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権威病からの自由 竹原信一

2016-08-06 08:06:00 | 歴史
権威病からの自由 竹原信一 2016年08月06日07:36
http://blog.livedoor.jp/jijihoutake/archives/55535486.html

 人は道具を作る。それに名前をつけて役目を決める。その道具に関しては他の使い方を考えなくなる。ほぼ宝の持ち腐れだ。

人に役目を作り名前をつける。ランクを発生させて権威づけする。結果、決められた役目しかできなくなる。自分を役目で権威付けする。このバカバカしさに気付く人はほとんどいない。私はほとんどの人が権威の病人であるのを知らなかった。彼らに合わせようとまでした。私は気づいた。彼らは治らない。私は権威病世界の住人ではない。私は自由だ。彼らの視線など気にしない。彼らは架空の権威に依存する精神病者。



150年目の覚醒 竹原信一 2016年08月03日07:20
http://blog.livedoor.jp/jijihoutake/archives/55534575.html

 大日本帝国は150年前にイギリス貴族の謀略によって作られた。イギリス王室を模倣した天皇中心の身分制度国家だ。イギリス資本のセントラルバンクが横浜上陸したのは明治維新前の1863年。現在に至るまですべてをイギリス支配の銀行がコントロールするので本当の支配者が見えないようになっている。

 もちろん日露戦争もイギリスが操った。ロシアの無敵艦隊に日本海海戦で勝つようにしたのはイギリス海軍。東郷平八郎の能力ではない。有名な敵前回頭はイギリス海軍将校が徹底的に指導し、訓練した結果だ。

 第二次世界大戦もイギリス貴族の謀略である。昭和天皇は知っていた。戦後の世界状況も知らされていた。日本は負けるべくして負けた。天皇は原爆の情報を知りながら広島長崎では空襲警報さえさせなかった。歴代天皇はイギリス王室からガーター勲章(靴下留め)を授与されている。

 太平洋戦争に敗戦した日本国民は何もわかっていない。イギリス銀行家が景気を操っているのに自民党が復興させたと思い込んでいる。政治家は無知だ。学者たちさえ何もわかっていない。つまるところ、日本の裁判所までイギリス銀行家が操っている。民主主義の法治国家を偽装した銀行システムによる身分制度が日本と世界の現実である。


 さて、日本人は150年間の幻想から目を覚ますことが出来るだろうか。これからが正念場だ。


関連

国際金融資本家に洗脳された「明治維新」と「キリスト教」理解 tacodayoのブログ 2015年11月01日14:59
http://blog.livedoor.jp/tacodayo/archives/8203558.html

・・外資系銀行はこの翌年1863年3月、インドのボンベイに本店をもつイギリス資本のセントラル・バンクが横浜上陸したのが嚆矢(コウシ)となる。

同行は外国資本の銀行というだけでなく、日本で最初に設立された銀行でもあった。

この年は銀行開店ラッシュで(中略)1867年になってやっとパリに本店をもつコントワール・デスコントが横浜支店を開設するも、翌年には閉鎖してしまう。

幕末の日本はイギリス系の銀行が独占していたのである。

(中略)
文久3年(1963年)とは萩藩が5月に外国船を無差別砲撃し、7月に薩英戦争が勃発した年。
こんな政情不安定な時になぜ、外資系銀行は次々と横浜支店を設立したのだろうか?

(中略)

何故か?

答えは戦争が起きた瞬間、当事国の通貨が暴落するからである。

(中略)
この年の出来事で一番重要な出来事は萩藩が外国船に向けて無差別テロを行ったことでも、薩摩とイギリスが戦争したことでもない。

これらの戦争行為によって、日本の通貨『両』およびイギリスの『ポンド』が事実上消えたこと。

国際決済で使えなくなってしまったことが、特筆すべき出来事なのである。

□銀行と戦争

では、当事国の通貨が使えなくなるとどうなるのだろうか?

