華氏451度

我々は自らの感性と思想の砦である言葉を権力に奪われ続けている。言葉を奪い返そう!! コメント・TB大歓迎。

ひとは自分の経験を通してものを見る

2007-10-28 23:04:55 | 本の話/言葉の問題

 

 4日ばかり目玉が溶けるほど寝て暮らした……。「一杯のお茶と引き替えに世界が滅びてもかまわない(と思った)」という、ロシア作家の有名な一文をふと思い出す。まぁ、とてもじゃないがそんなカッコイイことは言えないのだけれども、ちょっぴり「目覚まし時計無視の熟睡と引き替えに……」という気分でありました。

◇◇◇◇◇

  先日、題名だけ紹介した家永三郎著『歴史家のみた日本文化』(発行・雄山閣)について、読みながら思ったことなどをメモ風に少しだけ書き留めておこう。【 】でくくった斜体の文章は、著書の引用である。

◇◇◇◇◇

 まずは内容の一部の紹介から――

「天皇制批判の伝統」という章の中に、こんな言葉があった。

ひとは常に自分の経験という色眼鏡を通して歴史を回顧するものである

いわゆる「国体観念」をこどものときからくり返し学校で吹きこまれてきた私たち戦前世代の人間は、天皇制を否定するものはごく少数の共産主義者だけであって、これに正面から批判的否定的な考え方が、共産主義出現の以前から日本の思想界の一隅に脈々としてつづいていたというようなことは想像もできなかった】という文の後に続く言葉である。(ちなみに著者は1913年生まれ)

 ある大学院の学生がおこなった「天皇制に対する意識」の社会調査について、著者は簡単に紹介している。それによると、40代から60代は天皇制を支持する人が多かったのに対し、80代では消極的・否定的反応を示す傾向が見られたという。ちなみに『歴史家のみた日本文化』が書かれたのは今から40年余り前、1960年代前半である。当時の80代は既にみな故人であるから、現在は「高齢者は天皇制に消極的・否定的」というわけではない。

 当時の80代は、明治20年以前の生まれである。まだ天皇制の権威が充分に確立していない頃に成長したため、天皇制に対して深い尊敬だの畏怖だのを持たずにすんだのだろう、と著者は語る。それに対して、著者自身を含む明治半ば以降に生まれた人々は、「国体の尊厳」で心理的にガンジガラメにされており、違った考え方もあり得るのだということに思い至らなかった――のだそうである。

 そして、大昔からずっと、日本人は皇室を崇めていたと思い込んでいた。表面的・形式的な文献だけ見れば、確かにそのように思えもした。

しかし、考えてみれば、古代や封建社会で書かれた文献というものは、すべて支配階級に属する人々か、そうでないまでも支配階級の文化の洗礼を受けた人々の手で書かれたものばかりであって

 被支配階級の人々が本当に皇室を崇めていたかどうかを明確に示す史料は、はじめから存在しないのだ、と著者は続ける。

(この後に、庶民の感覚を垣間見せる断片的な史料などが挙げられているが、紹介は割愛する)

◇◇◇◇◇

 冒頭に挙げた一文を、私は自分の頭のなかでこんなふうに読み替えた気がする。

「ひとは常に、自分が刷り込まれた価値観というプリズムを通してモノゴトをみる。歴史を見るときも、現実の事象を見るときも」 

 天皇陛下は神様です、太古の昔から日本人は天皇を尊崇してきたのですと教えられて信じ込んでいた「戦前世代」を、我々は嗤うことはできない。「日本文化って繊細だよね」でも「北朝鮮って怖いよね」でも、「自由ばかり主張するのは間違いだ」でも何でもいい、我々もいろいろなことを刷り込まれ、違った考え方が成り立つということに思い至らない。
 
 こんなことを言うと、おまえがギャアツク言ってること――たとえば愛国心は不要とか、憲法は改定するなとか、そういうのも刷り込まれてるんじゃねぇの?という批判もあるかも知れない。うん、あるだろうなきっと。

 しかしですね。うーん、さぼってここでも家永三郎の本から引用してみる。

支配階級はそれぞれの歴史的理由によって天皇の存在を必要としていた。だから天皇の地位はついに廃止されないで今日に至ったのであり(以下略)】

 支配階級、という言葉は違和感があるかも知れない。実は私もある。階級として鮮やかにカテゴライズされるものではなく、もうすこし輪郭の曖昧な、ぶよぶよしたつかみ所のないものだと思っているので……。だからここは、「オカミ、および表舞台の人達」と言い替えてみようか。

 オカミ、および表舞台の人達――は、自分達が是とする社会をつくるために(正しいか正しくないかということは、このさい関係ない。彼らにも彼らの考え方があり、私はそれを否認するけれども、否定しきることはできない)なりふりかまわず狂奔する。いや、なりふりかまわずってのは言葉のアヤでね、それなりにかまってるけれども。でも本質はやっぱり、なりふりかまわず――かな。で、彼らは金もある、地位もある、権力もある。大人と子どものレスリングみたいなものですよ。だからスタートとして、ともかく彼らの言うことは疑ってみる。それぐらいで、実はちょうどバランスがとれていると言っていい。

 声高に、シャワーのように浴びせかけられてくる価値観を、まず疑う。さもなければ、しらずしらずのうちにガンジガラメになるに決まっている。 

◇◇◇◇◇
 
「天皇制批判の伝統」の章のなかで、著者は、むろん明治政府が無から有を造りだしたわけではないと述べている。日本人の生活に深く根を張っていた天皇制の根源のようなものがあり、それが存在していたために、新しい天皇制の権威を築き得たのだという。では、天皇制の根源とは何か。

――というところでかなり酔いが回ってきたので、一時中断。続きは次回。 

◇◇◇追記(10月29日)◇◇◇

家永三郎って何者だ?というヒトのためにひとこと解説。(ある程度以上の年齢の人はよく御存知のはずだが、若い人は知らない……かもしれない)

5年ほど前に亡くなった歴史学者。東京教育大学で教鞭をとっていた。若い頃は体制翼賛傾向がつよかったことから変節漢とも批判されているそうで、そのあたりについては実は私はよくわかっていない。ただ、私の子どもの頃は「家永教科書裁判」(※)で名高く、私はこの裁判によって「教科書というもの」や、「国が教科書をチェックするということ」をボンヤリとではあるが考えさせられた記憶がある。

※教科書検定は違憲だとする訴え。南京大虐殺などについて記述した教科書が検定でハネられたことが、第一次訴訟をおこすきっかけだった。第一次から第三次まで三回の訴訟があり、30年以上を費やしてあらそわれた。第三次訴訟の最高裁判決が出たのは10年ほど前。

 

 

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子供に夢を (嫌われ、あくつ)
2007-11-01 00:58:15
30日に娘の通う公立中学校で、3年生の生徒が授業時間中に校舎から飛び降りるという自殺未遂がありました。
この学校では長男が3年生のときにも同級生が自殺しています。

昨日の新聞によれば、文部科学省は学習指導要領を改訂し、授業時間数を元のように戻すそうです。現行の指導要領で教育を受けてきた現在高校3年から中学1年、特に公立学校の子供に対し、いったいどのように詫びるつもりなのでしょうか。

教育こそが社会を変える力となる。
教育に不当な介入は許されません。
子供が将来に希望を持つことができる社会を作りたいです。

しぶちんさん、あなたの身近に子どもはいませんか。

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