華氏451度

我々は自らの感性と思想の砦である言葉を権力に奪われ続けている。言葉を奪い返そう!! コメント・TB大歓迎。

「戦争協力」の中でも悲しいものは(1)――戦前の雑誌、四季派など

2007-05-30 23:40:29 | 雑感(貧しけれども思索の道程)

◇◇◇◇半世紀余り前の雑誌を買ってきた

 ときどき趣味的に古い新聞や雑誌などを読む。たとえば1900年前後(明治30~40年代)であったり、たとえば1920年代(大正末期~昭和初期)であったり、「その当時」の社会状況というか……世相がありありとわかって本当におもしろい。真正面から政治や社会問題を扱った記事だけでなく、生活関連情報の記事や娯楽記事や連載小説やコラムや読者の投稿や、さらには広告などからも、当時の匂いが立ちのぼる。マスメディアというのは貴重な歴史資料でもあるんだなあ、と変に感心してしまう(真実を伝えているかどうか、事実を正しく伝えているかどうかはもちろん別の話。何が大きな話題・関心事になっていたのか、どんな価値観が優勢だったのか、世の中にどんな風が吹いていたのか等々を知る上で貴重ということである)。

 むろんほとんどは復刻版の出ているものを図書館で読むが、ごくたまに実物を買うこともある。今日もそうだった。

 立ち寄った古書店に、古くは80年ぐらい前、新しいところでは50年ぐらい前の雑誌がどっさり積まれていた。古い雑誌は結構高価なことが多くて普通は二の足を踏むのだが、中に何冊か(たぶん保存状態が悪いせいで)かなり安価なものがあり、それらを買い込んできたのだ。内訳は『週刊朝日』4冊と、『家の光』(※1)1冊で、すべて昭和の年号を使えば16年から17年にかけて発行された号である。

 

◇◇◇◇ジャーナリズムの罪

 それらを今、パラパラとめくっている。いわゆる戦時中だから、記事は戦意昂揚一色――とまではいかない(釣りだの囲碁将棋だの大相撲だのの記事などもある)けれども、まぁそれに近い。記事のタイトルや中見出しを見ただけでも気が滅入る。むろん今の時代に生きているから気が滅入るのであって、当時の読者はワクワクしながら読んだ……のだろうけれども。少しだけ、ランダムに挙げてみよう(※2)。

『政治に戦勝の意気』(週刊朝日・昭和17年6月7日号の巻頭言)

『成層圏空襲に焦る敵米』(同・昭和17年10月25日号の特集記事のひとつ)

『喝采を博した陸軍の明快な措置』(同・昭和16年2月2日号の週間時評)

『時難克服美談集』(家の光・昭和17年新年号の特集のひとつ)

 グラビアページにも陸軍省提供などと大書した「戦勝写真」が踊り、海軍少将だの陸軍少佐だのの署名原稿(たぶん実際は記者の聞き書きだろうと思う)も目立つ。

 おそらく、内心忸怩たるものがあったとしても、そんな記事を書かざるを得なかったのだろうと思う。私はそれを責めることはできない。私自身、戦争協力の記事を書かなければクビになるどころか、おかみに睨まれ周囲から白い眼で見られ……という時代に生まれ合わせたら、情けないけど尻尾振って書いちゃうかも知れないなあ、たぶん書くだろうなあ、と思ってしまうからだ。でも――これはやはり、日本のジャーナリズム史上に刻印された罪、忘れてはならない汚辱である。

「過ちは繰り返しません」というのは、広島の平和の誓いだけではない。ジャーナリズムも常にその言葉を意識しておくべきだと私は思う。その末端で働く者のひとりとして、常に意識しておきたい、と言ってもいい。私は勤めていた時もまっこうから政治問題を扱う部署にいたことはなく、フリーになってからはヒマネタに近いものか、「三面記事の右側ふうのもの(※3)」を扱う仕事に主に携わってきた。だから何を大げさなと笑われそうな気もするのだけれども……雑誌や新聞は一面トップだの特集記事だのだけで戦争協力したわけではない。生活欄のようなところでも、たとえば「乏しさを補う生活のヒント」だの「兵隊さんに慰問文を送りませう」みたいな形で大いに協力していたのだ。

 

◇◇◇◇戦意昂揚の短歌や俳句

 戦争中の雑誌は今までにも読んだことがあり、その「戦争協力」は何となく知っていたつもりだった。でも、いつでもどこでも発見はあるものだなあ……今日は何となく先に読者の投稿欄などを読み、そこでギョッとさせられた。