それは 外資系銀行が貸し出す、国際流通通貨を使用する以外に道は無いということだ。

当時で言えばメキシコ・ドル。基本的にこれを使わなければ、銃一丁、弾一発も買えない状況が訪れたということである。


・・明治維新前後から大東亜戦争に至るまで、
日本は今のシリア・トルコ・イラク情勢と同じように戦争に明け暮れていました。

国際金融資本家が 裏で仕組んだ戦争一覧
欧米製の中古?武器・弾薬を 大量に買わされます。

□尊皇攘夷・倒幕の戦い
1853年 : ペリー来航(嘉永6年)
1858年 : 安政の大獄
1860年 : 桜田門外の変(江戸)
1862年 : 坂下門外の変(江戸)
1863年 : 天誅組の変
1863年 : 八月十八日の政変(山城国)
1863年 : 生野の変
1863年 : 天狗党の乱
1863年 : 下関事件(長門国)馬関攘夷戦争
1863年 : 薩英戦争(薩摩国)
1864年 : 池田屋事件(山城国)
1864年 : 禁門の変(山城国)
1864年 : 四国艦隊下関砲撃事件 (長門国)
1864年 : 長州征討(長門国・周防国)
1868年 : 松山戦争(常陸国・下総国)
1868年 - 1869年 : 戊辰戦争
 鳥羽・伏見の戦い(山城国)  
 阿波沖海戦(あわおき)
 甲州勝沼の戦い(甲斐国)
 宇都宮城の戦い(下野国)
 市川・船橋戦争(いちかわふなばしせんそう、下総国)
 五井戦争(ごいせんそう、上総国)
 上野戦争(うえのせんそう、武蔵国)
 北越戦争(ほくえつせんそう、越後国)
 会津戦争(あいづせんそう、陸奥国)
 磐城の戦い(いわき)
 秋田戦争(あきたせんそう、出羽国)
 弘道館戦争(こうどうかんせんそう、常陸国)
 野辺地戦争(のへじせんそう、陸奥国)
 箱館戦争(はこだてせんそう、蝦夷地)

□明治維新以後
1870年 : 庚午事変(徳島藩淡路国)
1872年 : 悌輔騒動(ていすけ、新潟県、柏崎県)
1873年 : 筑前竹槍一揆(福岡県)
1874年 : 佐賀の乱
1876年 : 神風連の乱
1876年 : 秋月の乱
1876年 : 萩の乱
1876年 : 伊勢暴動
1877年 : 西南戦争(鹿児島県)
1884年 : 秩父事件
1894年 : 日清戦争
1900年 : 義和団の乱(ぎわだんのらん、中国)

□大正時代(この辺りから共産主義者が裏で暗躍します。)
1914年 : 第一次世界大戦・青島攻略戦(ちんたお、中国)
1918年 : シベリア出兵(ロシア)
1920年 : 尼港事件(にこう、ロシア)
1923年 : 長沙事件(ちょうさ、中国)
1927年 : 第一次南京事件(だいいちじなんきん、中国)
1927年 : 漢口事件(かんこうじけん、中国)
1927年 : 第一次山東出兵(だいいちじさんとう、中国)
1928年 : 済南事件(せいなん、中国)

□昭和(この辺から英米と利害が対立してゆきます。)
1931年 : 満州事変(中国)
1931年 : 中村大尉事件(中国)
1932年 : 第一次上海事変(中国)
1932年 : 万宝山事件(まんぽうざんじけん、中国)
1932年 : 平頂山事件(へいちょうざんじけん、中国)
1932年 : 五・一五事件(東京)
1936年 : 成都事件(せいとじけん、中国)
1936年 : 北海事件(ほっかいじけん、中国)
1936年 : 二・二六事件(東京)
1937年 : 日中戦争/日華事変/支那事変
 盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)
 第二次上海事変
1939年 : ノモンハン事件
1939年 : 第二次世界大戦
1941年 : 太平洋戦争(大東亜戦争)・・














英霊冒涜防衛大臣 geneumiのブログ 2016-08-04 12:20:33
http://ameblo.jp/geneumi/entry-12187154137.html




71年前の8月6日に広島へ原爆を投下した米国は今後30年間に1兆ドルを核兵器開発へ投入する計画 櫻井ジャーナル 2016.08.06 
http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201608060001/

1945年8月に広島と長崎へ原子爆弾が投下された。6日に広島へ落とされた「リトル・ボーイ」はウラニウム235を使用、9日に長崎へ落とされた「ファット・マン」はプルトニウム239が使用されている。原爆が投下されてから最初の数カ月間で広島の場合は9万から16万6000人、長崎の場合は6万から8万人が死亡、その約半数は投下当日に亡くなったと推定されている。被爆者はその後も癌などの発症に苦しんできた。

 その広島にある平和記念資料館でバラク・オバマ大統領は5月27日、「核なき世界を追求する勇気」について語ったというが、2014年の段階で、30年間に9000億ドルから1兆1000億ドルを投入する計画を打ち出している。オバマに「核なき世界を追求する勇気」があるのかどうかは知らないが、「核なき世界」の実現に向かって進んではいない。

 アメリカはロシアの周辺で「ミサイル防衛システム」を建設、ルーマニアやポーランドでも計画されている。ロシアがこのシステムを批判している理由は、そのシステムが先制攻撃のためだと認識しているからだ。

 先制攻撃した場合、全ての兵力を破壊しない限り、相手側は報復してくる。その報復攻撃に対処するという目的が「ミサイル防衛システム」にあるのだが、先制攻撃に使う射程が1000キロメートルから2400キロメートルという攻撃的ミサイルへ切り替えることも難しくない。

 アメリカがソ連/ロシアを先制核攻撃する計画を考え始めたのは第2次世界大戦で日本やドイツが降伏した4年後のこと。JCS(統合参謀本部)が作成した研究報告に、ソ連の70都市へ133発の原爆を落とすという内容が盛り込まれていた。

 1954年にSAC(戦略空軍総司令部)は600から750発の核爆弾をソ連に投下、118都市に住む住民の80%、つまり約6000万人を殺すという計画を作成、57年初頭には300発の核爆弾でソ連の100都市を破壊するという「ドロップショット作戦」が作成されている。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)


