華氏451度

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愛に関するメモ――「愛国心」に興味はない

2006-09-06 01:57:19 | 非国民宣言(反愛国心・反靖国など)

〈おまえは愛国心がないのか、と言われても……〉

「おまえは愛国心がないのか」という言い方がある。私自身は自分を愛国心のある人間だとは思っていないので(※1)「愛国心がない」、あるいは「反日」「非国民」などと言われても「はあ? それがどうしたの」という感じであるが、私よりも真面目な人達は、愛国心話に引きずり込まれることがままあるようだ。だが私は、愛国心があるのないのという議論は何処まで行っても不毛であると思っている。なぜならば愛というのは――相手が国であれ何かの思想や宗教であれ、具体的な人間その他の生き物であれ――小泉首相ではないけれども、それこそ「心の問題」だからである。

※1/ときどきTBをいただいたり、こちらから送っている喜八さんによれば、私も愛国者だそうであるが……(苦笑)。いや喜八さん、すみません。おちょくる気はないのです。私を愛国者と言ってくださる方は非常に珍しいものですから……。

〈愛にもいろいろな形がある〉

 いきなり妙なたとえをすると、ある男がひとりの女を愛したとする。その愛し方には、いろいろな形があるだろう。

 自分のような男は彼女に愛される資格はないと思い、遠くからそっと見守るという愛。女が別の男を好きになった時に潔く身を引くという愛、あるいは女の心を取り戻すために修羅場を演じる愛。いっそ来世で(ほとんど文楽の世界……)と思い詰めて共に死ぬ愛。無理心中に至る愛、というのもないわけではない。

『春琴抄』の佐助の愛も、オスカー・ワイルド描くところのサロメの愛も、シラノ・ド・ベンジュラックの愛も、軽大郎女(※2)の愛も、萬貴妃(※3)の愛も、同じ愛であり、愛という意味においては等価である。たとえば軽大郎女の愛は当時の法や倫理から言っても認められないものであったが、そのことと、彼女の「愛」が純粋であったかどうかとは何の関わりもない。

※2/同母兄とのインセストで有名。『古事記』や『日本書紀』に記載がある。事実かどうかまでは私が自分で取材したわけではないので保証できないが、少なくとも私のデッチアゲではない。

※3/明・成化帝の時代に後宮で絶大の権力を振るった妃。皇帝より20歳近く年上で、母と妻を兼ねたような存在だった

 愛はおそらく人間の中で最も尊いもののひとつだが、諸刃の剣でもある。時としてモラルを超え、「この愛のためならば世界が滅びても構わない」と思わせるほどの力があるからだ。いわば美しい危険物でもある。

 自分と、そして愛する対象のことだけしか考えず、成就のためには他者を踏みにじっても構わないという愛。あるいは愛の名のもとに相手を踏みにじっても許されると思う愛、もある(ストーカーなどはそのひとつの現れだろう)。それを「あなたの考え方は間違っている」と言うことは出来るが、彼の心を満たしている愛情を「存在しないもの」として否定することは誰にも出来ない。もしかすると神や仏であればそう言えるのかも知れないが、あいにくと私は確信犯的無神論者である……。

〈愛に深入りしたくない〉

 ともかくそういったわけなので、私は政治や社会を語るときに「愛」という言葉に深入りしたくない。言い換えれば、国その他抽象的なものを語るときには「愛」という「心の問題」は排除したい。

 たとえば国を愛するということ。神国・日本を守りたいと思うのも、憲法を改定して天皇を元首とすべきだと思うのも(と、石原都知事が言っている。でっちあげではなく、彼が著書の中で明言していることだ)、「国を愛している」からだろう。アメリカのパシリになりたい、東京裁判は間違っていると思う、他国からとやかく言われたくない、……すべて「国を愛している」ゆえであろうことを、私は疑ってはいない。ときどき「左翼は愛国心がない!」と叫ぶ人がいるが、左翼も(その多くの人は)国を愛しているのである。愛しているからこそ「これではいけない」と思うわけだ。

