〈おまえは愛国心がないのか、と言われても……〉
「おまえは愛国心がないのか」という言い方がある。私自身は自分を愛国心のある人間だとは思っていないので(※1)「愛国心がない」、あるいは「反日」「非国民」などと言われても「はあ? それがどうしたの」という感じであるが、私よりも真面目な人達は、愛国心話に引きずり込まれることがままあるようだ。だが私は、愛国心があるのないのという議論は何処まで行っても不毛であると思っている。なぜならば愛というのは――相手が国であれ何かの思想や宗教であれ、具体的な人間その他の生き物であれ――小泉首相ではないけれども、それこそ「心の問題」だからである。
※1/ときどきTBをいただいたり、こちらから送っている喜八さんによれば、私も愛国者だそうであるが……(苦笑)。いや喜八さん、すみません。おちょくる気はないのです。私を愛国者と言ってくださる方は非常に珍しいものですから……。
〈愛にもいろいろな形がある〉
いきなり妙なたとえをすると、ある男がひとりの女を愛したとする。その愛し方には、いろいろな形があるだろう。
自分のような男は彼女に愛される資格はないと思い、遠くからそっと見守るという愛。女が別の男を好きになった時に潔く身を引くという愛、あるいは女の心を取り戻すために修羅場を演じる愛。いっそ来世で(ほとんど文楽の世界……)と思い詰めて共に死ぬ愛。無理心中に至る愛、というのもないわけではない。
『春琴抄』の佐助の愛も、オスカー・ワイルド描くところのサロメの愛も、シラノ・ド・ベンジュラックの愛も、軽大郎女(※2)の愛も、萬貴妃(※3)の愛も、同じ愛であり、愛という意味においては等価である。たとえば軽大郎女の愛は当時の法や倫理から言っても認められないものであったが、そのことと、彼女の「愛」が純粋であったかどうかとは何の関わりもない。
※2/同母兄とのインセストで有名。『古事記』や『日本書紀』に記載がある。事実かどうかまでは私が自分で取材したわけではないので保証できないが、少なくとも私のデッチアゲではない。
※3/明・成化帝の時代に後宮で絶大の権力を振るった妃。皇帝より20歳近く年上で、母と妻を兼ねたような存在だった
愛はおそらく人間の中で最も尊いもののひとつだが、諸刃の剣でもある。時としてモラルを超え、「この愛のためならば世界が滅びても構わない」と思わせるほどの力があるからだ。いわば美しい危険物でもある。
自分と、そして愛する対象のことだけしか考えず、成就のためには他者を踏みにじっても構わないという愛。あるいは愛の名のもとに相手を踏みにじっても許されると思う愛、もある(ストーカーなどはそのひとつの現れだろう)。それを「あなたの考え方は間違っている」と言うことは出来るが、彼の心を満たしている愛情を「存在しないもの」として否定することは誰にも出来ない。もしかすると神や仏であればそう言えるのかも知れないが、あいにくと私は確信犯的無神論者である……。
〈愛に深入りしたくない〉
ともかくそういったわけなので、私は政治や社会を語るときに「愛」という言葉に深入りしたくない。言い換えれば、国その他抽象的なものを語るときには「愛」という「心の問題」は排除したい。
たとえば国を愛するということ。神国・日本を守りたいと思うのも、憲法を改定して天皇を元首とすべきだと思うのも(と、石原都知事が言っている。でっちあげではなく、彼が著書の中で明言していることだ)、「国を愛している」からだろう。アメリカのパシリになりたい、東京裁判は間違っていると思う、他国からとやかく言われたくない、……すべて「国を愛している」ゆえであろうことを、私は疑ってはいない。ときどき「左翼は愛国心がない!」と叫ぶ人がいるが、左翼も(その多くの人は)国を愛しているのである。愛しているからこそ「これではいけない」と思うわけだ。
オレの方が愛国心が強いぞ、という――愛国心の取り合いは、もうそろそろ止めようではないか。話が泥沼に陥るばかりである。
〈愛する心は独立して存在しない〉
私は自分が「反日」「非国民」と言われても結構だと言ったが、「ではおまえは国を愛していないのか」と言われればふと戸惑う。
