〈前口上〉
「愛に関するメモ――愛国心に興味はない」「愛国心・お客さまコメント(番外)」など、「愛国心」関係のエントリで、コメンテーターの議論が続いている。 さまざまな意見をいただくこと、知識や情報を提供していただくこと、そして活発な議論を展開していただくこと――原則としてすべて大歓迎である。賑やかなのは大いに結構。ただ、ポカンと口開けて横で見ている間に、どんどん話が拡散してきているので、昨日、次のようなコメントを入れた。
【議論のテーマが「愛国心」そのものから少しずつ逸れてきているような気配が……。むろん人権の問題も共謀罪の話も愛国心問題と根っこの所でつながっていますが、それを言えばきりがない。たとえば先日ご紹介した『虫たちの墓』紹介の記事を読み、戦争に関わる問題として東京裁判についてのコメントを入れる――ご自身の感想にからめて軽く触れる程度ならいいのですが、唐突な感じで持ち出してこられたり、コメント欄で東京裁判論争が始まったりするのはちょっと違う気がします。私はせっかくいただいたコメントはなるべく読みたいと思っていますので、あまり広げてくださらぬよう、お願いします(関係ない話が出て来た時に、すぐにストップかけなかった私が悪いのですが……すみません)。】
これからも、そういうことでよろしくお願いします。愛国心の問題はきっちり煮詰めていきたいと思うので、「国を愛するのは自然なことでしょ」といった粗雑なご意見や、言葉尻を捉えてうんぬんするようなことは御勘弁を。
〈愛国心の定義〉
愛国心というのは人によって受け取り方が違うので、まず愛国心の定義をはっきりてせるべきだという提唱があった。どんな言葉であれ、その解釈や感じ方は人によって違う。ひとつひとつについて定義づけながら話を進めていかねばならないとすると、もともと言葉に変なこだわりのある私なんざ、それこそ何も書けなくなってしまう虞もあるのだが……「愛国心」に限っては議論の方向性を明らかにするためにも、定義した方がいいだろう。まずは一応、私の愛国心の定義を書いておく。
私が解釈している辞書的定義/ごく単純に「自分が生まれた国、あるいは育った国、住んでいる国等、自分自身がそこに帰属していると考える国」に対して、特別な思い入れ(愛着する心)を持つこと。
(自分の国という簡単な言い方をしないのは、生まれた国、育った国、いま所属している国等が異なる人もいるから。たとえば小泉八雲が自分は愛国心を持っていると言ったら、その対象は母の祖国であり彼が生まれた国でもあるギリシアか、父の祖国であり幼児期から育ったアイルランドか、最も長く生活したアメリカか、それとも最後に国籍を持った日本か。何処でしょうね)
私自身の愛国心の定義/「自らが帰属している(あるいは帰属していると考える)国」に対して、それを特別なものとして思い入れを持つこと。その思い入れの中身は「愛着心」と「忠誠心」の2種類がある。
〈問題は忠誠心〉
愛着を持つというメンタリティは、誰も否定・非難することは出来ない。子供が「うちのお母さんは世界一すばらしい人」と思ったり、特定の土地が好きで好きでたまらなかったり、伝統芸能を大切に守りたいと思ったりすることについては、基本的に(あくまでも基本的に、である)問題はない。
問題は「忠誠心」の方にある(それはまあ、持ちたい人は持ってもかまいませんけれども)。そして国家に代表される人間の集団においては、しばしば「愛着」よりも「忠誠」が重視される。愛国心なるものの危険性は、そこにある。
よく「自分の国を愛するのは自然なことじゃないか」と言う人がいる。愛着を感じる、という意味だけならばあるいは「自然なこと」に近いかも知れない。私は愛着心も比較的薄い方だが、それでも日本の文化の中で育った人間として、ヘソの緒でつながっている感覚はある。イヤな国にはなって欲しくない。
しかし、本当に「ごく自然なこと」であれば、なぜわざわざ「愛する心を育て」なければいけないのか。答えは簡単で、実は自然なことでも何でもないからだ。前にも書いたような気がするが、誰も絶対に立ち小便や違法駐車するわけない所に「立ち小便禁止」「駐車禁止」の張り紙などするわけがない。そういった張り紙があるのは、そこでする奴がいる、という証拠みたいなものである。「愛国心教育」の必要性を声高に叫ぶ人々がいるのは、自然に任せていては生まれにくいものだからであり、その場合の愛国心の中身は間違いなく忠誠心の方である。
コメント欄で「アメリカでもドイツでも国旗に礼を払うのは学校で教えます。国家ならば当然の行為でしょう」と書かれた方がおられるが、そう、まさにその通り。国旗にせよ国歌にせよ忠誠心を養うための小道具であり、だから私はいかなる国のものであっても国旗や国歌は好きになれないのだ。
〈忠誠心にNOを〉
忠誠心というのは相手が何ものであれ、その相手だけに捧げられる(あなただけを愛する、というやつだ)。そして、忠誠を誓った相手のために、彼の敵を滅ぼすことに情熱を燃やす。忠誠心は一面美しいものであるらしく、王に忠誠を誓ったり、帰属集団に忠誠を誓って華々しく戦いそして死んでいった英雄達の物語は世界中に枚挙のいとまもないが、一歩下がって見てみれば「何だそれ」でしかない。忠誠心に燃えた人間達同士が殺し合って、いったい何してるんだ。いや、本気で忠誠心に燃えている人はいいとしても、巻き込まれて犬死にしたり家を焼かれた人間はどうなるんですか。