 1956年にSACが作成した核攻撃計画に関する報告書によると、モスクワ、レニングラード(現在のサンクトペテルブルク)、タリン(現在はエストニア)、キエフ(現在のウクライナ)といったソ連の都市だけでなく、ポーランドのワルシャワ、東ドイツの東ベルリン、チェコスロバキアのプラハ、ルーマニアのブカレスト、ブルガリアのソフィア、中国の北京が攻撃目標に含まれていた。

 1950年代から核攻撃の準備は始まり、テキサス大学のジェームズ・ガルブレイス教授によると、レムニッツァーJCS議長やSACの司令官だったカーティス・ルメイを含む好戦派は1963年の終わりに奇襲核攻撃を実行する予定だったという。その頃になればアメリカはICBMを配備でき、しかもソ連は配備が間に合わないと見ていたのだ。この攻撃を成功させるためにもキューバを制圧し、ソ連の中距離ミサイルを排除する必要がある。

 この計画を実現するためには大きな障害を取り除く必要があった。1963年6月10日、アメリカン大学の卒業式で「平和の戦略」と呼ばれる演説を行ったジョン・F・ケネディ大統領である。この年の11月22日にテキサス州ダラスでケネディ大統領は暗殺され、ソ連やキューバが黒幕だとする偽情報をCIAが流したものの、FBIから事実を知らされたリンドン・ジョンソン新大統領はソ連との戦争へ突入することはなかった。

 日本では第2次世界大戦の頃から核兵器の研究開発は進められている。理化学研究所の仁科芳雄を中心とした陸軍の二号研究、そして海軍が京都帝大と検討していたF研究が始まりである。

 大戦後、1957年5月に岸信介は参議院で「たとえ核兵器と名がつくものであっても持ち得るということを憲法解釈」として持っていると答弁、59年3月には参議院予算委員会で「防衛用小型核兵器」は合憲だと主張している。

 NHKが2010年10月に放送した「“核”を求めた日本」によると、1965年に訪米した佐藤栄作首相はリンドン・ジョンソン米大統領に対し、「個人的には中国が核兵器を持つならば、日本も核兵器を持つべきだと考える」と伝えている。1967年には「動力炉・核燃料開発事業団(動燃)」が設立され、69年に日本政府は西ドイツ政府に対して核武装を持ちかけ、拒否されている。

 しかし、1969年にアメリカ大統領となったリチャード・ニクソン大統領の補佐官、ヘンリー・キッシンジャーは彼のスタッフに対し、日本もイスラエルと同じように核武装をすべきだと語ったという。(Seymour M. Hersh, “The Samson Option,” Random House, 1991)


 日本側は核武装に関する調査を進める。10年から15年の期間での核武装を想定、核爆弾製造、核分裂性物質製造、ロケット技術開発、誘導装置開発などについて調査、技術的には容易に実現できるという結論に達したという。原爆の原料として考えられていた高純度のプルトニウムは、日本原子力発電所の東海発電所で年間100キログラム余り、つまり長崎に落とされた原爆を10個は作れると見積もっていた。

 ジミー・カーター政権は日本の核武装計画を警戒、つぶそうとしたが、ロナルド・レーガン政権に状況は一変する。アメリカ政府の内部に日本の核武装計画を支援する動きが出てきたのだ。その象徴的な施設が1995年に着工されたRETF(リサイクル機器試験施設)だ。これは東海再処理工場に付属、プルトニウムを分離/抽出するための施設。この建設で、アメリカ政府は「機微な核技術」、つまり軍事技術を提供していた。

 調査ジャーナリストのジョセフ・トレントによると、2011年3月11日に東電福島第1原発が地震で過酷事故を起こした当時、日本には約70トンの兵器級プルトニウムがあったという。自らが生産した可能性もあるが、外国から持ち込まれた可能性もある。トレントに限らず、アメリカの情報機関は日本が核兵器を開発してきたと確信している。

 この事故の3日前、2011年3月8日付けのインディペンデント紙には、石原慎太郎のインタビュー記事が掲載された。それによると、外交力とは核兵器なのであり、核兵器を日本が持っていれば中国は尖閣諸島に手を出さないだろうと石原は発言したという。

 こうした背景を考えると、日本会議系の政治家が核武装を口にしても不思議ではない。アメリカとしては日本と中国が核兵器を撃ち合い、自分たちは高みの見物という展開が理想なのかもしれないが、そうなると日本の原発も全滅、太平洋は今と比較にならないほどの放射性物質が溶け込んだ海になる。






厚生年金と国民年金 昨年度決算 ともに赤字に 8月6日 4時53分
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160806/k10010623491000.html?utm_int=news-new_contents_list-items_014

サラリーマンが加入する厚生年金と、自営業者などが加入する国民年金の昨年度(平成27年度)の決算は、積立金の運用で5兆円を超える赤字になったことから、厚生年金は5年ぶり、国民年金は7年ぶりに赤字となりました。

厚生労働省によりますと、厚生年金の平成27年度の決算は、時価ベースで、歳入が40兆1559億円、歳出は42兆9008億円で、歳入が歳出を2兆7448億円下回り、5年ぶりに赤字となりました。

