華氏451度

我々は自らの感性と思想の砦である言葉を権力に奪われ続けている。言葉を奪い返そう!! コメント・TB大歓迎。

戦争協力の中で最も悲しいものは(2)――言語の罪・断片

2007-06-04 23:56:00 | 雑感(貧しけれども思索の道程)

 先日、戦前の雑誌を読んだ感想などをしょーもなくつらつらと書いた(5月30日エントリ)。翌日にでも続きを書くつもりだったが、ビンボーひまなしとはワタイのことよ、みたいな生活なので、そのまま放り出していた。別に放り出してもかまわない、というか続けて書いても何か意味や意義があるわけじゃあない、屁みたいなもんだけれど……頭の隅っこのほうでウダウダとうごめき続けているものがあるので、少しだけ文字にしておこうか……。

 先述のエントリで、吉本隆明の評論『四季派の本質』を思い出しつつ少し四季派の詩人達の話に触れた。繰り返しになるけれども、私はボードレールの『巴里と憂鬱』を訳し、自らも危ういほどの繊細さに満ちた言語感覚をもって詩を書いた三好達治が、『捷報いたる』などの戦争礼賛詩集を出したことに――10代のまだ多感な若者だった(笑)私は驚き、暗澹とし、その痛みを伴う感覚は今もなお消えていない。

 変な言い方だが、その三好の翼賛詩が彼の以前からの言語感覚で貫かれていたのであれば、私はあれほどのショックは受けなかっただろう。変な言い方だが……「敵ながらアッパレ」(何やソレ)と思ったかも知れない。だが彼の翼賛詩は本当に……無惨なほど俗悪だったのだ。

 ほんの少しだけ書いてみよう……

【はぢしらぬめりけんぱらはめりけんのくがの奥地におひやらひてん】(くが=陸。メリケンつまりアメリカ人を地の果てまで追いやるぞ、ってな意味でしょう。私は解説などするような素養ないですけど)

【神州のますらをすぐりあだの拠るわたのかぎりをおほひたたかふ】(わた=海、です多分。わだつみというやつ)

 先のエントリで戦前(戦中というのかな)の雑誌に投稿された短歌や俳句を少しだけ紹介した。多分多くの人が同じ感想を持たれるのではないかと思うが、ほんともう「流れに耳すすぎ」たいほど(夏目センセイばりに、石に嗽いだっていいけど)紋切り型で俗悪で、読んでいるこちらの方が恥ずかしかった。三好達治の詩歌だって、虚心に読めばそれらと何ら変わりはない。それどころか名前を伏せて投稿したらさすがに選に漏れるだろうと思うほど手垢にまみれ、詩人の言語感覚とはいったい何だろう、と私は頭を抱えずにはおれないたのだ。世の動きや為政者の思惑に容易に陵辱され、媚びを売る程度のものでしかないのか。単なる高踏的なオアソビなのか。

 ……オアソビが悪いとは言わない。私もオアソビは結構好きなのだが、斜に構え抜く背骨のないオアソビなど容易に権力のタイコモチになってしまうことを、彼らは知らなかったのだ(いや知っていたのかも知れないけれども、それならなおさらタチが悪い)。

 いや、違う。吉本ではないけれども、三好達治をはじめとする多くの詩人の言語感覚そのものの「罪」を、我々はいま確認すべき時がきているような気がする。

◇◇◇◇◇

 今日は思考過程のたわごとメモだけ……まだまだ(勝手に)続く。そろそろムルにバトンタッチした方が話が整理されるかも。

◇◇◇◇◇ 

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コメント (1)
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