華氏451度

我々は自らの感性と思想の砦である言葉を権力に奪われ続けている。言葉を奪い返そう!! コメント・TB大歓迎。

「自分探し」と「自己実現」を嫌悪する(2)

2006-10-30 23:54:28 | 本の話/言葉の問題

 数日前に「自分探しと自己実現を嫌悪する」という記事を書いた(この日はエントリが2つあり、同記事は下の方)。この記事に対して、何人もの方からご意見を戴いた。中には、「異論」を述べてくださった方もあり、その異論がまたまた私を考え込ませた。私は賛成意見を戴くのと同じぐらい、異論も大歓迎である。むろんヒトを馬鹿にしたような口調で「わかってないんだよ、てめぇは。○○に決まってるだろ」的に決めつけるコメントや、単なる揚げ足取りなどは不愉快だが、「こんな考え方も出来るのではないか」「この部分は納得できない」等々の意見を聞くのはぞくぞくするほど嬉しい。ものごとをさまざまな角度から考えるための手掛かりになるからで、コミュニケーションの快感とはこういうところにあるのではないか。

〈(2)へ向けての序〉

 この記事に対して、何人もの方からご意見を戴いた。中には、「異論」を述べてくださった方もあり、その異論がまたまた私を考え込ませた。私は賛成意見を戴くのと同じぐらい、異論も大歓迎である。むろんヒトを馬鹿にしたような口調で「わかってないんだよ、てめぇは。○○に決まってるだろ」的に決めつけるコメントや、単なる揚げ足取りなどは不愉快だが、「こんな考え方も出来るのではないか」「この部分は納得できない」等々の意見を聞くのはぞくぞくするほど嬉しい。ものごとをさまざまな角度から考えるための手掛かりになるからで、コミュニケーションの快感とはこういうところにあるのではないか。

 今日はその異論を紹介しながら、もう1度私の考え方を整理してみたい。ただ、私がいったい何を書いたのかわからないと、多分話がよく見えないだろう。でも普通は「いちいち前の記事なんか読んでられるか、面倒臭い!」になるはずなので、記事の一部をコピーしておく。

《「自分探し」や「自己実現」。私はこの言葉を聞くたびに、嘘くささと嫌らしさを感じて鳥肌が立つ。自分探し? 探さないとみつからないなんてわけ、ないだろ。自分は今ここに、厳然と存在しているのだから。そして逆の言い方をすれば、「私は何ものであるか」「何のために生まれ、そして生きているのか」などという根源的な問いに対する答えなど、簡単に見つかるとはとても思えない。私も考えてみれば結構な年月生きてきたけれども、いまだに「自分という存在(と、その意味)」はよくわからないままだ。おそらく、死ぬまでわからないだろう。問うことそのものが、生きるということであるのかも知れない。(中略)自己実現」も同じことだ。私がいま、ここにある。私は私以外の何者でもない。それが即、自己の実現であり、日々生活し、自分の頭でモノを考えていくほかに自己を実現する方法はないはずなのに、なぜ蜃気楼を求めねばならないのか。》

〈「自分」は探せば見つかるのか〉

 以下、紹介するコメントも、途中を略してある。全文お読みになりたい場合は、10月25日のエントリのコメント欄を見てください)

【>いまここに存在している自分が、掛け値無しの自分なのだ     まことにごもっともなんですけれど、(中略)いまここに存在している自分が、掛け値無しの自分だと腑に落ちていない自分。そんな自分は、自分探しをするほかありません。そうせずにはいられないのではないでしょうか? それがたとえ嘘であっても、自分が空っぽであることを誤魔化すために塗り固めなければならない、自分。自分探しがダメなら、空虚な自分は誤魔化しようがなくなります。(中略)

>「庶民」の足腰が弱まりつつある     のはその通りでしょう。庶民が庶民いられる共同体が破壊され、人は孤独を強いられるようになってきています。人はそんなに強くありません。強くなるとすると、それは自分探しの旅路の中でです。(以下略)】(愚樵さん) 
 
【ここでは一刀両断の下に斬られた「自分探し」。 しかし、私は好きですね「自分探し」。 いえね。この歳になると「生きることと死ぬこと」がギリギリの接点でせめぎ合う時を肌で感じるのです。 そんな時ふと思うのです。 「人間ってなんだろう???
生きるとは何か? そして、今ここにいる自分とは何か」って。 そうしたら矢張り自分探しをするのです。 簡単に手放せない自分ってものと対峙します。(中略)  人は死ぬまで自分のことは分からない。 釈迦は分からないことは考えるな、討論するなと言われました。 が、釈迦でない私は迷うし、たゆたう。 そしてこんな自分が好きだと受け入れるために浅知恵でのたうちまわりながら自分を探している者がいるということも、どうぞお知りおきください。 】(せとともこさん