また、国民年金の昨年度の決算は、時価ベースで、歳入が3兆6180億円、歳出は4兆1189億円で、歳入が歳出を5009億円下回り、7年ぶりに赤字となりました。


赤字の理由は、公的年金の積立金を運用しているGPIF=年金積立金管理運用独立行政法人の運用実績が、厚生年金で5兆81億円、国民年金で3416億円の赤字になったことによるものです。


一方、積立金の残高は、時価ベースで、厚生年金が前の年度より2兆7345億円減って133兆9310億円、国民年金が4898億円減って8兆7768億円となっています。

厚生労働省は「GPIFでの短期的な評価額の減少によるもので、年金財政上の問題はなく、給付額への影響もない」としています。


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7 コメント

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ネオリベ竹原の応援団? (Unknown)
2016-08-07 00:48:21
正直、また取り上げるんですか? 公務員叩きが売りの「みんなの党」支持者であった、この男を。また、自身のブログで「高度医療が障害者を生き残らせている」とナチスを想起させる優生思想を展開させた人物なんですが…
それと、原爆に対する認識についても大いに疑問を感じています。

阿久根市の竹原信一市長がブログで障害者差別の主張を展開、障害者団体などが反発
https://ja.wikinews.org/wiki/%E9%98%BF%E4%B9%85%E6%A0%B9%E5%B8%82%E3%81%AE%E7%AB%B9%E5%8E%9F%E4%BF%A1%E4%B8%80%E5%B8%82%E9%95%B7%E3%81%8C%E3%83%96%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%81%A7%E9%9A%9C%E5%AE%B3%E8%80%85%E5%B7%AE%E5%88%A5%E3%81%AE%E4%B8%BB%E5%BC%B5%E3%82%92%E5%B1%95%E9%96%8B%E3%80%81%E9%9A%9C%E5%AE%B3%E8%80%85%E5%9B%A3%E4%BD%93%E3%81%AA%E3%81%A9%E3%81%8C%E5%8F%8D%E7%99%BA

皆さんは、障害者差別発言で有名な鹿児島県阿久根市の竹原信一市長についてどの様な印象を持っていますか?
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1343960823

河村たかしと橋下徹と竹原信一、そして石原慎太郎
http://blog.goo.ne.jp/longicorn/e/0a9d1a5c82d619f8c3dd4212c0794d04

広島だか長崎で、原爆投下前に空襲警報が解除されたのはなぜですか?
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1245409677

原爆投下は予告されていたのか
http://d.hatena.ne.jp/jjtaro_maru/20120801/1343824805

恐るべき”破壊力”を持つ書ー鬼塚英昭著『原爆の秘密〔国内編〕~昭和天皇は知っていた』 ※コメント欄 6、8、10、11、13、19番目に注目
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/573.html

返信する
ゴミ売りの攻撃プロパガンダみたいですけど? (beingtt)
2016-08-07 11:17:32
なにも読んだことがなかったので人のブログ記事ですいませんが↓

ある市長のブログ - 高度医療について 明けの翼 2009.12.6

鹿児島県阿久根市、竹原信一市長のWEB日記上での発言が物議を醸しております。
マスコミの報道で、市民からの抗議が殺到しているとのこと。

話題が話題だけだっただけに、ちょっと反応してしましました。
自分がこの阿久根市長の意見に嫌悪を感じたら、ここで取り上げることなどしません。
無視して、見なかったことにします。
公人たる方がブログ形式でないにしろ、WEB上で日記を公開していたら、その発言は公へ向けたものとして捉えられるし注目されるのは当然ですが、それでも「こんなに批判されることもないんじゃない?」と、私なりに感じたことを書いてみます。

きっかけはある新聞記事でした。
それがこちら。

阿久根市長、ブログで物議…障害者家族ら反発

(全文引用)
鹿児島県阿久根市の竹原信一市長(50)が自身のブログ(日記形式のホームページ)に「高度医療が障害者を生き残らせている」などと、障害者の出生を否定するような独自の主張を展開している。

 障害者団体は反発、市議会でも追及の動きが出るなど波紋が広がっている。

 ブログは11月8日付。深刻化する医師不足への対応策として、勤務医の給料を引き上げるべきだとの議論に対し、「医者業界の金持ちが増えるだけのこと。医者を大量生産してしまえば問題は解決する。全ての医者に最高度の技術を求める必要はない」と批判。

 そして、「高度な医療技術のおかげ」で機能障害を持ち、昔の医療環境であれば生存が難しい障害児を「生き残らせている」などと述べ、「『生まれる事は喜びで、死は忌むべき事』というのは間違いだ」と主張している。

 知的障害者の家族でつくる「全日本手をつなぐ育成会」(本部・東京、約30万人)の大久保常明・常務理事は「人類繁栄のため、優れた子孫だけを残そうとするかつての優生思想そのもの。命の重さを踏みにじり、公人の意見とは思えない」と批判。

 阿久根市身体障害者協会(約1050人)の桑原祐示会長も「差別意識も甚だしい」と反発、役員会で対応を協議し始めた。

 同市議会の木下孝行市議も市長に説明と謝罪を求め、14日から始まる市議会一般質問で追及する。

 竹原市長は取材に対し、「養護学校に勤めている人から聞いた情報をそのまま書いた。事実と思う。障害者を死なせろとかいう話ではない」と説明している。
(2009年12月3日06時13分 読売新聞)
(引用終了)