たとえば、家族。私は両親を特に愛してはいなかった。愛するとか愛さないとか、そういうことを意識したことはあまりないし、ご多分に漏れず、子供の頃は幾分か親というものを憎んでもいた。だが両親の子としてこの世に生を受けたのは紛れもない事実であり、否応なくヘソの緒でつながっているのだという意識は今もある。
そう……私は6歳で死別した父親が好きで、目を吊り上げて必死で私を育ててくれた母が好きで、春・夏・冬には長期で私を預かってとことん甘やかしてくれた祖母が好きだった。好きだからこそ、自分が安心して戻って行け、誇りを持ってひとに紹介できる存在であって欲しいと思ったのだ。国とか郷土とか言うものも、おそらくはそれと同じである。
〈国を愛する心を育てるよりも、愛せる国をつくるのが先〉
たとえば親。子供を博打のカタに遊郭に売ったり、性的虐待をしたり、子供ができないことを無理強いしたり(本人の資質や能力とかけ離れた要求をすることのほか、反社会的な行為を強いることも含む)……自分を苦しめる親を、愛せるはずがない。時には殺意を覚えることもあるだろう。だがしかしどんな親でも――子供は愛したいと思うのだ。その、ほとんど「本能的」と言ってもいい「親を愛したい気持ち」を逆手に取る人間を、私は憎む。
愛されたいならば、多くの人間は「相手に愛される存在になりたい」と思い、さらに「愛する対象のために自分は何ができるのか」と考える。のっけから「自分を愛せ」と高飛車に言うのは、それは順序が逆だろう。
愛せ、愛せとお題目のようにとなえずとも、愛するに値する存在ならば愛される。けったいな奴に拉致されて「てめぇ、オレを愛せっちゅうんだ」と迫られても(怖いから口先では愛しますと誓っても)愛せるわけがなかろう。
繰り返して言う。愛は言葉ではない、「心の問題」である。私も好むと好まざるとにかかわらず日本に生まれ、日本語を母語とする人間だ(※4)。愛憎半ばするとはいえ、ある種の愛着がないはずはない。
※4/ナサケナイ限りだが、私は日本語以外の言語はきわめてあやしい。趣味的に囓った言語はむろんのこと、10年間ならったはずの英語でさえ、社交辞令を述べたり旅行に行って道を聞く程度ならともかく、ある種の武器として使う自信はない。
日本語でものを考え、表現するしかない人間のひとりとして、この国が、この国の文化が、この国の言語が滅びて欲しくないという気持ちは多分にある。だが「とうちゃん、かあちゃん。やめてよお、違うよォ」と悲鳴を上げざるを得ない両親を持つよりは、親のない子に私はなりたい。
だが幸いにして「国」というものは、「親」や「家庭」よりも変えやすい。親とつながったヘソの緒は生物学的な現実だけれども、国とつながったヘソの緒は幻想だからである(ついでに言っておくと、私は幻想という言葉を悪い意味には使っていない。見果てぬ夢、と言ってもいい。見果てぬ夢を持たずして、人間は自分が人間であることを主張できるだろうか)。私のようなヘタレ庶民ですら「愛している」と言えるような国を、私は死ぬまで夢見続けたい。
追記/お玉さんのように「華氏は間違っているかい?」と言いたいのはヤマヤマなのであるけれでも(笑)、我ながら似合わないのでやめる(私が言えば、さぶいギャクにしかならない。これが人徳の差というやつである)。
個人的な感覚では国家も法も全て人間の概念であり、実体のない「機能」。「概念や機能を愛する」というのは奇妙な行為に思えます。むしろ「概念に取り憑かれる」といった感覚に近い印象がありますね。
そもそも概念(あるいは国家を実体と見るにせよ)を、感情のような不安定なもので支持しようという発想自体も私にはよく分かりません。愛は簡単に憎しみに転化しますから、熱烈な愛国者転じて国家の仇敵に豹変することも有り得ますし、そんな物騒なものを統治者が望むと言うのも、私には不条理に感じられます。
リベラルな方々の言説に色々触れている時、いつも「連帯だ共生だと言っても、結局はオルタナティブな『体制』作りに着地する他ないんじゃないの?」とどこかで斜めに見てしまいます。
