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日の丸・君が代の強制は違憲・違法――という判決が出たにもかかわらず、下の方にコピーした資料(新聞記事)を見ていただければわかる通り、都教委は自らの方針に自信満々。臨時の校長連絡会を開いて、「今まで通りに国旗・国歌の指導を」と釘を刺した。
なぜ、それほどまでに国旗に敬礼させたがり、国歌を歌わせたがるのか(あのですね……学者や評論家の方たちによる詳細な論考は、いくら私でもわかっています。私は活字オタクですから、活字だけはあれこれと読みあさってますし。ですからまことに申し訳ありませんが、このエントリに対して学者や評論家の言葉を引いて解説を加えていただくのは御容赦ください。ただ、知識として理解するということと、感覚として理解するということはまた別。私の存在の根底にあるものが、「なぜ? なぜ?」と悲鳴を上げているのだ。ですからご自身の存在を賭け、肉声でもって発言してくださるコメントならば、賛同であれ批判であれ大歓迎である。肉声のぶつかり合いの歓びがなければ、アホらしくてブログなんかやってられっかよ。1円にもなるわけじゃなし、こんな過疎ブログが世の中を変える力なんざ持てるわけないし。かすかに響きあうものを求める思いがなければ、おかしくってやってられるもんか。冗談じゃあねぇよ)。
我らが都知事は、「子供達の規律を取り戻すために、ある種の統一行動は必要」と言い、そのひとつが国旗・国歌への敬意だと断言したそうな。ふうん……規律、ねえ。統一行動……ねえ。子供達の世界が凍原のように荒れているのは事実だとしても、それが「統一行動」によって救われるというのはあなたの思い込みでないの? 出口を求めて苦しむエネルギーや感性を、上から統制するのでなく、どう育ててやるかを考えるのが教育というものじゃあないんですかね。ありもしなかった父権幻想(父権と母権については河合隼雄がよく言ってますね。彼の論の是非はともかくとして、日本にほんとうに父権なんてものがあったのか、というあたりは結構納得できる)に魅せられた父権オタクのマッチズモ知事は、都民を戸塚ヨットスクールの生徒扱いして、上から言われたことに忠実に従う「純粋な青少年」を作り出したいらしい。上の世代を否定し、世の中に疑問を持ち、権力に反抗するのは10代の人間に共通したごく自然なメンタリティ(ただし、それをいつまでも持ち続ける人間は――少ないとは言わないが、大多数でないことはおそらく確かである)。『太陽の季節』(はっきりいってつまらない小説だった。風俗的にちょっと目立つことを書けば評価してしまうと言う、文壇とやらの体質にも私は失望した)を書いた作家なら、わかっているはずだと思うが……。もしかすかるとよくわかっているがゆえに、自分が年をとるにつれ、そのエネルギーが怖くなったのだろうか(苦笑)。
私は国旗を拒否し、国歌を歌わない「最後のひとり」になってもかまわない(何度も言うが、私は「日の丸・君が代」がダメと言っているわけではない。世界中どこのものであれ、国旗も国歌も私は自分自身のメンタリティとして認められないのだ。日本で革命が起き、日の丸・君が代ではない国旗と国歌が生まれても、私はそれを認めないであろう)。かなり前にも書いたような気がするが、私は生まれてこのかた、国旗を掲げたことも国歌を歌ったこともない。ついでに言うと、制服なるものを着たこともない。特に深い思想的な背景があったわけではなく、単に「右へならえ」の日常が嫌だったのだ。そういう人間は、決して少なくないと思う。その感覚を押しつぶそうとする一糸乱れぬ靴音に、私は死ぬまで抵抗する。むろん「いくじなし」なもんですから、勇ましい抵抗はできませんけれどね。
怒り狂っているせいで、変な記事になった。私は原則として下書きはせず、書き流すだけなので……まっ、所詮は「庶民のメモ」ということで、御容赦。
◇◇◇資料◇◇◇
東京都教育庁は22日、入学式や卒業式での国旗・国歌の強制を違憲とした東京地裁判決(21日)を受け、都内で都立学校の校長を対象にした臨時校長連絡会を開いた。都立高校や盲・ろう・養護学校の校長251人が出席し、同庁は、日の丸と君が代の指導について、今後も従来通りの方針で臨むことを説明した。
連絡会は非公開。同庁高等学校教育指導課によると、同庁側が控訴する方針を示したうえで、判決の内容を説明し「私どもの行政行為が何ら阻まれるものではないので、今まで通り、通達に基づいて国旗・国歌の指導を実施してほしい」と要請した。また、校長2人から質問があり「控訴審はどうするのか」との問いには「訴訟態勢を強化する」、「(教職員への)職務命令をどう考えたらいいのか」との質問には「一向に変わらない」などと返答があったという。
同課の高野敬三課長は連絡会後「周年行事や卒業・入学式に向けて課題が出てくる場合、教育庁一丸となって支援していきたい」と話した。