物々しいですね。この記事だけを読んだ時は「けしからん!」っと思ったけど、ソースが読売だけに、地位ある一市長がこんなこと言うのかしらん?っと思い、実際に市長のWEB日記を読んでみたら、全然怒りは感じ無かった。
過去の時代の「色んなこと」を考えただけ。

シャーマニズム。。。
返信する
つづき (beingtt)
2016-08-07 11:21:58
問題の竹原阿久根市長のブログ記事はこちら

↓(引用開始)
医師不足が全国的な問題になっている。特に勤務医の不足は深刻だ。
医師が金儲けに走っている為だが、この体質を後押ししてきたのが医師会だった。

以下 池田信夫blogから引用
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/f65bacae249f66488dc8bfc3e9fbe384
----------------------
かつて「医師過剰」の是正を繰り返し求めたのは日本医師会出身の議員だった。たとえば1993年に参議院文教委員会で、宮崎秀樹議員(当時)は
次は、大学の医学部、医科大学の学生定員の問題でございます。これに関しましてはいろいろ定員削減という方向で文部省と厚生省との話し合いができておりまして、一〇%削減、こういう目標を立ててやっているのですが、実際にはそこまでいっていない。[・・・]例えば昭和六十三年には十万対百六十四人だった。これが平成三十七年には三百人になるんです。三百人というのはいかにも医師の数が多過ぎる。
と医学部の定員削減を求めている。宮崎氏は日本医師会の副会長を歴任した。
----------引用おわり
 勤務医師不足を解消する為に勤務医の給料を現在の1500万円程度から開業医(2500万円程度)に近づけるべきなどとの議論が出てきている。
しかしこんな事では問題は解決しない。医者業界の金持ちが増えるだけのこと。

医者を大量生産してしまえば問題は解決する。全ての医者に最高度の技術を求める必要はない。できてもいない。例えば昔、出産は産婆の仕事。高度医療のおかげで以前は自然に淘汰された機能障害を持ったのを生き残らせている。結果 擁護施設に行く子供が増えてしまった。
「生まれる事は喜びで、死は忌むべき事」というのは間違いだ。個人的な欲でデタラメをするのはもっての外だが、センチメンタリズムで社会を作る責任を果たすことはできない。
社会は志を掲げ、意志を持って悲しみを引き受けなければならない。未来を作るために。
↑(引用終了)

まあ、随分はっきりと言う人だとは感じたけれど、不快感など無く、骨のある発言だと思いました。
もう少し誤解を招くような表現は見直した方がいいんじゃないかとか、言葉足らず過ぎなんじゃないかとは思ったけれど、記事全文を読んで、私は怒りを感じませんでした。

少々デリケートな件ですが、私なりに感想を書いてみます。(批判があれば、甘んじて受けます)

この発言が反感をかっているのは、前後の記述を無視して

「高度医療のおかげで以前は自然に淘汰された機能障害を持ったのを生き残らせている。結果 擁護施設に行く子供が増えてしまった。」

この文言だけを切り取っているからだと思う。恣意的な臭いがします。

読売記事だけを読んでいたら、誰もが読後は不快感を残すでしょうね。。。

竹原市長は、某有名ブロクの記事を取り上げて、現在の慢性的な医師不足を嘆いていただけなんですよ。
特に産科医の人手不足は目を覆いたくなる現状ですので。
そこで、高度医療ではなくとも、昔ながらのお産婆さんを復活させればいいじゃないかとの提起とも取れる発言。
そして、物議を醸している発言に至りました。
けれど市長は最後にこう締めくくります。

「生まれる事は喜びで、死は忌むべき事」というのは間違いだ。個人的な欲でデタラメをするのはもっての外だが、センチメンタリズムで社会を作る責任を果たすことはできない。
社会は志を掲げ、意志を持って悲しみを引き受けなければならない。未来を作るために。

この一文はとても重要だと思います。
この文を除いて報道すれば、非難轟々でしょう。
返信する
ゴミ売り攻撃について その3 (beingtt)
2016-08-07 11:24:08
私が思うに、高度医療によって昔は落としていたた命が拾われるようになったことは、素晴らしいことだと思う。
誰だって自分にとって大切な人には、何時までも生きていて欲しいというのが基本だから。

けれど反面、この高度医療ってヤツは、時には過度なことまで見通せるから嫌なのだ。
予期せぬことを知ってしまい、更に案件が思いの他重大なことを思い知らされ、殺生与奪の判断を当事者に任されるようになっちゃったから嫌なのだ。

私の場合、妊娠6ヶ月目で胎児に異常があると判明し、辛い決断をした事実があります。

・このまま産みますか?
・母子共に生存率50%の手術で良ければ受けますか?
・諦めますか?