 う~ん。お二人の意見は、わかる気がする。確かにそうかも知れないと思う(私はひとの意見を聞くと、結構そうだなあと頷いてしまう人間なのだ)。おそらく私達は、 
死ぬまで見つからないとわかりつつも、 「自分とは何か」「なぜ生まれてきたのか」「自分に生きる意味はあるのか」という問いを続けているのだろう。言葉を変えれば、探し続けなければいられないのだろう。

 だが、それは「自分探し」ではない――と私は思う。少なくとも、世の中で広く言われている類のものではない。「本当の自分」というものが何処かにあるから探しましょう、見つかったらおめでとう、というものではあるまいと思ってしまうのだ。

「今ここに存在している自分が、掛け値無しの自分」と私は書いた。とは言え、その存在が腑に落ちているわけでもない。違和感もあり、これが自分かよと情けない思いもある。しかしそれでもなお、「今ここに存在している自分」と向き合い、付き合ってやる以外、荒野を旅する旅も始まらないのである。影法師を無くしたり探したりすることはできないように、私達は「今ここにある自分」以外の自分を探し出すことはできないのだ。そして「今ここにある自分」が自分であると思うからこそ、「自分とは何か」「なぜ生まれてきたのか」等々の問いも命を持つのではないだろうか。

〈不安を煽るかけ声〉

「自分探し」と並んで――というより、自分探し以上に嫌いなのが「自己実現」である。自己実現という「言葉」自体には、何の色も着いていない。プラス・マイナスどちらの意味もない、と言ってもよい。その点を取り上げたコメントもあった。

【これは言葉の定義の問題だと考えています。】 (村野瀬玲奈さん)

 村野瀬さんはいつも私の記事の不備を補うコメントを書いて下さったり、貴重な情報を教えて下さる方である。本当に感謝しているのだが、今回のコメントだけは頷けなかった。むろん、言葉というものは――特に抽象的なそれは、人によって定義やイメージがかなり違う。たとえば「焼きサンマ」と聞けば人によって思い浮かべるイメージは少しずつズレるだろうが、まるきり違うということは多分ない。「君が代」と聞けば、誰でもあの歌を思い浮かべるはずだ(好き嫌いなど、対象に抱く感情は別)。 だが、「愛」「信仰」「労働」といった抽象的な言葉は、人によっては天と地ほど違っていたりするのだ。

 だが、私が前回の記事で書きたかったのは、定義の問題とはあまり関係ない話である。「自己実現」という「言葉」には罪?はない。私もこの言葉自体が嫌いなわけではない。ただ、世の中で声を揃えて叫ばれる「自己実現」が、そして自己実現、自己実現と煽り立てる風潮が何ともおぞましいのだ。

 自己実現という言葉がこんなに広く使われるようになったのは、いつ頃だろう。少なくとも私の子供の頃は、日常的に使われる言葉ではなかった。学生の頃はどうだっろう? 時には使われていたかも知れないが、今ほど氾濫していなかったのは確かである。いつの間にか巷に溢れ、学校にも職場にも家庭にもテレビの画面にも溢れ、公園のベンチの隅やダイニング・テーブルの上やベッドの中にまで転がっているような感じになった。それにつれて軽く薄っぺらくなり、ほんの少し努力すれば誰でも出来る、出来なければおかしいもののようになった。そして、人を「自分は自己実現できていないのではないか」という不安に陥れる。不安に陥った人間は、何らかの「具体的な依りどころ」を示したい者達の格好の餌食になるのだが。

 最後にしつこく、前回も書いた文を繰り返しておこう……。 

《自分探しをしようよ、自己実現しようよ、と煽る根底には、「勝ち組/負け組」などという不潔な言葉でひとを選別するのと同じ思想が流れている。首尾良く自分をみつけられたら勝ち、自己実現できたら勝ち。これは露骨な競争である。 》

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16 コメント

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そうか、そういうことだったんだ! (こしよの)
2006-10-31 09:48:48
「何のために生まれて何をして喜ぶ、分からないまま終わる、そんなのは嫌だ」

子供たちの大好きなアンパンマンのテーマソングです。

子育てをする年齢になってこの歌を聴いたとき、なんだか気が重くなってしまった自分。感動しなきゃいけないのだろうけど、なんだか違うような気がしてた自分。

華氏さんのことばで、説明がつけられたようなきがします。ありがとうございました。

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Unknown (水葉)
2006-10-31 10:40:42
興味深く拝見しました。
TBさせていただきました☆
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Unknown (ろころこ)
2006-10-31 12:00:43
大学生の妹が悩みがあるといって寄って来たのですけれど、聞いてみると「私には夢中になれる夢がない」「みんな大学で探せばいいと言うけれど、見つかるとは思えない」「自分にそれがないと、不安で仕方がなくなる」というものでした。