デザインの違う新しい牢獄に移るだけじゃないの?って。
人間の叡智や進歩といった概念にも懐疑的です。
例の「リハビリ診療短縮問題」に反対署名したりとか、やれることはやってますが、それは庭の手入れをするような感覚で、社会を変革しようというような意図は全くないです。
つまらない独り言になってしまいました。
すみません。
かつての同僚が心の病を患って会社を追われ、10年近く前に郷里に戻りました。
当時田舎にいる彼の許を訪ねた折、彼とその妻は自分たちの暮らしている町を呪っておりました。死んだ人たちの暮らす死んだ町と。牢獄の町と。
先日、彼が一年ほど前からブログを運営していることを知り、覗いてみたところ、彼は反グローバリストになっており、社会の拝金主義や弱者排除を糾弾しながらシャッター商店街として寂れゆく我が町への愛惜と懐古、そして愛を繰り返し繰り返し述べておりました。
私はそれを見て暗い気分になったのです。
確かに彼の意見は変わりました。一見いいことのように見えますが、しかしその意見の変化は
感情の拠り所がただ移動しただけに過ぎないようにしか私には思えなかったのです。意見を表出するトーンがかつての彼そのままだったから。
国家の問題。私には愛国心を肯定する人も忌避する人も、なにかそういう感情の澱に引き摺られ、その置き所を求めているだけのように見えることが、ままあります。
私は他者に働きかけるつもりはありません。そうした感情の拠り所のない自分、全てを懐疑することしか知らない自分が正気を失わないように努めるのみだけです。
それでは、さようなら。
それだけで十分かと。
けど哀しいかな、そういうのを拒む人々が大量にいることも事実。
未だに共産主義を語り、日本に内乱をもたらそうとか言っている電波も見た。
また、左翼に愛国心が無いというのは、こういう事やってるからかと。
http://www.jtu-net.or.jp/colume/pic_news/series/series15.html
嫌韓流で曝されたからか?
http://image.blog.livedoor.jp/lancer1/imgs/7/8/78c9959c.gif昔のやつを保存してあるのを見つけました。
修正前のはこちら。
会社も自分を愛してくれていると信じて、ぼろぼろになるまで働く方、どうぞご自由に。私はそんなにアホじゃありません、ってかんじでしょうか。
近代国家はただで愛国心を集めて、命を捨てさせる装置、という見解がありますが、愛国心を唱道している側は、酒池肉林ですから。一般信者は常に哀れですね。
luxemburgさま、初めまして。
>愛国心を唱道している側は、酒池肉林ですから。一般信者は常に哀れですね
こういう素朴な戯画化が、民衆をもはや食傷させるだけの効果しか持たぬことを、リベラル(私も大枠ではこの陣営に入るでしょう)がついに理解しようとしなかったことは、返す返すも残念です。
「革命の大天使」と呼ばれたサン・ジュストは、「恐怖は両刃の剣である。一方は圧制に奉仕し、他方は民衆に奉仕する」と恐怖政治を推進した指導的立場のパトリオットですが、奢侈を嫌い、朝食時に「フランスの国民議会議長がソーセージひとつで朝食しているのを見たら、ピットは何と言うだろう」と語ったといいます。
彼が民衆の愛国心を鼓吹しようとしたか否かは知りません。しかし「肥え太った支配層とそれに踊らされるだけの下々の愛国者」といった貧相な図式は、サン・ジュストのようなストイックな理想主義者にして、峻厳な秩序を以って国家と自己の同一化を希求する指導者を歴史が用意した時、まったく無力なものとなってしまいます。リベラルは、愛国心を蔑視すべきものとして揶揄するが故に、大衆の中にある言わば「美しい秩序との一体化を求める心性」からの反発を受けているのではないですか。
私は個々の民衆が国家なる秩序への自己犠牲的献身を希求するようなメンタリティを理解し得ません。ただしそういった心性を上から目線で「批評」したり哀れむような行為には、一種の蔑視が潜んでいると思います。蔑まれて心を開く人間がどこにいるでしょう?