こんなことなぜ知らせるのだろう?
知らなければ知らないままに産み落とし、後に重大な障害が判明しても誰も責めやしない。
弱々しい命なら、何も知らされずとも育たないだろう。

高度医療は人を助けもするけれど、判断を素人に任せて放逐する冷徹さも持つ。

知らされたことによって、迷いに迷った。
6ヶ月目に入った胎児は、私の体内で元気に泳いでいた。
金魚を掌ですくった時のような、ピチピチと暴れる感覚を胎を経て全身で感じていました。

何度も言う。
産みたかった、産みたかった、産みたかったっ!
高度医療の賜物たる情報など、何も知らされずに産んでいれば良かった。
こんな余計な情報は、一体何のためにあるんだろう。

検査結果を見て嘆いているところに、「貴方の選択をファイナルアンサーっ!」と問われ、自分で出した結論に未だに悶々とする私の苦悩は、高度医療の賜物なんだろうか。
上手く言えないけれど、胎児が男だとか女だとか、健康だとか異常だとか、そんな情報を知ることに何か意味があるんだろうか?
昔は到底知り得なかった胎児の情報を知ることは、そんなに重要なんだろうか。

健常ならよしよし、、、異常だったら何だと言うのか。

女性が結婚したがらなくなったと言われる昨今、初婚の平均年齢は上がってます。
30歳半ばで結婚する女性も、今や珍しくありません。
けど、30過ぎて結婚した女は、言われるのだ。

「高齢出産になるから、羊水検査しなさい。」

羊水検査で、ダウン症児の発症率がある程度わかるらしい。(聞いた話)
その信憑性など知らないし、別に知りたくもない。
知りたいのは、「それを知ってどうするの?」ってこと。
健常者とは違う人を殊更に意識するくせに、体面としては「障害者を貶めるとは何事であるかっ!」って持論の正義とやらを振りかざして怒りまくる人こそ、こういう言い方は極力したくないけれど、「甘い」と思う。

ちょっと長くなりそうなので、持ち越します。


この問題をぐっと砕いた形で表現すると、、、もちろん例えですよ(笑)。

名○屋市長の某氏が、日記の文中で「女は美人がいいね、愛想があるのがいいね、でも可愛いだけじゃなくて機転が効く、、、頭のいいのがいいね。醜女が幸せに生きてくには整形もありかもね。」
(注:名○屋市長の某氏は、もちろんこんなこと言ってませんので、誤解無きよう。例えですよ、例え!)

こんな発言を私的なWEB日記に記していたことを某記者がかぎつけて、前後の脈絡を無視した文言だけを記事にすれば、非難殺到だろう。
人を陥れるには揚げ足取りが一番だもん。

けど、その日記のほんの一部分だけにフォーカスした記者が、真っ先に私のところに来て

「某市長が、貴女のような方のことをこんな風に言ってますがどう思いますか?」

なんてマイクを向けてきたら、私の怒りは某市長ではなく間違いなく記者に向く(笑)。

当たり前じゃん。

「なんで真っ先に私のところに来るんだっ!」

ってこと。
記者自身がマイクを向けた先が、それこそ記者の偏見と差別そのものだと感じるから。

美人でもなく、愛想もなく、可愛くもなく、機転が効くわけでもなく、頭のいいでもない。「醜女が幸せに生きてくには整形もありかもね」と表現される対象に、堂々と選ばれたのだと感じ入るので(笑)。

次回は、シャーマニズムと偏見、怒りの矛先の相違について書いてみます。
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ゴミ売りがナチ (beingtt)
2016-08-07 11:30:32
原発推進、放射能食べて応援推進、ワクチン推進、戦争推進、アベ政権支持、麻生発言にはケチをつけない・・ ゴミ売りこそがナチでしょう
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原爆投下は予告されていた (beingtt)
2016-08-07 12:54:01
「かつて日本は美しかった」さんは、「かつて日本は美しかった」と思いたいのでしょう。

「似たような放送にサイパン放送というのがあり、この放送では8月1日に「8月5日、特殊爆弾で広島を攻撃する。非戦闘員は広島から逃げろ」という内容が放送されていました。広島逓信局に勤務していた宮本広三技師がこれを聞いています。それまでの放送には空襲に関する予告があり、どれもピタリとあたっていたといいます。日付が8月5日となっているのはアメリカ時間だからです。ニューディリー放送のほうは日本時間になっています。

 これらはOSS(戦略情報局)というCIAの前身にあたる組織によるプロパガンダ放送と思われますが、プロパガンダにはブラックプロパガンダとホワイトプロパガンダがあり、前者は身元を明かさず謀略を持って敵を屈させるためのもので、後者のホワイトプロパガンダは事実を流して敵に心理的動揺を与えるというものです。ニューディリー放送の真偽はわかりませんが、サイパンの放送はホワイトプロパガンダに該当するものでしょう。」

と書きながら、最初は長崎ではなく小倉だったはずだとの、フェイント話に信をおいて、ニューディリー放送の原爆投下予告には疑問符。

「原爆投下は予告されていたのか」の記事では、中国軍管区司令官藤井祥治陸軍中将の死亡を根拠に疑問をていしていますが、藤井中将が原爆で死んだのは殺される予定の側だったというだけなのでしょう。

第二総軍司令部は市の中心部ではなくなぜ安全地帯にあったのでしょうか?