愛国心、などという曖昧な言葉がいけないのかも知れない。いっそ「忠国心」と言っていただければ、わかりやすいと思うのだが。
愛国心は一種の病気のようなものでしょうか。伝染性の病気です。シンタロウやシンゾウはその感染源ですが、その病気に対して免疫力を持った人もいます。「いくじなし宣言」なんて非常に優れた免疫でしょう。
伝染病は体力のない人に感染しやすいものですが、愛国病も同じ。心が弱っている人が掛りやすい。この病気は致死率がかなり高い病気ですが、困ったことに感染すると快感を感じるようなのです。興奮状態に陥る。心が高揚して強くなったように感じるらしい。だから患者は自ら積極的に治療しようとしない。
この患者たちに「愛国心は必要ない」なんて冷や水をブッ掛けたって効果なし。ますます興奮する。罹患してからだと免疫もダメ。今のところ、特効薬なし。
この病気を治療するには、栄養をつけて基礎体力を向上させるしかないようです。心の基礎体力。一昔前までは、いろいろな「共同体」があって、皆そこから栄養を吸収して心に基礎体力がありました。
実は、私も昔から持っているブログで、「愛人心」と言う言葉を使ったことがあります。
愛国心とは、各人の内心の問題であることは間違いありません。私は、愛国者であると自認しています。
しかし、その中身は、家族を、友人を、そしてこの日本の山河と文化を愛する気持ちです。
決して、誰かから、考え方を押し付けられるべき問題ではありません。
アメリカの手先となって、集団的自衛権のもと、他国に軍隊を送り、殺し殺されすることは、私にとって、愛国の範疇に入りません。
「愛国」を呪文のように唱えたり、人に押し付けようとする人たちは、自分達の概念に従わない人を、「非愛国者」と非難します。
まるで、オウム真理教で、上位の者に逆らった信者に、「信仰心が足りない」と言って、懲罰を科したのと、なんら変わりがありません。
また、ドイツにおける、ネオナチの言動を見てわかるように、自ら確固とした愛国心や、理想をもてないレベルの人は、愛国=他民族排斥という行動に出ます。
今のネット右翼の、根拠の無い、中韓への誹謗中傷などは、自らが誇るものを持たない人間が、無理やり他者を貶めて、自己満足の疑似優越感に浸るだけの未熟な考え方です。
上記のように、愛国心は、人に共用されるべきものではない、個々人の内心の問題ですし、他者を貶めることで成立するものでもありません。
私は以上のように考えます。
また、愛国心は、全員が持つ必要もありません。アメリカ文化にあこがれたり、アジア文化に魅せられて移住する人などがいても、それは各自の内心のことですので、全く問題ありません。
ではでは。
愛国心の強制の次に来るものとして教育基本法の改正を危惧しています。この教育基本法の改正から憲法改正そして徴兵制への流れがあるように思えてならないのです。仮に徴兵制でなく、志願制だとしても誰が志願するのでしょう。それは、愛国者ではなく貧困層(私もその中の1人)でしょう。大きな流れとして、格差社会を作り大多数の「負け組み」をその予備軍として作り出しておくと思われてなりません。
なお、私も「いくじなし」の一人に加えていただきたいと思います。
http://www.asahi.com/national/update/0921/TKY200609210287.html
愛国心の強制は思想・良心の自由を保証した憲法に違反するいう至極まともな判断ですね。
要するに「郷土」だの何だのをだしにして服国心を強制したい、ということでしょう。愛国心をいう人たちに、では戦前の愛国心教育をどう評価しますか、と聞いてみたいですが、政治家たちはあれを模範としているようですね。
ところで「和をもって尊しと・・・」の「和」ってその時の使い方は、服従という意味らしいですね、しょうがないですね、いつの時代もごまかして。
そんなことより、麗子のことよろしくね♥。
華氏さんたち左翼は「愛国心」は皆を強制するものだといいますけれど、憎むべき相手は「愛国心」という道具を使い、国民を振り回す政治家などでしょう。
「愛国心」も、例えが悪いかもしれませんけど、鋏と同じ。
使い方、捕らえ方によって良くも悪くもなるものだと思いますが。
>忠誠心
ようは、信頼の強くなったものでしょう。
私はこういう物は好きですけどね。
今回の都教委通達は地裁、高裁の判決はあくまで参考かな。
絶対に最高裁に行くことが目に見えてるし。
靖国の時も結局そうだったし。
では、「良くする」ということの具体的な内容について論じることになります。市民のどのような言動が日本を良くすることになるのか、という議論ですね。(今晩はしないけど...。そうすると、議論の前に、「日本を良くする」とは何か、という定義をまたしないといけないかな。)
確認のための質問です。「憎むべき相手は「愛国心」という道具を使い、国民を振り回す政治家など」と久々さんはおっしゃいます。では、久々さんはそういう政治家などを憎む(私の言葉でいうなら「批判する」ですが)と理解してよろしいですか?
卒業式に起立しないで下さいと叫ぶのは、要請あるいはお願いではあっても、「強制」ではないと思います。拒むと不利益(減給とか解雇とか意に沿わない配転とか)をこうむるような状況に追い込んだり、権力を背景にした有形無形の圧力を使って無理に従わせることを強制というのではないでしょうか。
「国歌・国旗は法制化」されましたが、「国歌・国旗の強制」は法制化されてないです。