私も、学校教育において、あたかも、ひとりひとりすべての人間にはあまねく夢中になれる夢があり、それを実現してこそ人生が完成するかのような印象を受け続けて来たので、彼女の気持ちがとてもよく分かりました。
大人になったらいずれ見つかるはずのものだったものが見つからなかったときのショック、「あれ?自然に見つかるものじゃなかったの?」という裏切られた気持ち。
そして、見つけられなかったのは、自分が「怠け」ていたり「努力が足りなかった」のかもしれないと悩んだり。
あるいは、小さなカベにぶつかる度に「これは私の夢ではなかったんだ、別に本当の私が輝ける場所があるんだ」と逃げ出してしまったり。

自己実現とやらをしないと、妹のように足場のないかのような不安にかられ、「自分の生きてる意味って・・・」と自己肯定感をも失ってしまいます。
私は自分が病気だったことがあって、そのときに自分が魅せられて来た夢などこうして予想外のアクシデント(病気)があれば、こんなに脆くも崩れさるものなんだということに気がつきました。

人生に失敗と成功があるって不思議です。勝ち負けがあるって不思議です。
私の病気は避けられないものだったけれど、自分なりに一生懸命向き合ってきました。それでも自己を実現できずお金もかせげないから、否応無しに「負け組」にされてしまうのだろうか。なんてばからしいカテゴライズなんだろう。
あなたが私だったら、この病気に耐えられますか?
そんな問いには意味がありません。人生は相対的なものではなくて、絶対的なものだと思っています。人より早く亡くなったから不幸だとか幸福だとか、病気になったからどうとか、関係のないことです。
誰もがたった一人、皆人生を歩むのは生まれて初めてで、誰もが初心者で・・・

とりとめのないことをつらつら書いてしまいました。皆様のきちんとした文章に比べて、とんでもないお目汚しになってしまって失礼しました。
書かずにはいられない気持ちでした。
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Unknown (通行人)
2006-10-31 14:36:10
ブログとは読者を意識し、読者からなんらかの反応を得られて初めて成り立つ双方向のやり取りでなければ、それは活字文化とはいえないように思われます。それは読者に結論を押し付けず、自分は此のことを、このように考えています。と、まるで白紙に描くスケッチのように、ある意味軽く、そして後に余韻を残すようなものほど共感が得られるみたいです。「自分探し」とか「自己実現」とかは、言い換えれば「主体性」のことをいっているのかな、とも思えなくもありません。だったら昔もさんざん議論された事柄ですし、それが己のアイデンティティに係わる事ならどうしていけないの、むしろ今の無気力社会にはとっても必要な自己認識じゃないの。という反発、これもありでしょう。ですから、言葉さらには対話によって理解し合えるとか合意に至るなどということは幻想なのかもしれません。言葉を尽くして説得してみたところで、他人の意見を変えることは難しいし、他人の生き方を変える事などまずできない。というところから出発してみませんか。
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そうか、「自分探し」は不自然なんですね (愚樵)
2006-10-31 22:08:21
拙宅へ寄せていただいた華氏さんのコメントと共に考え合わせてみて、わかりました(って、本当にわかったかどうか...)。

「自分探し」「自己実現」を求めるのは、不自然なんだというわけですか。

華氏さんは、自分自身の「存在」に揺ぎ無い自信を持っておられる。私の言葉で言えば、これこそ「自然」。だから理由は無し。
となれば、私の先のコメントは「不自然には理由がある」になります。「自分探し」「自己実現」を求めるのは理由があるんだ、と。


話は唐突に飛躍しますが、以前の華氏さんの記事で、華氏さんのご両親について触れられたのがありました。今でもよく憶えているのですが、その記事へのコメントに、私は大変失礼なことを書き込んでしまいました。
なぜ、あのようなことを書いてしまったのか、理由は私自身の中にあり、そのことはまた別の機会に詳しく書きます。が、とにかく、大変遅くなってしまいましたが、ここでお詫びを申し上げます。
華氏さんの揺るぎのない自信は立派なご両親が居られなければ、おそらくは得られなかったものでしょう。これは私自身の経験から思うのですが、自分自身への、理由のないゆえに揺るぎのない自信は家族からもらうものです。それをお持ちの華氏さんのご両親が、立派でないはずなんてないのです。残念ながらあまり立派とは言えない両親を持つ私には、それがわかります。

ほんとうに突然、すいません。このコメント、投稿するのは止めようかと迷いますが、意を決してクリックすることにします。
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自分探しをしている自分と,今に生きている自分 (はじめの一歩)
2006-11-01 00:11:19
の両方が自分の中には いるような気がします.ブログを書いている自分は少し前者に軸足があって,「やっとれん」と思いつつも仕事していて,そこから逃げたところでうまくいくもんじゃないと思っている自分は後者です.毎日,両者のせめぎあいです.
華氏さんが仰るとおり,「自分探し」と言っても簡単に結果が出るものではないですし,「自分探し」して簡単に得られた自分なんて,きっと誰かが用意した型にはまってしまって無意識のうちに自分を納得させてんじゃないの?と思います.そんなんだと,死ぬ時になって「だまされた」「違ってた」なんてことになりそうです.

