのかとさらに懇願されるが、「シチリアは変化を望まない、眠りにつきたがっているのだ」と固辞し、代わりにセダーラを推薦する。
近隣の公爵の屋敷で大規模な舞踏会が始まった。豪華絢爛たる屋敷に数多くの貴族、新しい国家の将校たちが集い、タンクレーディとアンジェリカの結婚を祝福した。宴もたけなわになったころ、アンジェリカがファブリツィオにダンスの相手をして欲しいと申し出る。かつて舞踏の名手として名を馳せたファブリツィオと、美しいアンジェリカのダンスに、居合わせた人々は目を奪われた。
舞踏会が終わった明け方、ファブリツィオは家族を馬車で帰らせ、一人街を歩く。ファブリツィオは空の金星に向かって跪き、「いつになれば永遠の世界で会えるのか」と語り掛け、路地に消える。
・・・この映画の音楽は当時のイタリアオペラ界の作曲家であるニーノ・ロータがヴェルディの作品を編曲した。
ライヴ★ロータ:映画音楽「山猫」組曲(ムーティ指揮:シカゴ響)
ジョルジャ・メローニ首相はパリ五輪でも、もともと男性の選手がボクシングで女子選手を打ち負かし、命の危険を避けるために棄権したことを、堂々と支持したのだ。
メローニ氏はパリに滞在中。伊ANSA通信によると、記者団に「男性の遺伝的特徴を持つ選手は女子競技に参加すべきではないと思う。だれかを差別したいわけではない。女子選手が公平な条件で競技する権利を守るためだ」と訴えた。
これについても奥山篤信氏はお書きになっている。
そして世界がLBGTの行き過ぎた言動の中で、メローニは棄権したボクシングのイタリア女子選手をこのように勇気づけたことも、奥山氏はメローニは幼少より家庭の事情で極貧生活を耐え「人の痛み」を知っている、と激賞されている。これぞ真の勇者であり政治家だ。
アンジェラ、あなたは決してあきらめないし、いつか努力と汗で自分にふさわしいものを手にする日が来ることを私は知っている。最終的に公平な競争の中で。
棄権したカリニ選手を慰め激励するメローニ首相、まるで母のようだ。
奥山篤信氏の新刊本を持って涼しい喫茶店に行き、集中して繰り返しながら、そして深い言葉の一つ一つを味わいながら読んでいます。
歴史の流れや世相、哲学をちりばめながら素晴らしいひとときをこの本で読み進めています。あまりに素晴らしい内容は美しい景色を眺めるように行ったり来たりしながら丁寧に読んでいます。
奥山篤信氏のプロフィール
映画評論家、文明評論家。1948 年、神戸市出身。1970 年、京都大学工学部建築学科卒業。1972 年、東京大学経済学部卒業。1972 ~ 2000 年まで米国三菱商事ニューヨーク本店を含め三菱商事に勤務。2014 年、上智大学大学院神学研究科修了(神学修士)。2014 年よりパリ・カトリック大学(ISTA)に留学。著書に『超・映画評~愛と暴力の行方』(2008 年、扶桑社)、『人は何のために死ぬべきか』(2014 年、スペースキューブ)、『キリスト教を世に問う』(2017 年、展転社)、『キリスト教というカルト~信者になれない、これだけの理由』(2018 年、春吉書房) がある。毎月『月刊日本』に映画評を連載、その他『WiLL』に寄稿している。
ブログのティールーム
本日はスビャトスラフ・リヒテルが弾くラフマニノフ作曲「前奏曲」作品23の5をどうぞ、彼はソ連時代はほとんど西側の公演をしなかったので「幻のピアニスト」と言われたが、ようやく日本に来てその信じられない力感と深淵なるピアニッシモを聴かせた。
自分の家の電話番号も覚えられない、アンコールは絶対にしない。
ドアをノックされたら自分もオデーサで連行された父親のようにKGBに捕まり殺害される、またはシベリア送りかも・・・飛行機には恐怖で乗れず、客船に乗りドアを閉めてひっそりとしていたら、誰かがドアをノックする、事前に来室をきかされていない場合は開けては危険だ、ドアはようやく半開きになった。
外にいたのは若き奥山篤信氏だった・・・私はその話を伺って仰天した。西側にでるということは逃亡の恐れもあり、KGBが必ず見張っている、ところが何も知らない日本人がリヒテルのレコードをソ連で買ったと見せた。もちろんリヒテルはドアを開け、ようやくにこやかに話をし、そのレコードジャケットにサインをした。
Richter plays Rachmaninov prelude Op.23 No.5