なにはともあれ、彼らは911でも311でもあらかじめ、さんざんほのめかしを行っていたのは事実です。真珠湾攻撃時も、東京大空襲時もラジオ放送(と無線)で通信していたことも柴田哲孝さんの調査でバレています。

なお、仁王像さんの阿修羅記事への否定的コメントは読んでみましたが、勝手にねじ曲げ解釈したりしていて誠意が感じられませんね。

で、もう一度

中条一雄 『原爆は本当に8時15分に落ちたのか』 第6章 原爆だと知っていた記者 p184-187より

私の高校の同窓生は、広島在住の有志が中心となって『ヒロシマと広高』という同人誌を不定期に発行している。そこには「被爆前から原子爆弾の存在を知っていた」とする二人の証言がある。

一つは一九九七年八月発行のもので、同級の中野武彦君のものだ。彼は皆実町の高校の寮で朝食をとっている最中に被爆したが、全壊した食堂の残骸を押しのけて、やっとの思いではい出した。顔に深い切り傷を負っていた。その夜は近くの蓮畑で野宿したという。(被爆した夜、野宿していると)高校生の集団ができて、夜空になおも赤い炎をちらちら見せている市の中心部を見つめながら、私たちは時折元気づけに寮歌を歌っていた。ふと私は、京都帝国大学で物理学を専攻し、荒勝教室にいた義兄が、物知り顔に話していたのを思い出した。マッチ箱一個の大きさで、戦艦一隻すっ飛ばす爆弾があるんやデ。原子爆弾言うんや」

B29一機か二機の爆撃で、これほど広範囲に被害を与え得る爆弾は、原子爆弾以外にないのではないか。そのことを持ち出したが、居合わせた化学を教えるH先生は、きっぱりと否定した。

「理論的には可能じゃが、いくらアメリカだって、まだそこまではいっとらんじゃろう」

けれどもやはりあれは、世界で最初に人類の上に落された、一発の原子爆弾だったのである。

これまた呉鎮守府の三井大佐の「京大荒勝研究室(海軍)ニテ行ヒアルモ」と符合する。物理学者の間では、弁当箱とかマッチ箱とか、その大きさこそ違え原子爆弾は公然と語られていたようだ。

いま一人は私の中学、高校で二年先輩の水田泰次さんだ。二〇〇〇年八月発行の同人誌の中で、やはり「広島に原爆が落とされることがわかっていた」と次のように書いている。

当時、小生は京大工学部冶金教室の学生でした。原爆が投下される三カ月前の一九四五年五月のある日、冶金教室の主任教授の西村英雄先生に突然呼び出されました。先生によると、アメリカの学会から秘密裡にニュースが先生に送られてきて、当時原爆製作を競争していた日本より先にアメリカで成功したというのです。そして、その第一回現地テストを広島で行なう予定が決まった。できるだけ早く両親を疎開させなさいということでした。水田さんは西村教授の忠告にしたがって、両親をすぐに広島近郊の廿日市に疎開させた。おかげで両親は原爆の被害にあわなくてすんだ。この西村教授の忠告は、今や想像もできないくらい奇想天外ともいえる秘密情報だが、水田さんはこう言う。

「西村先生に呼び出された時、先生の横に原子物理の湯川秀樹教授が座っておられた。それで、てっきり湯川教授からの秘密情報かと思っていたが、どうやらそうではなかったらしい。西村先生がアメリカとの独自のルートを持っておられたようだ」

独自ルートで考えられるのは『もはや高地なし』の一節だ。原爆投下の約半年前の一九四五年初めごろから、一部の米学者の間から「原爆使用反対」の声が出て、その中心になったのがシカゴ大学の冶金研究所だった。アーサー・コンプトン所長を中心に政治家や軍関係者に対し、さまざまな反対運動を繰り広げたようだ。その様子は「届かなかった原爆使用反対の声」という項目で詳しく紹介されている(同書一一一ぺージから一一九ぺージまで)。六月四日には「同研究所で対日原爆使用を阻止しようとして七人の科学者が会合を開いていた」とあるが、結局反対の声は通らなかった。

シカゴ大と京大、そして同じ冶金研究所と冶金教室。冶金つながりに不思議な符号がある。学者の間では、あの戦時中でもスイスあたりを経由して、日米間でひそかに情報を交換していたという話もある。終戦後、西村教授が亡くなったのち、水田さんは同教授のご子息に「生前、こんな話を聞いていましたか」と尋ねたところ、「そんな話は一切聞かなかった」という返事だったという。だが、水田さんは、今でも日米間の「冶金つながり」を信じている。
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情報の大屋君が主として女性の二世を二十人ほど集め、鯉城に近い浅野候の別邸に傍受所を設けて、内外の動きを見ていたのだ (beingtt)
2016-08-07 13:22:16
畑元帥と大屋中佐は、刻々と変更される投下日時の把握に追われていた。それで、大屋中佐はもう一つの傍受室をつくるのである。