 現在でも多くの新聞・雑誌が読者の投稿欄を設けている。「意見」を募集する欄もあるし、詩歌の類を募集する欄もある(○○歌壇とか○○俳壇、というやつですね)。半世紀余の前の雑誌にもそういう欄が設けられており、私はその欄を読んで「あまりに悲しく」……そう、気が滅入った。特に、短歌や俳句の投稿欄。

「私の意見」的な欄は、まだいい。いや、いいというのは変だけれども、当時の為政者の意図や社会状況に迎合……と言っては言い過ぎか。何となく煽られて、一億火の玉!みたいな意見を書く人も多かったのだろうなと思う。だが、短歌だの俳句だのまでその色に染まるとは、ほんともう何ごとだろう。紅旗征戎わがことにあらず(あは、私の口癖だったりして)、の定家が泣くぞ。 

 これも少しだけ挙げてみよう(掲載の雑誌と号は略。本来はよくないのだが、ま、私の覚え書きなんで)。なお原文はすべて1字の空きもなく続いているが、読みにくいので適当に空けてある。

「いにしへの ふみにもみずや神くにの みいくさのもと夷ひれふす」

「吾子やがて君の御盾と起つ日あり 思へばわれの努(つとめ)重しも」

「安らかに年を迎へて祈るかな 戦へば勝つ国に生まれて」

「挺身の決意 新緑輝く日」

「いくさ勝つ 青田日に日に濃ゆきかな」

 もちろん編集部が、あるいは選者が意図的にそういう作品を選んだという面は大きいと思うが、それにしても……これだけ載るからには少々の投稿数だったはずがない。

 ところでこれらの短歌や俳句を読んで、皆さんはどう思われるだろう。言葉のきらきらしさを感じるだろうか、感性の奥行きを感じるだろうか。私は感じない。生意気を言ってしまえば、その種の才に欠ける私でさえ作れそうな気がするほどだ。それでもこんな短歌や俳句がはやり、多くの人が争って作り、そして雑誌で優秀作や佳作に選ばれたのだ。それが私には悲しい。

 

◇◇◇◇四季派の詩人たち……

 そこでふと思い出した。随分前のことだが、吉本隆明の『四季派の本質』(だったと思う)という評論を読んだ記憶がある。三好達治をはじめ「四季派」と呼ばれた詩人たちが悲惨なほどの戦争協力の詩を書いたという問題について、なぜだろうかという考察をしたものだ。いま、手元にその評論がないので――何処かに埋まってしまっているので確かめることができないが、四季派の詩人たちが戦争協力したのは彼らが社会に対する認識と自然に対する認識を区別できなかったためであると指摘し、四季派の抒情の本質を批判した文章だったと記憶している。

 それを読んだのは10代の頃だったように思う。ボードレールの詩の翻訳や「母よ――あわくかなしきもののふるなり/あじさいいろのもののふるなり」(三好達治の詩の一節をうろ覚えで書いている。もちろん原文は旧仮名遣い)などの詩に見られる言語感覚に衝撃を受けていた私は、吉本の評論ではじめて三好の戦中詩を知り、二重にショックを受けた。吉本が書いていたことだが、それらの戦中詩は、あの繊細な言語感覚の持ち主が書いたものとはとても思えないほど俗悪で、その惨めさに私はほとんど呆然とした。私が日本的抒情に対して何となく冷ややかな思いを持っているのは、この時のトラウマかも知れない。

 酔いが回って眠くなったので、この辺でいったん幕を引く。続きは明日なり明後日なりに書いてみたいと思う。

 

 ◇◇◇◇注 

※1/『家の光』という雑誌についてはもしかするとご存じない方もおられるかも知れないので簡単に紹介しておくと、JAグループの出版団体である「家の光協会」が発行している雑誌。農家を主な読者対象として、80年余り前に創刊されたらしい。

※2/当然、旧漢字・旧仮名遣いである。雰囲気を伝えるために仮名遣いはそのままにしたが、漢字だけは現在のものに改めた。また現在はほとんど使われない漢字は、場合によって平仮名にしてある。以下、このエントリにおいては続きもすべて同じ。

※3/ニュースの中で小さな記事として扱われる類のもの。社会問題に大きいも小さいもないけれども……。

コメント (3)
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