華氏451度

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城山三郎より結城昌治

2007-06-28 02:58:12 | 本の話/言葉の問題

 しばらく休みだった「愚樵空論」が再開された(教えてくれたdr.stoneflyさん、ありがとう)。かすかにでも繋がり続けているのはむろん嬉しいことなのだが、はぐれてしまったた友人と再会できた喜びはそれにまさる。愚樵さん、またよろしく。

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 佐高信の『城山三郎の昭和』を読んだせいで(その話は前回書いた)、グスグズと間歇的に城山三郎について考えている。

 前回書いたように私は城山三郎の本を少ししか読んでおらず、それは彼の小説が主には伝記小説であるせいだと思っていた(個人的な好みとしては伝記小説より伝奇小説のほうが……)。だが少しずつ自分の記憶の淵に分け入っていくうちに、ほかにも理由があるかも知れないと気付いた。

 城山三郎の小説の主人公達は、実に颯爽としている。毅然としている。広田弘毅も石田禮助も。

 むろん、颯爽としていること、毅然としていることが悪いことであるわけはない。私もできれば「颯爽と」「毅然と」生きたいと思っているし、多くの人が同じだろう。だが必ずしも颯爽とも毅然ともできず、卑怯なことばかりしている。いや、他の人は知りませんよ。少なくとも私は、なんですが。それに対する忸怩たる思いが、常に影法師のように自分に付きまとっているのだ。私を駆り立てるのは、国という存在が重くなればなるほど自分はもっともっと卑怯になるのではないか、死んでも死にきれない恥をさらすのではないかという恐れだけである。

 城山三郎の主人公達は実にカッコいい。中には――タイトルは忘れたが、タクシー会社で自社の車が事故を起こしたときに被害者の見舞いや弔問に行くのが仕事で、その時だけ重役の名刺を持たされる定年近いサラリーマンを主人公にした何ともせつない小説もあったが……多くの主人公はビビってしまうほどカッコイイのである。

 戦争文学に分類される『硫黄島に死す』を読んだことがあるが、その時にも微かな違和感というか、軋みを感じた。結城昌治の『軍旗はためく下に』や大岡昇平の戦争文学が好きで(結城昌治のこの小説についてはかなり前に紹介した)、同じような味を求めて読んだものだから、余計にそう感じたのかも知れない。

 いや、私は「カッコイイ主人公」は嫌いじゃあない。むしろ好きな方かも知れない。子供の頃はカッコイイ主人公が活躍する冒険小説をわくわくしながら読んだし、司馬遷『史記』の刺客列伝その他の主人公達や、寺山修司の芝居の主人公達も好きだ。そう言えば偏愛する高橋和巳や山田風太郎その他もろもろの作家の小説の主人公たちも、(格好良さの種類はそれぞれ少しずつ違うけど)カッコイイと言えば実にカッコイイのである。バタイユとかグラスとかの小説も登場人物もカッコイイし。漫画(劇画、というのかな)『カムイ伝』の主人公達もカッコイイよなぁ。

 ただ……私が好むカッコイイ主人公達は、考えてみればそのカッコよさは非常にあやうい。「まっすぐ」「純粋」ではないのだ。自分がやっていることが正しいのかどうかはわかんねぇさ、でもこうするしかないんだよな――という、ほろ苦さに満ちている。城山三郎の小説の主人公たちには、その屈折がない(屈折があるのがいいことかどうかは、私はわかりませんが)。

 前回冒頭部分を紹介した城山三郎の「旗」という詩を、私はどうしようもないほど好きだ。問答無用で共感している。彼のものの考え方の原点のようなものも、「うん、わかる」と思うのだ。でも――それでもなお、彼の小説に対する違和感はどうしても拭えない。

 私は以前にも書いたことがあるが、司馬遼太郎が好きではない。その司馬遼太郎の小説と一脈(ほんの一脈、だけれども)相通じる匂いを、私は嗅いでしまう。それは間違っているという意見も多いだろう。確かに司馬遼太郎と城山三郎は、思想信条の根幹が違うことは違う。だから確かに間違っているのかも知れないが、これは私の感覚だからどうしようもない。司馬遼太郎だって、兵士として戦場に生き、戦争の愚を思い知って、二度とあんな世の中にしてはいけないと思っていたことは確か……であるらしい。言論の自由に対しても確固たる立場をとっていた。それでも私は、「歴史を動かしたヒーロー」に思い入れを持つ司馬遼太郎がどうしても好きになれない。城山三郎にも、ちょっぴりそんな匂いを嗅ぐのである。

 思想は変えられる、癖は直せる。だが感覚だけはどうしようもないのである。私は佐高信がけっこう好きなのだが、彼がなぜ城山三郎をここまで評価するのか疑問なほどだ。私はやはり……『硫黄島に死す』でカッコイイ主人公を書いた城山三郎より、『軍旗はためく下に』でとことんカッコワルイ群像を描いた結城昌治の方が好きである。

 なかなか毅然とできない人間でも、否応なく毅然とせざるを得ないことがある。そんなときは、颯爽とはいかないまでも毅然とした言動を貫きたい――これは私の何よりの願いである。そうありたい、と思っている……。

コメント (5)
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