華氏451度

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祝・共産党と社民党の党首会談

2006-03-23 20:30:12 | 現政権を忌避する/政治家・政党


共産党と社民党の党首会談が実現した。憲法改定阻止に向けた共闘の道をさぐる第一歩であり、「現政府の危険な動きを何としても止めたい」と思っている者にとって、嬉しいニュースのひとつと言える。

ここを覗いてくださる方はおそらくニュースをキャッチしておられると思うが、念のため、22日の夜遅く配信された共同通信の報道を引用しておく。
【共産党の志位和夫委員長と社民党の福島瑞穂党首が22日夜、都内で会談し、憲法「改悪」や改憲手続きを定める国民投票法案に強く反対していくことで一致した。今後も必要に応じて意見交換する方針も確認した。ただ共産党が求めていた正式な共闘合意については、社民党側が慎重姿勢を崩さず見送られた。
 会談で福島氏は、改憲阻止に向けて、これまで民主党、連合幹部らと意見交換してきたことを説明し「連帯の核として共産党とも会合を持ててうれしい」と表明。共産党側は共闘関係の構築を目指して「もっと連携を密にしよう」と呼び掛けたが、同席した社民党の又市征治幹事長は「憲法改悪阻止の輪を広げていくためお互いに頑張るのが大事だ。必要に応じて話し合っていこう」と述べるにとどまった。】(引用おわり)

共産党と社民党(および前身にあたる社会党)両党だけの公式の党首会談は、何と28年ぶりだそうである(前回は1978年6月の宮本顕治共産党委員長と飛鳥田一雄旧社会党委員長の会談)。えっ、そんなに長いこと会談していなかったのかと、実のところ驚いた。最近なかったのは知っていたが、いくら何でも28年ぶりとは……。色合いがやや異なるとはいえ、多くの問題について同方向の見解を持つ両党、これまでいったい何をしてきたのか……。のんきな話だと思う一方、それだけ長い年月別々の道を歩いてきた両党の党首会談が持たれたということは、両党共にかなり危機感を強めているのだなと心強くも思う。

私は共産党も社民党も、全面的に是としているわけではない。党の方針や運動の進め方についてはいろいろと異議もあるのだが、「ひとつの課題について考え方がおおむね一致」し、「目指す目的が一致」しているならば、その課題・目的に関しては応援したいと思っている。特に憲法改正および、それと軌を一にする教育基本法改定や共謀罪上程その他、法律によって国家の姿を変容させようとする一連の企ては、それこそなりふり構わず阻止しなければならないことである。だから、少しでも企てに疑問を持つ、あるいは恐怖を感じる人達と連帯していきたい。これはおそらく、現在の日本にきな臭さを嗅いでいる多くの人達の共通した気持ちではあるまいか。その意味で、今回の党首会談は嬉しいニュースなのである。

むろん、これは第一歩に過ぎない。共闘の具体的な方針などは、まだ何も決まっていない。今回の会談を期に可能な限りの連帯を強めて欲しいし、私達の側からそれを要求していきたいとも思う。

〈追記〉社民党側の慎重姿勢
【社民党内では地方組織や古参党員から警戒感が噴出し、執行部も「共産党との共闘だけが突出するのはよくない」(党3役の一人)と判断。民主党も含む他党などとの意見交換の一環と位置付けることにした】(20日配信の共同通信のニュースより)
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私も国家を否認する

2006-03-23 02:39:28 | 非国民宣言(反愛国心・反靖国など)
ずっと体が本調子でない。微熱が下がらず、間歇的にそこそこの熱が出る。別にたいした病気ではなくただの風邪なのだが、なかなか治らない。ストレスたまっているのかなあ……(愚痴)。

ひょっとしたら「日の丸・君が代」問題が剥き出しになる時期だからだろうか?――というのは冗談だが、否応なくそれらを考えさせられる季節であることもまた事実(結構いつも考えているのだけれども、特にこの時期は……)。

「国! 国! 国!」の大合唱。私はこのブログで繰り返し言っているように(実生活でもはっきり言っており、友人・知人その他、顔合わせる人々はほとんど耳にタコの状態なのだが)、国というものに対して何の思い入れもない。「日本という国に」ではない。何処の国に生まれ育とうと、私の存在と「国家」とはさしたる関係はないのだ。ましてや国旗や国歌を制定してくれなどと頼む気はない(だから日の丸が別の旗になり、国歌がまったく別の歌になっても、私は敬意をもつ気は毛頭ないのである)。

確かに日本の国籍を持ち、日本語をしゃべっているけれども、それはいわば「たまたま」である。たまたま生まれ育ったからといって、帰属意識を強制されてはたまらない。頼むからほっといてくれ、という感覚である。

私が参加しているMLで、「我が国という言葉」について苦言を呈するメールが転送されてきた。ジャーナリズムは国の代弁者ではないのだから、我が国という言葉を使うのは間違っているという内容である。本当にその通りだ。以前、ある集会に参加したとき、もと巨大メディアの記者だった方が「自分は“我が国”という言葉は使わない」と発言された。我が国という場合、それは国益を代表することになるからだという。

「国益」の何が悪いのか、という意見もあるだろう。それもまたある意味の正論であるかも知れないが、「国家? それ何さ」という人間にとっては寝言のようなものに過ぎない。私も「我が国」という言葉は使わない(使うとしたら、皮肉を言う場合である)。ちなみに組織に属している時も、「ウチでは」といった言葉は意識して使わないようにしていた。何ものにも帰属せず、何ものにも依らず、それでのたれ死ぬなら私は本望だ。国家などという虚構に(会社とか家とか、その他もろもろのものも同様)、たった1度の人生を賭けられるか。たったひとつの命を捧げられるか。

愛国心教育などが不気味に本気で語られるようになった今、私たちは「愛国心とはどういうものか」というむなしい論議は捨てて、「国家など我々にとってなにものでもない」と宣言することが必要であるかも知れない。むかし、「私は国家を否認する」と言ったヒトがいた。私も遅ればせながら、そして小さな声ではあるけれども、しつこく言う。「私は国家を否認する」と。

まとまりのつかない変なエントリになってしまった……。覗いてくださった方、すみません……(こういう思いつきの駄弁を書くのはよくないことかも知れないが、まあいいんじゃない? 私は評論家でも学者でもない一介の庶民、そしてブログは私の備忘録なのだと、熱のせいで少々開き直っている。国家についての私の嫌悪感については、今月の16日・17日あたりのエントリで、今夜よりはやや詳しく触れた。もし関心を持っていただけたのでしたら、そちらを御覧いただければ幸甚)。明日も仕事だ、もう寝なくては。

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