主旨がだいぶずれますが,今日書いたエントリがちょっとは関連するかもしれないので,このあとTBさせていただきます.
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ただ存在する (dr.stonefly)
2006-11-01 01:31:18
前のエントリーでも、コメントしようとしたのですが、「投稿」をクリックしたとたんブラウザがダウンしてしまいました。きっともう一度考えろという啓示だったんでしょう(笑)。
ワタシも商品化された「自分探し」とか「アイデンティティ」とかいう言葉に、アホクサーと思っております。華氏さんが「ただ存在するだけ」というのもよーくわかります。コメント欄を読んで「ふむふむなるほど」と思ったのも一緒で、このエントリーを書かれたことも、内容も同感です。
同感すぎてコメントしても仕方ないと思ってしまいますが、せっかくコメントするのでもう少し。
ワタシも「ただ存在する」だけ、と思ってますが、以前本で読んだ「善く生きる」というのが、ひっかかっていて、「ただ存在」するのではなく「善い存在」とはどういう事か、というのはけっこう考えています。(これがワタシがブログを書いている理由かもしれません。)
「善い存在」を追求することが「自分探し」じゃないのか、と言われれば、別にそれでもいいんだけど、ワタシの感覚ではちょっとその言葉は違います、と、いった感じですね。
ちなみに前の記事で華氏さんが嫌いだと挙げられた言葉のうち、ワタシが一番嫌いなのは「選ばれた民」です。(宗教嫌いでもあります)
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死を賭して (ましま)
2006-11-01 10:02:27
こんにちは。ご無沙汰。TB深謝。
 見当違いならごめんなさい。私の祖父の代の「自分さがし」かな、と思う過去記事をTBさせていただきました。
 終戦直後、これはほとんど忘れられているが、「二十歳のエチュード」書き残して自殺した原口統三が、当時の若者にショックを与えました。
 私には、今の「自分さがし」がわかりません。食うのに精一杯でそんな暇はなかったみたいです。お遍路流行も「自分さがし」の一環なのでしょうか?。
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Unknown (アルバイシンの丘)
2006-11-01 11:09:59
こんにちわ.ご無沙汰.TB感謝.(と真似させてもらいました)
最近,『法隆寺の変』に関わりあってゆっくりお邪魔する機会がありません.
一読した感じでは,『常に変わることのない本当の自分がいる』という”信仰”めいたものに対する違和感を表明されたのでしょうか?
自分とは『常に変化し,あるところに留まってはおれない,常に”ゆらぎ”がある』”存在”なんだろうなぁと思っていますが,その”存在”たる自分は何なのか?と考え始めると堂々巡りですね.ほとんど何も産み出さないような気がします.
『法隆寺の変』が落ち着いたらゆっくり考えたいと思います.
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Unknown (おばーせ)
2006-11-01 11:26:14
華氏さん、はじめまして。
とても興味深く読ませていただきました。
コメント失礼します。

ぼくは今大学に通っているのですが、常に自分探しをしているという感覚でいます。
このあと社会に出るにあたって自分が何をしたいのかという問いに未だに答えを出せずにいます。
学校生活と社会生活の間には(甘ちゃんの自分にとっては特に、だと思いますが)凄くギャップがあるんだと、漠然とではありますがずっと感じていて、社会に出る前になんとかもがいて自分が納得できる道を歩みたいと今は思っています。

日々の経験や発見、また考えたことなどで、どんどん自分が成長していく、自分が変わっていく、という実感が好きです。そしてそれをさらに自分から求めることが「自分探し」なんだと思っています。
「自分探し」とは、今の自分と向き合ってさらに成長したいと思う気持ちの試みだと思うのですがどうでしょうか。

ぼくも水葉さんと同じで、「自分探し」という言葉に「露骨な競争」という意味は感じ取れません。

でも「自己実現」に関しては、ニュアンス的に、確かに結局実力がないとダメだ、という脅迫的な印象を受けるのでぼくも好きじゃないです。

青臭いコメントではあると思いますが投稿したいと思います。
長文で申し訳ないです。
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