基本的にコメント欄に書かれた、しかも知らない相手に明確な反論をするとエントリーを無視した、掲示板になるし、そもそも失礼だからやらないんですが・・・
> こういう素朴な戯画化が
残念ながら、戯画といえるほど悠長な話ではありません。その上その「戯画」は十分に行き渡ってないでしょう。食傷ぎみになるほど行き渡る前に大事なことに気付く人が出てくると思いますね。
私は、家族や親戚や友人が、平和で穏やかな人生を歩むことができるように、社会がよりよくなる事は望んでいますね。特に、病気や障害を持ったような時にでも、ちゃんと希望を持って生きていける社会になることをね。
それと同じように、中国や北朝鮮や韓国やアメリカやイスラエルやヒズボラやイラクなど、世界中の人々、特に子どもたちが、衣食住に困らず、希望する教育を受けられ、他人に命を奪われる恐怖を受けることなく自分の道を追求できる社会になることを心より願っています。
だからこそ、自分の子どもだけでなく、地域の子どもたちを世話する活動もしているし、地域をより良くする運動にも手を出しているわけですね。地域の自然や文化を子どもたちに知ってもらう運動もやってる。
しかし、国家を無理やり愛させる必要ってなんだろ?
それは、自分より国家が大事だっていう下らない思想を押し付けたいだけにしか思えない。つまり、「お国のために死ねる人」、正確には、「お国のためという名目で、人を殺し・殺されにいく人」を作る事ですね。私は、自分が殺されたくないのと同じくらい、他人を殺したくない。だから、国(郷土のことではない、国家体制の事)なんか愛さない。人を愛する。だから「愛人主義」(爆)なのだ。
ましてや、恥ずかしくて堪らない外交しかしてくれない政府のおかげで、海外で「日本人です」って言うときに、なんて気の引けることか・・・堂々と言えるようにしてくれよ!ってお願いしたいもんだ。
「愛は言葉ではない、「心の問題」」というのは、ある意味で当たっている。だが「愛国者」は言いたい。愛は、具体的な行動の問題であり、その基準は、人権である。簡単に言えば「思いやり」だ。それに反する愛国心は似非である。
「国を愛する心を育てるよりも、愛せる国をつくるのが先」なのは当然。「愛せない国」ってどういう国か、それが明確になれば、愛国心は明確になる。また「愛せる国」ってどういう国か。極めて具体的なことではないか。
「美しい国」を強調すればするほど、「美しくない国」を作ったのは「誰だ」という問いが問われなければならない。自分こそ美しい国を作るんだと強調すればするほど、墓穴を掘るように仕向けていかなければならない。
愛国心も全く同じだ。言葉の問題ではない。
「愛はおそらく人間の中で最も尊いもののひとつだが、諸刃の剣でもある」のも当然だ。愛の反対語は?そう憎しみだ。愛は与えるものだが、与えて与えても、愛を感じなければ、それは憎しみになる。この増幅する感情こそ、愛憎だ。
だがこのような言葉遊びのような話はやめようではないか!愛国心を語って語って、似非愛国心の化けの皮をはがす時だ。幸い安倍官房長官がその役割を果たしてくれそうだ。愛国心はいわゆる「ウヨ」の専売特許ではない!サヨもフツーの人間のものでなければ、自分達の国と国家は作れない!
誰もが心にいだく国を愛する心を分析解明し、日本を愛する心と同じだけ、他国も愛する心を抱くようにしようと自称愛国者たちに呼びかけよう。自分(の国)を愛せない人間は他人(他国)も愛せないから。
最後に国と国家、国土が糞と味噌を間違えるのと同じように間違って語られていることも見過ごすことはできない!