『昭和史の天皇』から引用する。被爆の瞬間、軍の中枢である第二総軍司令部参謀一課にいた井本熊男高級参謀の談話である。もちろん井本は負傷していない。

このとき、あけてあったドアから廊下へはじき飛ばされた橋本参謀と大屋参謀は、そのまま無意識のうちに廊下の窓にかけてあったナワばしごで建物の外に出て防空壕に向かったが、参謀室にまだ人がいたことに気づいて引き返してきたのだった。その橋本氏の話にかえる。
「二人で歩きながら、直撃弾をうけたにしても爆痕がない。これはいったい何だろう、とわたしがいったら、大屋君が、そういえば妙な新兵器の海外放送を聞いたが、それかもしれんという。この海外放送は実は大本営にはないしょで、情報の大屋君が主として女性の二世を二十人ほど集め、鯉城に近い浅野候の別邸に傍受所を設けて、内外の動きを見ていたのだ。当時、わたしたちが気にしていたのは、政府首脳が軍の本土決戦のカゲで、どうやら終戦工作をやっているらしいということだ」

大屋中佐は鯉城(広島城)の近くに女性の二世を二十名ばかり集めて、ブロークン・イングリッシュを解読させていたのである。彼は、この情報を有末中将に伝え、有末中将は同部に所属する皇弟・三笠宮崇仁(みかさのみやたかひと)中佐に伝えていたのである。

テニアンから刻々と入る情報で、「八月六日八時十五分」の投下時刻を正確に知ると、畑元帥と大屋中佐は大衆動員(引用注:八月三日~八月六日、義勇隊三万人、学徒隊一万五千人)を原爆中心地近くにかけ、大阪から鹿児島までの将校たちを八月六日午前八時(これは九時に変更される)に爆心地近くの陸軍の社交場・偕行社に集まれとの司令官命令を出すのである。戦争終結に導くためのスペクタル・ショーの演出をやってみせるのである。

『エノラ・ゲイ』の続きを見ようではないか。秘密が、第二総軍が隠し続けてきた秘密が見えてくるのである。

一日のうちで最も忙しいのは正午から夜の零時までの間であった。その間、この部屋のラジオの半数が、沖縄、硫黄島、マリアナ諸島から発せられる通信の傍受に向けられた。モニターたちは、遠くはグアム島から発せられるアメリカ軍の命令の放送を聞こうと耳を澄ました。その命令は多くは暗号だったが、そうでない生まのものもかなりあって、すぐに役立つような情報が手に入ることがあった。

この傍受には軍のラジオ通信ばかりでなく、B29の通信兵が離陸直前に行なう簡単なラジオの言葉も入った。

日本とマリアナ諸島との間には一時間の時差があるから--広島のほうがテニアン島より一時間遅かった--そのラジオのテストが広島の時間で午後三時か四時頃行なわれるとすれば、モニターはその夜空襲のあることを知りえた。

モニターを傍受したテストの回数で、空襲にやってくる敵機の数をおおよそつかむことができた。モニターはその報告を上司に渡し、上司はそれを通信司令室へ送り、そこから西日本全体の防空組織へ情報が流された。それだけのことがわずか数分間でできた。  

爆撃機が日本の上空に接近すると、モニターは乗員同士の断片的な会話の交信をキャッチし、上司はそれによって爆撃機が日本のどの地域を攻撃するつもりかの見当をつけることができた。そういう情報は海上の艦船同士のラジオ通信の傍受記録と一緒にタイプされ、あとで分析された。畑元帥と大屋中佐はそれをもとにして、敵の兵力と意図とを驚くばかり正確に察知することができた。

大屋中佐は広島に来てからは、この仕事を自分がいかに重視しているかをモニターたちに見せるために、定期的にこの傍受室に顔を出した。

畑元帥と大屋中佐がどれほどテニアン基地の情報を知りえる立場にあったかが、この文章を読めば理解できる。

しかし、一つの謎が残る。畑と大屋は他の誰にも知られたくない独自の情報網が必要ではなかったのか。それで鯉城の近くに、わざわざ二世の女性を二十人ばかり使った秘密の傍受室、そして、応答室をつくった。そこで、テニアンにいる秘密室と直接に原爆情報のやりとりをした。二世の女性たちは、あるときから不自由な生活を強いられていたのではないのか。どうしてか。それは鯉城の近くに原爆が落ちたから推測できるのである。彼女たちは死んだはずである。生き残った女性たちは沈黙を守るようにきびしく言われたであろう。鯉城の近くにいた人々で生存者はほとんどいない。原爆投下を知って、第二総軍の傍で傍受されなかったのは、深い意味があったからだ。証拠隠しである。第二総軍から情報が流されていたと書かれているが、原爆の情報は中国軍管区に届いてはいない。原爆の情報はすべて、畑と大屋の二人で闇のうちに処理されたのである。どうしてか?劇的な演出で、多くの広島市民に死んでもらうためである。スペクタクルが必要であった。天変地異に比すべき出来事が演出されなければならなかったのだ。

スティムソンは天皇にそれを期待したのである。天皇の特命を受けた畑は、大屋を三笠宮と有末のもとから強引に呼び寄せ、演出を担当させたのである。

原爆投下を事前に多くの人々が知っていたのである。どうして第二総軍においておや、である。あの東京ローズの放送も、畑と大屋の情報が有末のもとへと伝わり、甘く美しい声に乗って、テニアンの原爆機の担当者たちの胸を強く打ったのである。


鬼塚英昭 原爆の秘密[国内篇] 第一章 原爆投下計画と第二総軍の設立 p028-p031より
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