東京都の石原慎太郎知事は22日の定例会見で、東京地裁判決について「(裁判官は)都立高校の実態を見ているのかね。現場に行って見たほうがいい。乱れに乱れている」と疑問を呈し「子供たちの規律を取り戻すために、ある種の統一行動は必要。その一つが国歌、国旗に対する敬意だ」と指摘した。さらに「(学習)指導要領でやりなさいといわれていることを教師が行わない限り、義務を怠ったことになるから、注意、処分を受けるのは当たり前」と語り、指導徹底を打ち出した03年10月23日の都教委通達の意義を強調した。(9月23日付・毎日新聞)
>私の存在の根底にあるものが、「なぜ? なぜ?」と悲鳴を上げているのだ。
これこそ華氏さんの「自分の言葉」の核心でしょうか? そんなふうに思いました。
こんなことは言うまでもないことですが、「存在の根底」が声を上げているのは、華氏さんだけではありません。私だってもちろん、同じ。それは皆同じであるはずです。従わせようとする人、従おうとする人、従いたくない人、皆同じのはずなのです。
各々の人の主張が皆、存在の根底から出てきたものであるなら? いや、おそらくそうだろうと思うのです。だとすれば、違う主張をする者の間で、接点はどこにもないことになってしまう。
でも、そうですか? 互いの存在の根底は理解しあえないものでしょうか? 私はできると信じています。
もし、できないのなら、できないと信じるのなら、憲法9条など掲げても無意味でしょう。 どこまで行っても認め合うことができないのなら、争うしかないではないですか。
私はひとつの旗しか仰げないとする人を不幸だと思います。いかなる旗を仰げない人も、同様に思います。
いいではないですか、どんな旗を仰いだって。どんな歌を歌ったって。あなたが仰ぐこと、歌うことは認める、というだけではなくて、私にも認めてみたっていいではないですか。たかが旗、たかが歌です。
自分にも認めてみることで、ひょっとしたらこの旗しかダメという人の「存在の根底」に近づけるかもしれない。近づけたなら、接点も見出せるでしょう。話が通じれば、争いは回避できるかもしれない。
すべてを理解できれば、すべてを許せるはずです。理解するには、こちらから相手にアプローチしなければなりません。互いの陣地から一歩の出ずに主張の砲弾を打ち合ったて、何も接点は見出せないのです。
これは何も死刑制度に限った話ではありますまい。すべてについていえることです。
面従腹背を教えるのが関の山という気がします。
そういう子どもたちを徴兵しても・・・とても「お国のため」に勇ましく死ぬとは思えない。今の情報化社会の中で、画一化した表面的な「愛国心教育」は無理があるとどうして考えないのか、とても不思議です。
日本が法治国家であることを頭から否定するようなコメント、そして控訴に腹が立ちます。国の決めたルールを尊重せずに、何が愛国心だと思います。
少年犯罪は減り続けてるし薬物使用も減り続けてるし
石原都知事が子どもだったときのほうが、ずっと少年犯罪が多かったわけですよね?
この「乱れた若者」幻想ってどうにかならないんだろうか。
昨日飲酒運転事故をした芸能\人が自殺しました。これもコンプライアンス(法律遵守)という大きな搦手の中で起きた一つの悲劇と考えます。コンプライアンス自体は良いことです。良いことだと「頷いた」時点で我々の心は管理されたようです。
美しい国発言、国歌国旗起立問題、チラシまき逮捕、教育基本法、監視カメラ、飲酒運転取締強化、もっとあるかもしれない。
何が出来るのかわからない。
彼らは上からの抑圧に潰されて逃げてしまいますから、変に強制するのは逆効果だと思いますね。
彼らは上からの抑圧に潰されて逃げてしまいますから、変に強制するのは逆効果だと思いますね。
先生と生徒、あるいは親と子が友達の様に喋ったり、これはいい事ではありません。またちゃんと座っていられない、立っていられない、黙っていられない、意見を言えない。
親が『強制』ということにことさらおびえて子供を正しく導いていないからだと思います。
親が子供を『気分』で従わせる事と、社会の規律、人間としての道徳で子供を厳しくしつける事はまったくちがいます。
『強制だ!』『押しつけだ!』『侵害だ!』と言うのは、気分でしかないと思います。へ理屈にしか聞こえません。近視眼的なやかましいおばさんの様です。これを子供たちは感じているのだと思います。見抜いているのだと思います。
こんな大人が教育者では、子供は混乱するだけです。へ理屈ばかりの大人はまったく頼りにならない。と感じるはずです。
胸を張って国旗を掲揚し、背筋を伸ばして国歌を歌う。これを誇りを持って実行している大人を見たときと、なんだかんだ理屈を付けてグダグタ反抗して気勢を上げている大人を見たときと、どっちが子供にとっていいでしょうか?