格差の存在について、小泉首相の発言はあいかわらず強気。2月28日の衆院予算委員会では、「どの国にも、どの時代にも格差はある。そういう中でどのように活力を持った国にしていくか。違いや多様性を認めながら、お互いの力を、能力を高める社会をつくることが望ましい」と述べたそうである。
「違いや多様性を認めながら……」は大いに結構。その部分は、私も大賛成である。しかし、「違いや多様性」がなぜ「格差」に結びつかなければいけないのか。それが私にはどうしても「理解できない」。頭が悪いと言われてもいい、負け組の泣き言と言われてもいい、理解できないと私は死ぬまで執拗に繰り返したい。
「どの国にも、どの時代にも格差はある」
それはそうかも知れない。だが、この言葉には「今、現在の時点で見渡す限り」という注釈がつかねばならない。「喜八ログ」さんの所でコメントをやりとりした時、喜八さんがこんなことを書いてくださった。
「たとえば数百年前の人たちに「普通選挙」を説いても「なんだ? それ?」となったでしょう」(http://kihachin.net/klog/archives/2006/02/horitakeaki.html)
そう……たとえば私たちが何百年も前に生きていたら、「人間が月へ行く」ことは単なる空想に過ぎなかっただろうし、ギリシア・ローマ時代(でも何でもよいが)の奴隷身分に生まれていたら「おまえも主人と同じ尊厳を持つ人間である」と言われてもキョトンとするだけだったろう……。過去のどの時代にも、そして現在の何処の国にもないからといって、イコール、それが空想ということはできない。私たちはしばしば理想と空想とを混同してしまうけれども、「非常に困難な道であっても不可能ではない」ことは空想とは言わない(いや、私は空想も非常に好きなのであるが、それとは話が別)。そして……たとえ自分が死ぬまでに到達できないとわかっていても、私は自分の理想の方に顔を向けていたい。
突然、ピョートル・クロポトキンが『相互扶助論』の中で、生き物の世界には相互闘争(生存競争)の原理のほかに相互扶助の原理があり、生存と進化のためには後者の方がはるかに重要である。生き物は優勝劣敗、弱肉強食の原理によって進化するのではない――という意味のことを述べていたのを思い出した(意味、である。言葉の使い方は少し違っていたかも知れない)。もう1度、クロポトキンや幸徳秋水でも読んでみよう……。



「違いや多様性を認めながら……」は大いに結構。その部分は、私も大賛成である。しかし、「違いや多様性」がなぜ「格差」に結びつかなければいけないのか。それが私にはどうしても「理解できない」。頭が悪いと言われてもいい、負け組の泣き言と言われてもいい、理解できないと私は死ぬまで執拗に繰り返したい。
「どの国にも、どの時代にも格差はある」
それはそうかも知れない。だが、この言葉には「今、現在の時点で見渡す限り」という注釈がつかねばならない。「喜八ログ」さんの所でコメントをやりとりした時、喜八さんがこんなことを書いてくださった。
「たとえば数百年前の人たちに「普通選挙」を説いても「なんだ? それ?」となったでしょう」(http://kihachin.net/klog/archives/2006/02/horitakeaki.html)
そう……たとえば私たちが何百年も前に生きていたら、「人間が月へ行く」ことは単なる空想に過ぎなかっただろうし、ギリシア・ローマ時代(でも何でもよいが)の奴隷身分に生まれていたら「おまえも主人と同じ尊厳を持つ人間である」と言われてもキョトンとするだけだったろう……。過去のどの時代にも、そして現在の何処の国にもないからといって、イコール、それが空想ということはできない。私たちはしばしば理想と空想とを混同してしまうけれども、「非常に困難な道であっても不可能ではない」ことは空想とは言わない(いや、私は空想も非常に好きなのであるが、それとは話が別)。そして……たとえ自分が死ぬまでに到達できないとわかっていても、私は自分の理想の方に顔を向けていたい。
突然、ピョートル・クロポトキンが『相互扶助論』の中で、生き物の世界には相互闘争(生存競争)の原理のほかに相互扶助の原理があり、生存と進化のためには後者の方がはるかに重要である。生き物は優勝劣敗、弱肉強食の原理によって進化するのではない――という意味のことを述べていたのを思い出した(意味、である。言葉の使い方は少し違っていたかも知れない)。もう1度、クロポトキンや幸徳秋水でも読んでみよう……。



記事の考え方が非常に近かったので、思わずTBしてしまいました。(^^)
> たとえば数百年前の人たちに「普通選挙」を説いても「なんだ? それ?」となったでしょう
なるほど。
私も「完全に実現」することが不可能でも追求する意義があると思います。
ただ、それと同時に、「格差」があっても「誰もが満足に生活できるなら『可』」とも思っています。
こちらは、たとえ理想的ではなくても許容できる、という意味ですが。
なにしろ、詭弁を弄することにかけては超?一流の人です。それも、すごく自然にさらっと言ってのけてしまう。才能ですね。
こうした言葉を聞くたびに、戦略があって言っているのかな、どうなのかな? と疑問に思っていましたが、なにかこの人の発想そのものが、自己弁護と詭弁の塊のように思えてきました。
一般的に違いにしろ、多様性にしろ、上下関係ではなく、見た目や性質に差異があるなかで、その違いを乗り越えて、お互いに尊重し合う、そんな時に使われる概念なのかなあって気がします。それに対して、格差って、明らかにピラミッド型の概念。所得が多い、少ない、資産が多い、少ない。上下の別というか、優劣と関係がある概念な気がします。
これを並列してしまうところが小泉さんなんですよね。小泉さんの場合は、経済学者が突っ込むより、まず、国語学者に突っ込んでほしい気がします。
ツァラトゥストラさん;そうですね。人間社会の多くのことは「これだけが正しくて、それ以外はすべてペケ」というわけではないと思います。「優・良・可・不可」の考え方っていいですね。少なくても「不可」は嫌だ! というところで大勢の人と手をつなぐことが出来る。
農婦さん、はじめまして。無駄な人間、生まれてこなかったほうがよかった人間、などはありませんよね……。
レッツらさん;国語学者に突っ込んで欲しい……まさしくそうですね! 多様性というのは水平な関係で、「バラエティーに富んでいる」ということなのですよね。日本語の意味からして、「格差」とは全然違いますよね。
華氏451度さんにもう一つ参考書:マルクス『ゴータ綱領批判』 ないし戸坂潤『日本イデオロギー論』『科学論』。『科学論』は文庫化されてないので,入手不可能かも(神田なら見つかるかも)。
私のぼんくらなコメントを取り上げていただきまして、ありがとうございます。
よくよく考えたら「なんだ? それ?」どころではなくて、「命が危ない」というケースのほうが多そうです。
税金を多く払っている「金持ち」と少しか払っていない「貧者」が同じ一票の投票権を持つ、なんてのはものすごい「危険思想」だと思われてしまうでしょうから。
「多様性」と格差は無関係とういのはまったくその通りだと思います。
小泉首相や竹中大臣の「詭弁」は聞きあきました・・・。