 オレの方が愛国心が強いぞ、という――愛国心の取り合いは、もうそろそろ止めようではないか。話が泥沼に陥るばかりである。

〈愛する心は独立して存在しない〉

 私は自分が「反日」「非国民」と言われても結構だと言ったが、「ではおまえは国を愛していないのか」と言われればふと戸惑う。

 たとえば、家族。私は両親を特に愛してはいなかった。愛するとか愛さないとか、そういうことを意識したことはあまりないし、ご多分に漏れず、子供の頃は幾分か親というものを憎んでもいた。だが両親の子としてこの世に生を受けたのは紛れもない事実であり、否応なくヘソの緒でつながっているのだという意識は今もある。

 そう……私は6歳で死別した父親が好きで、目を吊り上げて必死で私を育ててくれた母が好きで、春・夏・冬には長期で私を預かってとことん甘やかしてくれた祖母が好きだった。好きだからこそ、自分が安心して戻って行け、誇りを持ってひとに紹介できる存在であって欲しいと思ったのだ。国とか郷土とか言うものも、おそらくはそれと同じである。  

〈国を愛する心を育てるよりも、愛せる国をつくるのが先〉

 たとえば親。子供を博打のカタに遊郭に売ったり、性的虐待をしたり、子供ができないことを無理強いしたり(本人の資質や能力とかけ離れた要求をすることのほか、反社会的な行為を強いることも含む)……自分を苦しめる親を、愛せるはずがない。時には殺意を覚えることもあるだろう。だがしかしどんな親でも――子供は愛したいと思うのだ。その、ほとんど「本能的」と言ってもいい「親を愛したい気持ち」を逆手に取る人間を、私は憎む。

 愛されたいならば、多くの人間は「相手に愛される存在になりたい」と思い、さらに「愛する対象のために自分は何ができるのか」と考える。のっけから「自分を愛せ」と高飛車に言うのは、それは順序が逆だろう。

 愛せ、愛せとお題目のようにとなえずとも、愛するに値する存在ならば愛される。けったいな奴に拉致されて「てめぇ、オレを愛せっちゅうんだ」と迫られても(怖いから口先では愛しますと誓っても)愛せるわけがなかろう。

 繰り返して言う。愛は言葉ではない、「心の問題」である。私も好むと好まざるとにかかわらず日本に生まれ、日本語を母語とする人間だ(※4)。愛憎半ばするとはいえ、ある種の愛着がないはずはない。

※4/ナサケナイ限りだが、私は日本語以外の言語はきわめてあやしい。趣味的に囓った言語はむろんのこと、10年間ならったはずの英語でさえ、社交辞令を述べたり旅行に行って道を聞く程度ならともかく、ある種の武器として使う自信はない。

  日本語でものを考え、表現するしかない人間のひとりとして、この国が、この国の文化が、この国の言語が滅びて欲しくないという気持ちは多分にある。だが「とうちゃん、かあちゃん。やめてよお、違うよォ」と悲鳴を上げざるを得ない両親を持つよりは、親のない子に私はなりたい。

 だが幸いにして「国」というものは、「親」や「家庭」よりも変えやすい。親とつながったヘソの緒は生物学的な現実だけれども、国とつながったヘソの緒は幻想だからである(ついでに言っておくと、私は幻想という言葉を悪い意味には使っていない。見果てぬ夢、と言ってもいい。見果てぬ夢を持たずして、人間は自分が人間であることを主張できるだろうか)。私のようなヘタレ庶民ですら「愛している」と言えるような国を、私は死ぬまで夢見続けたい。 

追記/お玉さんのように「華氏は間違っているかい?」と言いたいのはヤマヤマなのであるけれでも(笑)、我ながら似合わないのでやめる(私が言えば、さぶいギャクにしかならない。これが人徳の差というやつである)。 

コメント (2001)
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